第89話 桔梗28

「え、ちょっと!」


 どこに向かって話しかければ良いのだろうか。


「待ってください!」


 黒い霧はするすると部屋の隅にある通気口から流れ出ていく。

 そこに意味もなく手を伸ばすが、捕まえられるとはさすがに思っていない。


 こんなふうに吸血鬼としての力を見るのは初めてだ。今まではずっと話をしていただけだったからだ。

 本当に吸血鬼だったのか、と今更ながら実感する。


 どこに向かったのだろう?

 急がなくてはならない理由とは?

 先にここを出た三人に何かあったのだろうか?

 あれからしばらく経ったはずだが、保護したとの連絡はない。

 何かがあったのだ。

 やはり、全員ここで待つべきだったのだろうか。


 自分一人ここにいても仕方がない。

 とりあえず外へ出ようと踵を返す。すると背後から公主の声が聞こえてきた。


「ついてくるなら、窓からでも出ておいで」


 まるで耳元で囁かれたかのように感じた。勢いよく振り返るが、そこにはもう誰もいない。


 深呼吸をしてから扉に手をかけて廊下へ飛び出す。


 ついてくるなら、ということは、私がついていける場所。そんなに遠くへは行かないというだ。だとしたら廃校の敷地内だろう。


 近くの窓にはカーテンと、板が貼られてあった。

 ここから出るのは面倒だ。

 しかし三人が出たと思われる裏口の場所はすぐにはわからない。

 近くで誰かの話し声が聞こえた。

 あちらには行かないほうが良さそうだ。


 少し離れた場所に外が見えている窓があったので、そちらに走る。

 鍵は開くようになっているだろうか。廃校ならもしかしたら、窓自体開かないようになっているのではないだろうか。


 途中の教室から、椅子を二脚持ち出す。

 目標に近づくと一つは窓に向かって思い切り投げ、一つは床を滑らせる。

 窓が割れた。

 滑らせた椅子を踏み台にして窓から外へ出る。


 幸い、着地したのは柔らかな土の上だった。

 そのまま走り出す。

 手足がピリピリとする。

 窓枠に残ったガラスの切っ先で、身体のあちこちが切れたようだ。

 気にしないようにしよう。

 傷が深いことを確認してしまったら、もう走れない。


 開けた場所にとりあえず向かおうと、校庭へ進む。が、途中で足が止まってしまった。


 頭がそれを理解するより先に、身体が反応した。

 冷たい手で心臓をひと撫でされたような心地。

 傷の痛みも気にならない。

 肩に力が入る。

 ゆっくりと息を吸った。

 夏であるにもかかわらず、冷たいとすら感じる空気。でも、それは神聖であるともいえる。


 ああ、あれだ。

 神様だ。


 そうか、公主は神様に対応するために出ていったのか。

 それなら大丈夫。

 ここには大勢の人がいる。自分一人だけが目をつけられるなんてことはない。

 だから大丈夫。

 そう自分に言い聞かせる。


 校庭は木々に遮られてよく見えない。

 あんなに騒ついていたのに、今はとても静かだった。

 あのチャイムが終わりの合図だったみたいだ。


 ゆっくりと校庭へと歩く。

 芝生と仄かに光っているかのような白い砂が広がっている。


 誰もいない。

 視線を夜空に移す。


 随分と高い位置にいるけれど、その姿はよく見えた。

 公主に身体を支えられた森咲もりさきトオルと、その二人と相対する位置に神様がいる。


 神様は虚空で、まるでそこに椅子があるかのように、足を組んでいた。

 横柄な姿勢であるのに、不作法には見えない。


 森咲トオルは目を閉じていた。

 死んではいない。死んだら身体は砂になるのだそうだから。


 公主と神様が何か話しているのが、風に乗って聞こえてくる。けれど、内容はわからない。

 冴島さえじま理玖りく永廻ながさこ恭子きょうこの姿がないのが気にかかった。

 彼女に電話をかけるか、あるいは校舎に戻って探すべきだが、今動くと、神様に姿を捉えられてしまいそうだった。


 風が吹いて砂が舞い上がった。

 目を片手で覆う。

 目を閉じる。

 次に目を開けたときには、神様はいなくなっていた。


 ほっとしてため息が漏れる。

 そこへ公主の声が空から降りてきた。


「トオルのことを頼めるかな?」


 私の傍に着地すると、森咲トオルを地面に下ろす。

 見たところ目立った外傷はなかった。

 小さく胸が上下しているのを見て、妙に安心する。


「簡単には死なないからといって、無謀な戦法を取ったんだ。血が足らなくなっているんだよ」


 公主は慈愛のこもった眼差しを森咲トオルに向けている。


伊織いおりに連絡してもらえるだけで構わないから」

「はい。それは大丈夫ですが、どうしてこんなことに?」


 私の知らない因縁でもあるのだろうか。彼らが戦うのは、確かこれで二度目のはず。


「さてね……トオルの足止めをしたかったのかもしれない」


 それは私の質問の答えであるはずだったが、独り言のように聞こえた。

 どういう意味なのかわからない。


「あの、理玖くんと恭子さんは?」


 違う問いを投げかける。

 そこで公主が森咲トオルから私へと顔を向ける。

 一瞬だけ目が合う。

 失礼を承知で目を閉じて、視線を逸らす。


「大丈夫……とは言いがたい」


 どきりとする。


「いや、死んではいないよ。うん、きみは少し悲しい思いをするかもしれないけれど」


 優しい声色だった。

 そして一呼吸おいて続ける。


「すべては自身の選択によるものだ」


 公主に促されて、森咲トオルを抱え上げる。

 気合を入れたけれど、想像していた重さの半分くらいしかなかった。


 校門のほうへと移動する。

 公主はついてこなかった。

 途中振り返ると、公主は変わらず同じ場所にいた。

 遠くから見ると、保護者とはぐれた小さな子供のようにしか見えなかった。

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