口ずさむ歌

天宮さくら

口ずさむ歌

 この間行われた大学受験の模擬試験結果を受けて、私は硬直してしまった。

「B判定かー。もうちょっと頑張らなきゃだな」

 隣でそう呟く友達・真希の声に、私は曖昧にしか反応できない。すごいじゃんとも言えないし、そうだねとも同意できない。ぎこちなく頷いて彼女の横顔を見ることしかできなかった。真希は私の反応が鈍いことには気づいていない。悩ましそうに眉を寄せてテスト結果の反省点をぶつぶつと呟いている。

 高校二年生の冬休み明け。学校がセンター試験の模擬試験を調整し、そのテストを受けたのが先週のこと。結果が返ってきたのがたった今。三年生は明日、センター試験本番を迎える。

 私に返却されたテスト結果は思いのほか酷かった。希望大学に入学できる可能性はD判定。大学は真希と同じところを希望している。このままいけば真希は希望大学にすんなりと合格できそうだけど、私は無理だ。二年生の冬を迎えた今、ここから努力して希望の大学に合格できる自信が、私にはない。

 ………どうしよう。

 自分のこれからを想像して恐怖が襲う。それと同時に、いつも口ずさむ歌が頭の中でリフレインした。その歌は全部で一分足らずととても短い。何度も何度も頭の中で歌が流れて、私は自分の無力さと馬鹿さ加減を痛感した。



 外は細かな雪が舞っていた。肌に落ちると一瞬で消えるくらいに儚い雪で、私はその寒さに震える。

 学校を出て塾へと向かう。通りには私と同じように塾に向かう生徒が多数いて、彼らは私と違い、どこかほっとした表情をしていた。

 ───彼らはテスト結果が良いものだったに違いない。

 それを思うと私は胸の中に広がり苦い気持ちで押しつぶされそうになった。

 塾には去年の夏から通っている。母が私のおバカ加減に危機感を抱き、半強制的に入学させられたのだ。勉強嫌いな私は初め塾に通うのに積極的になれなかったけれど、最近は焦り始めている。

 私って思った以上に馬鹿なんだな、と気づいたから。

 私が通う塾は東大・京大に現役合格する人が毎年数人輩出されている。個別授業を売りにしている塾で、入学すれば自分に合った担任の先生がつく。その人とマンツーマンで苦手を克服し、希望大学に合格できるよう努力するのだ。

 塾の玄関前には大量の自転車が置かれており、その側は生徒たちで溢れかえっていた。ある子は楽しそうに話をしているし、ある子は私と同じように苦々しい表情をしている。誰もが明日のセンター試験をどこか不安に思っていて、でもそれはまだ先のことなのだと慰めあっていた。

 私は玄関に近づかないで、少し離れたところで立ち止まった。そしてテスト結果をカバンから取り出してもう一度確認する。今日はこれを担当の先生に見せ、今後のことを話し合うことになっている。

 ………見せたくない。

 何度見ても結果は変わらないというのに、私は「もしかしたら見間違いだったのでは?」と期待を込めて、何度も繰り返し開いては確認している。けれどもちろん結果は変わらない。太文字でD判定と印字されている。

 塾の入り口から少し離れたところでそれを再確認していた私は、思わずいつもの歌を口ずさむ。自分にしか聞こえない小さな音量で、そっと歌う。全部で一分足らずの短い歌。けれどメロディーの悲しさと歌詞の無力さが哀れで、胸が締め付けられる。一度聴いたら忘れられない、私にとって特別の歌。

 私がその歌と出会ったのはアニメ映画だった。そのアニメ映画は、テレビシリーズを長期に渡って放送している国民的アニメの劇場版。お下品なアニメで、お母さんは私がそれを見るのをいつも嫌がっていた。けれど私はお下品以外のところに描かれている友情や家族愛が大好きで、リアルタイムのアニメだけではなく劇場版も隙を見ては鑑賞していた。

 歌は、古い劇場版作品にあった。絵柄が今風ではなくて、むしろ手書き時代のものだと思う。内容は一見可愛らしく見えるのに、出てくる敵がどれも不気味で怖かった。家族が囚われて一人になってしまう描写に、自分の身に同じことが起きたらと思うとゾッとした。

