#25 君がいればなにもいらない




『月下には雨。踊る妖狐』のMVを見て素直にいいなって思っていた。

いつかトラウマが取り払われて、俺もこんなふうに踊れるんじゃないかって漠然ばくぜんと考えていた。

顔にできたオデキのようにいつか自然と消失して、何事もなかったかのように踊れるんじゃないかって思っていた。



そして、ダンススクールでは。

淡い期待を胸に……隅で眺めていた。



いつも人の目が怖くて……物語の世界に逃げ込んで——世界から目をそらして。

ひどく臆病だから強がって。



心のどこかで分かっていたはずなのに。

自分から踏み出さなきゃ、克服できないことを知っているのに。



怖いのは踊る行為そのものじゃなくて……俺を見る、みんなの目なんだってことくらい理解しているはずなのに。



見るな……俺を見るなって牽制して。

それでもどこか、誰かに手を伸ばして。

夏音の言う通りだ。

孤独が辛いのに、いつも独りを気取って。

何も言わなくても支えてもらえる存在がいたから、こうして威張りくさって生きていられるのに。



「秋乃ちゃん、大丈夫だから。春くんは死なないから準備しちゃって?」

「で、でも……」

「信じて? 大丈夫」

「……はい」



秋乃がキャンピングカーに戻っていく後ろ姿がなぜか弱々しかった。

あいつ……まだ緊張しているのか?



「春くんほどじゃないけど、秋乃ちゃんも怖いんだと思うよ?」

「え?」

「だって、今でも大炎上中なのにMVに出るって言って聞かないの。秋乃ちゃんは踏み出そうとしている。本当はアニメでいいのに踊るって。これはね、秋乃ちゃんの意思なの」

「秋乃が……?」

「また叩かれるのを分かってるのに、逃げないって。すごく怖いけど負けないって」

「……俺カッコ悪いな」

「無理しなくていいんじゃない? 春くんは春くんのペースでいいと思うよ? それに、ダンスだけがすべてじゃないし」



いや……それじゃダメなんだ。秋乃はどんなに恐怖に打ちひしがれていても、こうして戦おうとしているのに、俺は全く動けなくて。

息が吸えなくて。

これじゃ、あいつを馬鹿にできねえじゃん。



「俺……踊りたい」

「無理しないでいいよ。春くんが踊れる機会はこれからもあるから。ね?」

「一回だけでもいいから……母さん、チャンスをくれない?」



母さんはため息交じりに頷いてスタッフに合図をした。

無理言って踊らさせてもらうことにしたんだけど——白い衣装に着替えて仮面を被ったら震えが一層止まらなくなった。



俺を見る目がどこか歪に見えて。

まるで俺を卑賤視ひせんししているんじゃないかって思うと隠れたくなる。



振り付けは普段からスクールで見ている振りよりも遥かに簡単で、難なくその場でぐに覚えることが出来た。

単純な動き。それに頭が理解するより先に音楽に合わせて身体が無意識に動いていく。

砂浜で踊る自分を思い描いて、振り付けの断片的なシーンが結像するように。

頭の中で構築されていくステップのラインが弧を描く。



「ね、ねえ……本当に無理しなくてもいいよ? ごめん。付き合わせちゃって。踊れればいいね、なんて充希先生と社長が言っていたから……わたしも簡単に考えてた…‥で、でも、あんなことになっちゃうなんて。もし春高になにかあったら……わたし」

