第66話 理玖23

 それがこの女の人の名前なのだろうか。


 でも女の人は聞こえなかったみたいに、そのまま公主のほうへ歩いていく。


 目は怖いくらいまっすぐに男の人を見ていた。

 男の人もすっと視線だけで女の人を捉えた。


 立ち止まる。

 無言。


 ぴりぴりとした空気だ。

 少しでも動けば、静電気みたいに痛みが走るかもしれない。


 息もうまくできないくらいの緊張。

 何が起こるのかわからない。


 公主の言っていた『こちらの用』というのは、このことなのだろうか。


 公主は目を少しだけ閉じて、床の辺りを見ている。口元はうっすらと笑っているように見えた。


 僕は三人を順繰りに見ていく。一人は背中を向けているから表情はわからないけれど。

 何周も続けていると、しばらくして公主の眉がそっと動く瞬間があった。

 目を開いて、視線を上げる。


「……違うね」


 公主が言った。


 女の人はその言葉で男の人から視線を外したようだった。

 肩の力が少しだけ抜けたみたいだ。


 そして公主を見てからひとつ頷いて、来たときと同じように、僕たちには目もくれずに部屋から出ていった。

 真剣な表情だった。

 唇を引き結んで、もう次の事柄に集中しているような顔だった。


 扉が閉まる。

 帰りの靴音は、さっきよりも隔が広かった。走っているのだろうか。


 女の人は男の人に会うために来たのだと思ったけれど、結局女の人は何も話さなかった。


 違うってなんだろう。

 あの男の人ではなかったということか。

 それは僕たちがさっきやったことに似ているのではないか。


「もういいよ。ご協力感謝する」


 公主がそう言って、魔法がとけたみたいにようやくみんなが動き出した。

 公主が手を放したのか、男の人は少しだけ公主から距離をとる。


「復讐か……」


 そのとき初めて男の人の声が聞こえた。


「もう遅いよ」


 公主が笑って返すよりも早く、男の人は床の水たまりに飛び込む。

 僕は咄嗟に走る。

 目の前で男の人が消える。


「理玖!」


 トオルさんの鋭い声が背中に刺さったけれど、止まれないまま水たまりのそばまで駆け寄って、そっと水を覗いた。


 水面が揺れている。

 鏡のように僕の顔が映っている。

 水ではない。水ではこんなにはっきりと姿は映らないからだ。


 顔の横にそっとペンが差し出された。


 公主だ。


 僕はペンを受け取ると、おそるおそる水たまりに差し込んでみる。

 けれどすぐに床についてしまった。


「中に入れないかい?」


 公主にそう聞かれたので頷く。


「残念だ」


 僕はハンカチで拭いてから公主にペンを返した。

 公主はペンを受け取ると、そっと僕に顔を寄せる。


「すぐにここを出るんだ。ちょっと危ないことが起こる」


 僕は驚いて公主の顔を見ようとしたけれど、あの瞳がすぐ近くにあったので、そのまま動かずにいた。


「あの女の子と一緒に。トオルに守ってもらいなさい」


 言い終わると、今度は僕の上に声をかける。


「聞いていたね?」


 近くにいたトオルさんに向けてだ。


「はい」


 トオルさんに手を借りて立ち上がる。


 危ないことってなんだ。


 扉のほうを見ると、桔梗さんがいつの間にか部屋の隅で電話に出ていた。

 慌てた声をしている。


 遠くで音がした。

 そして悲鳴。


 恭子さんが不安そうに僕を見る。

 僕は恭子さんの手をとった。

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