 歌は作品の初めの方に登場した。ヒロインがまだ敵に操られている時に歌うのだ。くるくると中身が空っぽのお人形のように動きながら歌うそれは、自分の無力さを嘆いているようで可哀想だった。

 ヒロインは最後にハッピーエンドを迎え人形から元の人間に戻るけれど、私には歌のインパクトが凄すぎて映画内容をよく覚えていない。歌ばかりが記憶に残っている。そのせいか、寂しいときにはそれを何度も口ずさみ、悲しい気持ちに浸る自分をほんの少し慰めた。

 一分足らずの短い歌。それを歌い終えて私は勇気を振り絞る。この結果を見た先生はがっかりするだろう。もしかしたら少し怒るかもしれない。あれだけ懇切丁寧に勉強を教えたのに、どうしてD判定なんか出してしまったんだって。それを想像すると、とても申し訳ない気持ちになる。だから、もしそう言われたらあの歌を頭の中で口ずさもう、と心に決める。

 私は逃げ出したい気持ちを抑えながら塾へ入った。



 私担当の塾の先生・谷村先生は、私が持ってきた結果を見てなぜか頷いた。そうだよねーと相槌しそうなくらい迷いのない頷きで、予想外の行動に気持ちがさらに落ち込んだ。

 ………先生からしたら、この結果は当然だったのだ。

 私はどんなに悪くてもC判定だと思っていた。だって夏からずっと塾で勉強をしてきたのだ。苦手な部分を明らかにして、必死に克服しようと努力してきた。その努力が実ってC、もしくはB判定が出ると思ってた。それなのに結果はD判定。そして先生はDで当然と考えていた。それはつまり、先生からしたら私は相当なおバカだと認識されていた事になる。それが………何故だろう。裏切られたような気がした。

「Dかー。なかなか厳しい結果が出たね」

 谷村先生の言葉に私は俯く。顔を見たくないと思った。

 谷村先生は県内で一番優秀な人が集まる大学に通っている。確か、今は二年生。シンプルでおしゃれなメガネをかけている男性で、大学では教育学を学んでいると聞いている。そして、ほんの少し私の好み。だから進学希望の大学は、真希と同じで、且つ、谷村先生が在学している大学だ。

 そこがD判定だった。それが恥ずかしくて、悔しい。

 俯く私を谷村先生は気にしない。試験の問題用紙を開き、私のミスを一つずつチェックしていく。テストはマークテストだった。だから採点も早い。先生は私が悩んで解いたよりも早く全体を見終わった。そして特に何も言わず、じっと考えるように私の結果を見続けている。

「………私、希望の大学、変えた方がいいんでしょうか?」

 そう言いつつ、気持ちがもう一段階沈むのがわかった。もし行けるのなら行ってみたいと願っていた大学。県内で一番賢い人たちが集まっていて、いろいろなことを学べる場所。そこには谷村先生もいて、真希もいる。そこで私は楽しいキャンパスライフを送る、はずだった。

 けれどD判定だ。その理想は叶えられそうにない。

 そっと視線を上げて谷村先生を見ると、先生は平静としていた。私の質問に少しだけ首を傾げている。

「どうかなぁ。君はどうしたい?」

 谷村先生の質問に、私は迷った。

 ………私は、どうしたいのだろう? 希望は、大学に行きたい。谷村先生が学んでいて、真希と一緒の大学。そこで勉強して青春を謳歌したい。恋をしたいし、運命の相手と出会いたい。そう思う。

 けれど、それ以外は特に希望はない。必ずしもその大学に行きたいのかといえばそうでもないし、大学生になれるのならどこでもいい。でも出来るなら真希がいて、谷村先生がいる大学がいい。それだけだ。

 悩む私に谷村先生は質問を重ねる。

「大学に行って勉強したいものが明確にあるのなら、今の希望通りにしておくべきだと思う。これから試験対策をしっかりやって、A判定を取りに行こう。でもそうじゃないのなら、今の学力で行けるところに変えるのも手だよ? どうする?」

 谷村先生の質問に私は何も言えず、俯き続けることしかできなかった。



 お風呂から上がり髪を乾かしてベッドに潜り込んだ。本当は試験結果を受けて勉強すべきなんだろうけれど、どうしてもその気になれない。教科書は投げ捨てたいし、参考書は燃やしてしまいたかった。

 ………どうして私はこんなにも馬鹿なんだろう?

