第55話 桔梗17

 残っていたアザミさんに彼のことを報告する。


 うまく説明できなかった。


 いつのまにか見知らぬ男性が資料室にいた。私のことも、九州へ向かうことも知っているようだった。気づいたときにはいなくなっていた。

 そして、あくまで私個人の感想として、とても恐ろしくて、人間であるようには見えなかった、と伝えた。


 私の話を聞くと、アザミさんは即座に電話をかけ始めてしまった。何件も。

 私は帰っても良いものか迷ったが、待機するように目で合図された。


 徹夜かもしれない。


 飛行機の中で眠ることができるだろうか。飛行時間はおそらく一時間半くらいだろうから。


 手持ち無沙汰になった。

 やらなければならないことは山ほどある。それに手をつければ良いだけの話だが、どうにも自分のデスクが遠い。物理ではない、心の距離である。


 私は資料室に戻った。

 誰もいない。

 彼はなぜここにいたのだろうか。そう疑問に思った。


 ボタンと呼ばれる捜査員のことを気にしていた。ある程度事情も知っているようだったが、彼女が当庁しないことは把握していなかったのだろうか。


 気まぐれ?

 あまり人間の物差しで測らない方が良いかもしれない。


 棚と棚の間を一つ一つ見ていく。と、一冊のファイルが床に落ちていた。


 これ見よがしではないか。


 他のファイルと同じ種類。ラベルには何も書かれてなかった。


 普段使われない資料室とはいえ、こんなふうにファイルが落ちたまま数日経ったとは考えにくい。誰かしら気づくはずだ。埃も積もっていないし。


 手に取り、ページをめくる。

 事件についての資料のようだった。


 私は携帯電話のムービーで最初のページから録画していく。

 全てを撮る前に名前を呼ばれた。途中だが諦める。


 ファイルを棚に戻そうとしたが、もともとどこに入っていたのかわからなかったので、適当に隅に入れた。



 アザミさんの話では、朝の便で九州に向かうことに変更はなし。

 ただ今後の動向によっては、森咲トオルには会えないかもしれないとのことだった。


「その場合、私は向こうで何をすれば?」

「森咲トオルが現地で何をしていたのかを探ること。あとは、まあ、事故処理かな」

「事故処理」


 オウム返ししてしまった。頭が働いていない証拠だ。


「彼が森咲のところに向かった可能性がある」

「それが大事故に繋がると」

「うん。もしくは、大災害」


 自衛隊が行うような人命救助などが頭を駆け巡った。私が救助されかねない。


 あの彼にはたしかにそれくらいのポテンシャルはありそうだったし、たとえば森咲の死体を持って帰ってきてもおかしくはない雰囲気があった。


「万が一ではあるけどね。それに、起こったときはきみだけでは処理仕切れないだろうから、他の捜査員も合流させるさ」

「わかりました」

「うん。じゃ、おつかれ」


 そこでようやく家に帰ることになった。

 朝は七時半の便だ。

 帰って入浴して出張の準備をして、羽田には遅くとも七時には到着するとして、と考えていくと寝ている時間はぎりぎりある。

 でも起きられなかった場合が恐ろしいから寝ないことにした。


 学生時代に寝坊したことは数度ある。明日が警察官になって初めてになるかもしれない。それは嫌だ。


 部屋に戻ると諸々の準備をしてから、資料室で撮ったムービーを見た。


 一番最初は週刊誌の記事のコピー。

 五年前に起こった殺人事件についてだった。

 二十代女性のご遺体が都内で発見された。そして犯人は警察官である可能性が示唆されていた。


 だが、その記事だけがあって、続報はファイリングされていない。

 週刊誌の名前と記事の日付を覚えておく。

 続いて新聞の記事。ご遺体発見の通報を受けた警官の日誌等。


 このファイルは、あの資料室のものではない。


 誰かがこの殺人事件についてのあらゆる情報を集めていたのだろう。

 何のために?

 そして、どうしてあそこにあった?

 あの男性が置いていった?


 被害女性の写真が最後のほうに映っていた。


 綺麗な顔立ちの女性だ。

 唇の端に小さなほくろがある。

 名前は榎木丸梓。


 この容貌と、苗字には覚えがある。


 無愛想で素っ気ない態度。

 公主の眷属の青年。

 

 彼の苗字がたしか、榎木丸だったはずだ。


 二人の面立ちは、とてもよく似ていた。

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