「バーカッ!! 俺は、本当はダンスだって出来るし、逃げたりしねえ。秋乃は自分の心配してろって」



まさかダンスをする羽目になるとは思いもよらなかった……けど、あのとき、まだ状況を把握できていなかった俺の吐いたセリフを母さんと飛鳥さんは覚えていたんだ。



『俺……怪我させちゃったからもうダンスできないの?』



あの日、俺はすべてを失った。母さんは泣いて俺に謝った。飛鳥さんは無言で俺を抱きしめてくれた。力が及ばなくて申し訳ないって二人とも何度も俺に謝って。

けど、そうじゃないのは分かっていた。ガキながらに理解していた。

自分の不注意が原因なのに、誰かのせいにして。



その後、結果的に踊れなくなった。世間に叩かれて、どこに行っても白い目で見られて陰口を叩かれて。



調子に乗ってダンスなんてしやがって。子役だからって許されると思うなよ。ダンスなんてしなければあの子の目も無事だったのに。倉美月春高? ウザ。

死ねばいいのに。クソガキ。

お前の目も潰れちまえ。



そう。ダンスは関係ない。自分自身の問題だ。

秋乃は、俺と同じように大炎上しても怯まず一歩を踏み出そうとしているじゃねえか。

なんで秋乃にできて俺ができねえんだ。



「春くんは踊ってもいいの。春くんからダンスを取り上げる権利なんて誰にもない。春くんが踊りたければ踊っていいの。今度はちゃんと守るから。お母さんを信じて?」

「大丈夫。私を信じて。今度は何があってもあなたを守る。絶対に。だから何も心配なんてしないで、思いっきり踊ってみせて」



母さんと飛鳥さんが背中を押してくれた。

いや、自分の力でなんとかするよ。

それに、秋乃の前で弱みなんて見せられるかっつうの。



「そういえばこの曲のタイトル聞いていなかったな?」

「言ってなかったか〜〜」

「教えろ」

「『君が味方なら僕は負けてもいい』だよ」

「なんだそれ」

「君がいれば、君だけ分かってくれれば僕は何も望まない。だから。そばにいてくれる?」

「歌詞か」

「うん。自分自身に言い聞かせてるみたい。本当は、わたしも怖いよ?」

「ならなんでMVに出るなんて言ったんだよ。俺まで巻き添えにしやがって」

「……ごめん。でも、しっかりと生き様をみんなの目に焼き付けてやらなきゃって思っちゃったの」

「……そうだな」



歌詞の意味も、秋乃の言葉も……今の俺には理解できる。

そうだよな。ああ、俺は生きているし、やりたいことをやってもいいんだよな。

たとえ世界中の誰もが俺を非難しても、分かってくれる人がいる。



「わたしは……春高の味方でいてあげる」

「こっちのセリフだろ、それ」



こいつはきっと憎まれ口を叩きながらもそばにいてくれる。

それだけでも贅沢なことじゃねえか。



また手が震えてくる……。



撮影の準備が整ったらしい。

深く息を吐いた。


ああ、ダメだ……足までガクガクしてやがる。

汗が尋常じゃねえ。

クソッ!! 力が入らねえ。



「春高——ね? 大丈夫だから。わたしも同じ。君がいるなら負けてもいい。けど君といるならきっと負けない。わたしは君と同じ。だから普遍的な愛なんて簡単な言葉で殺さないで?」

「なんでお前に励まされなきゃいけねえんだ。って口ずさむな。その歌詞はなんだか恥ずい」

「いいの。気分を乗せているだけだから。こんなに震えちゃって」

「お、お前もだろ」



あの頃のユーナに俺が掛けた言葉か。

それは俺が言うべきセリフなのにな。



『大丈夫だ。俺に任せろ』



秋乃の手が俺の手に重なって。握られた秋乃の手も少しだけ震えていた。

自分だって怖いくせに。



アンプから流れるオータマの歌声にステップを踏む。俺と秋乃が交互に互いの影を踏み背中合わせに回転を加えて、伸ばした手で空を掴む。そっと触れた仮面を撫でる秋乃の、憂いを浮かべた表情に。その頬に。俺の指先が——触れる。



転瞬。



秋乃の顔つきが変わった。まるではかなげな感情に泣き崩れそうな少女を模すように、秋乃は取り憑かれたように。スイッチが入りやがった。

月下には雨。踊る妖狐のオータマのように、九尾の狐ではなく、今度は悲恋ひれんを浮かべて歌う少女のように。憑依した少女が愁嘆しゅうたんの色をにじませる。



三軸ジンバルに乗せた一眼ミラーレスカメラが横から迫り、けれど秋乃は全く気にする様子はなく、ピルエットの際、横目で俺を見ていく様はまるで流し目のようで、回転の終わりに再び俺に手を差し伸べた。



背中越しに倒れ込む秋乃は半目で憂いの色を映したまま、救いの手を伸ばす。俺を信用していなければ絶対にできない振り付けだ。もしタイミングが合わなければ転倒の危険すらある。

しかし、秋乃は躊躇ためらうことなく、重力に身を任せて背中から落ちた。

軽い体躯を受け止めて互いに見つけ合う。



そのまま秋乃が俺をそっと抱きしめて囁く。



「君がいればなにもいらない」



演技だとしてもゾクッとした。

耳元で囁く言葉は、MVでは聞こえないはずなのに。



踊り終えた。

俺を信用してくれたってことだよな。



完璧とはいかないまでもやりきった。

また震えてくる。

今度は……嬉しくて。

喉元に落ちる涙がどこか苦くて、口をきつく結んだ。

嗚咽を上げないように。



「がんばったね。春高」

「お前もな」



なんと一発オッケーだった。

二人ともおどおどしている様子が伝わって、けれどそれが曲に合っていると言われた。

MVを観た人からはむしろそういう演技でダンスをしていると思われるだろうから、これは神掛かっているとまで監督に言われた。



褒めすぎだろ。飛鳥さんの前だからって。



「春高、おつかれ」

「あ、ああ。サンキュー」



秋乃が投げてきたポカリを受け取って口に含む。

今さらペットボトルを持つ手が震えるなんて。

本当に情けない奴だな。俺って。



「映像確認した?」

「いや。いいや」

「見たほうがいいよ? 春高……春高じゃないみたいだった」

「は? 情けねえのは知ってるからわざわざ言うなよな。みっともねえ」

「——違うけど。褒めてるの。まるで取り憑かれているみたいだった。曲の頭はドンピシャなのに、終わりは敢えてズラすとか。なにあの技」

「……そんなことしてたか?」

「うん。本当にカッコよかった」

「お前絶対に馬鹿にしてるだろ」

「してないって。ほら、見せてもらいに行こうよ〜〜〜」

「嫌だよ、離せッ!!」

「もう強情なんだから」

「どっちがだ、このアホッ!!」

「なにがアホよ……このクソオタクッ!!」

「オタクはお前もだろうがッ!! 付き合ってやったのにヒステリックに怒りやがって」

「ヒステリックって……頭きたッ!! もうラノベ貸してやんないからっ!」

「望むところだ……もうお前に協力なんてしてやらねえからなッ!!」

「「ふんッ!!」」



小突き合いながらカメラマンの元に行って、結局映像を確認した。

確かにマジックアワーの幻想的な青と紫と、わずかなだいだいが空に溶けていて、その世界の中で二人きりでダンスをしている光景は、控えめに言っても素晴らしかった。

自画自賛するつもりはないが、世界観が違う。


華奢きゃしゃで壊れそうなガラス細工を抱きしめるようなダンスと表現した監督の言葉通りだった。



秋乃がとなりで笑う。

春高、ね? いいでしょ。

わたし、宝物にする。



なんて。意味分かんねえ。




でもまあ。



……ユーナの頃とは違って、強くなったな。



秋乃。




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