 テスト結果を受け取ってから繰り返し呟く疑問をまた思う。

 思えば中学生の時から勉強に苦手意識を持っていた。大人たちは「これが将来の役に立つのだから」と言って私たち子供に勉強を強要するけれど、どれも役に立つものに思えなかった。数学は意味不明だし、歴史は覚えられない。理科はちんぷんかんぷんで、英語は不便。どの教科もスマホがあれば簡単に調べられるのだから、頭で理解する必要性がわからなかった。

 それでも中卒だけは嫌だと思って、必死に勉強して高校生になった。そしたら今度が大学生になることが目標になった。大学生になったら好きなことをして生活できる。アルバイトが解禁されるし、恋愛だってし放題。なんなら一人暮らしも可能だ。そんな餌を目の前にぶら下げられて、今度は大学生になることを目標に決めた。

 でも、今日の判定結果でその気持ちは萎んだ。大学生になるのはそんなに簡単なことじゃない、と気づいたから。そもそも大学は勉強するため目指すべきであって、遊ぶために目指す場所じゃない。将来の夢が明確にあるのなら、それを基準に進学するかどうかを決めるべきなのだ。

 恋や自由のために行くのは馬鹿げている。

 ………自分の馬鹿さ加減にうんざりする。もし私が天才で、センター試験なんて楽勝だと思えるくらいの頭脳を持っていたら、こんな風に悩む必要なんてこれっぽっちもなかった。大学受験はちょっとした遊びで、その先の楽しみばかりを空想して生活できたはずなのだ。それもこれも私が馬鹿だから現実はそうならない。

 そこまで考えて、私は枕に顔を埋めた。現実が憎くて仕方がない。大学受験というハードルを作った人が憎かったし、センター試験という仕組みが憎かった。学力で人を押し測ろうとする大学が許せなかったし、私にA判定を取らせてくれなかった谷村先生が許せなかった。

 でも一番許せないのは、馬鹿な自分。勉強が嫌いと言って避け続けてきた今までの行動全部が心底憎かった。

 あの歌を口ずさむ。小さな声で、誰の邪魔にもならないようにそっと歌う。いつものことなのに、なぜか胸が痛んでほんの少しの涙が出た。



 翌日は雪が本格的に降り始めた。朝カーテンを開けると道路にはうっすらと雪が積もっていて、車が走ったところだけ雪が溶けてアスファルトが剥き出しになっている。歩道にはいくつもの足跡が残っていて、一つだけ滑り転んだ人の跡があった。

 私はエアコンの電源を入れてこれからどうするのかをじっと考える。谷村先生には結局、何も答えられなかった。だから先生は困ってしまって、俯く私にひとつの課題を出した。

 ───将来どんな自分でありたいのかを決めること。

 それを今度の塾までに決めて、そこから今後を一緒に話し合おうと言ってくれたのだ。塾は月曜日の放課後。だからこの土日を使って私は自分の将来をもう一度考えることにした。

 降り続ける雪を横目に、私は机に向かう。机には一枚の紙と鉛筆を置いている。考えるには紙に書き出すのが一番だ、という谷村先生のアドバイスに従ったのだ。鉛筆を持って何かを書こうとして、でも手が止まる。

 ………私、将来をどうしたいのだろう?

 大学受験に向けて勉強した先の自由にしか興味がなくて、大学を卒業した後のことは何も考えていない。どこかに就職して適当に稼いで、誰かのお嫁さんになれたらいいなと思う。そして子供を一人か二人産んで育てるのだ。緩やかに老けて、穏やかな老後を過ごす。ささやかな希望だと思っている。それくらいの願いはあるけれど、それだけだ。具体的にどんなことをして生計を立てたいとか、どういった職種に就きたいとかいった夢はない。

 私は気軽に生きていきたいだけ。

 それに比べて真希は違う。彼女には明確に目標がある。確か、将来は弁護士になりたいのだと言っていた。弁護士として活躍し、将来的には政治家になるのもいいなと楽しそうに語っていたのを思い出す。馬鹿な私には想像できない、前向きでカッコいい夢だと思う。

