地獄編
前章・辺境探訪
第276話 城壁が覗く
氷風が、吹き荒れていた。
常人ならば凍り付いて死んでしまうほどの冷たさ。常人でなくとも、大抵の武芸者ならば足も出ないはずの極寒。
立ち並ぶは氷兵たちだ。彼らは主が学んだ兵法を十全に体得し、たった一人でも金等級下位に位置する人間ならば圧倒する。
だが、そんなことは。
本当の実力者の前には、何の意味もない。
「恐らくだが、アイス、お前はもう殴竜四天王と比べても、ロマン以外には勝てる」
荒れ狂う氷風の中でもびくともしない影が、氷の嵐、並み居る氷兵たちの主たるアイスに向かってくる。
アイスは歯噛みして、腕を振るった。
氷兵たちは、彼に一斉に躍りかかった。アイスの魔法を纏い、剣に刻んだルーンをなぞって素早く切りかかる。
だが、彼は―――殴竜シグの拳の一薙ぎは、それを些事と言わんばかりに掻き散らした。
「誰もが認めるだろう。俺との訓練で、お前が一番強くなった。新たに三つの魔法を習得し、お前が無限に生み出せる氷兵は、たった一騎で金等級に匹敵する」
だからこそ。とシグは言う。
「だからこそ、不憫でならない。他のメンバーは全員俺に傷をつけた。だが、お前はその性質上そこに届かない。無数の金等級を生み出せるお前は、白金にも届きうるというのに」
シグがアイスの眼前に立つ。アイスは最後の手段とばかり「アブソリュート・ゼロ!」と絶対零度の魔法をシグに放つ。
だが、シグにそれは当たらない。
「俺とお前では、相性が悪すぎる」
容易く回避したシグは、アイスの背後から一撃を入れた。かなりの手加減を加えられた一撃でも、常人と変わらない肉体強度しか持たないアイスには十分だ。
吹き飛ばされ地面を転がる。衝撃に意識が明滅する。
その最中で、アイスは右手の甲に刻まれた魔法印を見た。思い出すのは、二つのこと。
『次のお前らの敵は、女王ヘル、北欧神話圏の魔王だ』
アレクが言った、次なる敵の話がまず一つ。それだけなら、何も問題はない。
だが二つ目に思い出すこととつながることで、アイスにとって大きすぎる意味を持つ。
『―――アイス、あなたに宿った神は、ヘルの名を関する神のようです。すなわち、あなたの魔法属性は、氷』
かつてカルディツァの魔法伝道師テレスが、アイスに魔法を授けた時、彼女はそう言った。それが、この二つの記憶が、アイスを混乱させる。
敵となる魔王、女王ヘル。アイスの変身魔法の対象である氷の神、ヘル。
何故名前が一致するのか。神と魔王は敵対関係にあるのではないのか。これから挑む相手は―――本当に魔王なのか?
アイスは混乱の中に、何度もかも分からない、意識の闇にのまれていく。
しばらく馬車に揺れる時期が続いた。
ビルク領を離れてから、二週間が経っていた。俺は春のうららかな日差しを浴びながら「くぁああ」とあくびをする。
それから、俺の膝を枕にしている二人の頭を撫でた。
左膝を枕にするのはモルルだった。むにゃむにゃと口を動かしながら「ぱぱぁ……」と寝言をこぼしている。
一方右膝を枕にするのはリージュだった。こちらはやはり育ちがいいのか、寝言一つ漏らさずスヤスヤと寝息を立てていた。
他の面々も、だいたい同じだ。目を閉じて休むロマン、ゴルド。小声でルーンについて会話するシルヴィアとテリン。御者席で馬車を操るウィンディという具合だ。
このメンバーも随分と打ち解けたものだと思う。最初は分かれていた馬車が、今では「面倒だから一緒で構いませんわ」とリージュが言ったことで一つにまとめられた。
あれだけ一緒に居て、ともに困難を乗り越えたのだから当然か、と俺は表情を緩めた。特にリージュは今では嫁の一人だ。……モルルはずっと反対しているが。
「皆さん、そろそろですよ」
ウィンディの声で、寝ぼけていた面々が薄目を開ける。俺は「お、とうとうか」と言いながら、モルルとリージュの頭がズレないように気を付けつつ、馬車の外に頭をのぞかせた。
そこから見えたのは、高い城壁だった。パッと見で俺でもどう攻めるべきか悩むほどの、圧巻の存在感を放つ、巨大な壁。
俺は口元がにやける感覚を抱きながら、呟いた。
「これが、あのアレクが建国した、アレクサンドル大帝国か……!」
アレクサンドル大帝国。俺がこれから仕える国。俺が貴族として所属する国。アレクが皇帝として君臨する国。
こういうと、何とも現実感がない。俺が貴族で、領地を持つとは。
そんな何とも言えないソワソワした思いで眺めていると「見えてきましたね。第一の城壁が」とロマンが起きだしてくる。
「総大将とウェイド君のパーティは、この近くで訓練していますよ。王も今日に合わせて、帝都からこちらに向かっているということです。恐らくもう着いているかと」
「え、待たせちゃったか。悪いな何か」
「いえ、王がせっかちなだけですよ。むしろ王よりも先につくと『俺よりも先に着くな』と叱られるくらいで」
「アレクも変な奴だな」
くつくつと俺たちは笑う。そうしている間にも城壁は近づいている。
「ほら、二人ともそろそろ起きろ。着くぞ、アレクサンドル」
「んむぃ……?」
「ふわ……おはようございます、ウェイド様」
まだまだ寝ぼけているモルルに、半目を開けて俺を見て微笑むリージュ。揃って可愛いなこいつら。何? 天使?
「あと五分……」
そしてモルルがぐずっている。
「ウィンディ、あと何分で着く?」
「数分もしない内には門の前に着きますよ、ウェイド様」
「じゃあダメだ。モルル、起きろ」
「や~あ~……!」
ダメだ、完全に寝ぼけている。
俺は「ワガママ言ってこいつめ~!」とモフモフの頭を撫でまくる。が、モルルはノーダメージだ。ぐぬぬ。寝ぼけたモルルは強敵かもしれん。
と思っていたら、リージュが「ウェイド様、モルルを起こすいい案がございますよ……?」とまだ眠そうに言う。
「お、マジか。じゃあ頼む」
「はい……! では、失礼して」
「ん?」
リージュが俺の顔を両手で挟んで、ちゅっと軽くキスをした。やり取りを見ていた面々はその大胆さに目を丸くしている。無論俺もだ。
とかやっていたら、モルルが飛び起きた。
「わ――――――! り、リージュ! 何やってるの!?」
「あら? おはようございますわ、モルル。何って、夫婦の軽い『おはようのキス』ですけれど?」
「だ、ダメ! そういうのはダメ! パパから離れて!」
「何でですの? ワタクシから申し込み、ウェイド様が承諾した以上、ワタクシは事実上のウェイド様の第四夫人ですわ。こうして傍にいるのも自然なこと」
「パパの腕に抱き着かないで! はーなーれーてー!」
ギャーギャーと騒ぐ二人を見て、俺含めてみんながクスクスと笑う。その最中で、リージュは俺をチラと見てウィンクした。
俺は肩を竦めて「将来何人の尻に敷かれるんだろうな、俺」と苦笑する。
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