 それを思い出すと、なんだか自分自身と真面目に向き合うのが馬鹿らしくなってきた。だから私は鉛筆を放り投げた。こんなことをしても無意味だと、諦めてしまいたかった。投げた鉛筆は弧を描いて飛んでいき、ベッドに埋もれて見えなくなった。

「将来なりたいもの、か」

 ぼんやりと呟いてみる。何かアイデアが思い浮かぶかもと期待してのことだったけれど、何も思い浮かばない。ただ自分の中には何も存在しないことだけがわかった。



 月曜日の放課後。土日と雪が大量に降ったにも関わらず、月曜日には全部が綺麗に溶けてしまった。私は濡れた地面で靴が汚れるのを少し鬱陶しく思いつつ、重い気持ちのまま塾へと向かう。

 結局、将来の希望なんて何も思いつかなかった。私はいままでなんとなく過ごして生きてきた。熱中して何かを取り組んだこともないし、何かをやり遂げたくて努力したこともない。目の前の障害を乗り越えることばかり頑張ってきたから、この先どんな障害が待ち構えているのかという苦悩ばかりにしか興味がない。

 けれど、私は大人になりたくないのだ、ということには気づいた。

 大人になれば社会に出て働かなくてはならない。働いてお金を稼いで生計を立てて生きていく。それはきっと大変なことなのだろう。私はそんな苦労はしたくなかった。誰かの庇護下でぬくぬくと生きていきたい。できれば勉強なんかしないで、一日中遊んでいたい。新しい洋服を買ったり、美味しいものを食べ歩いたり、観たい映画やドラマをとことん楽しみたい。

 何も努力せず、ぬくぬくとしたぬるま湯生活を続ける。それが私の将来したいことだった。

 私は暗い気持ちのまま塾の玄関をくぐり、個室に入る。そして谷村先生を待った。

 きっと、谷村先生は私の答えを聞いてがっかりするだろう。塾に来て勉強していたのに、入学希望の大学はD判定。そこからA判定にするための目標を定めようと谷村先生が提案してくれた。その解答が「ぬるま湯生活をしたい」。ただそれだけだ。やる気もないし、努力するつもりもない。どうしようもない私に呆れてしまうに違いない。

 私自身、自分に心底呆れている。どうして私はこんなにも空っぽなのだろう? 小学生の時くらいは夢があった気もするけれど、今は何も思い出せない。目の前に提示されるテストをそつなくこなすことばかり重要視して、中卒だけは嫌だという感情で高校へ進学した。そこから先の人生はぬるま湯生活をしたいと駄々をこね、社会に積極的に参加する気力もない。

 自分の空っぽさ加減に虚しさが募る。思わずあの歌を口ずさんだ。目を閉じて、ヒロインがくるくると回る姿を思い浮かべながら。

 無力でお馬鹿な自分であることを認めている歌。一分足らずの短い歌。その歌に、自分自身を重ね合わせる。

 歌い終わって目を開くと、谷村先生が扉近くに突っ立っていることに気づいた。歌に集中しすぎて先生が入室したことに気づかなかったのだ。恥ずかしさで耳が熱くなるのがわかる。

「うわー、懐かしい。よく知ってるね」

 谷村先生の言葉に私は急いで俯いた。頬が熱くてたまらない。人前で歌うのは苦手だ。だからいつも小声で気づかれないようにしていたのに、それがこんなタイミングで聞かれてしまった。恥ずかしさで逃げてしまいたいけれど、先生は懐かしいと連発する。

「俺、その映画大好きでさ、繰り返し観たなぁ。敵キャラがいいよね。でも結構古い作品だよね? よく知ってるね」

「………その、動画配信サービスにあったので………」

「そっかー。俺も今度、久々に観ようかな」

 穏やかに話す谷村先生に、私はほんの少し気持ちが明るくなる。自分と同じものを先生も観ていた。それが嬉しかったのだ。

 けれど、先生の一言でそれも消し飛んだ。

「それで、どうだった? 将来何をやりたいのか見つかった?」

 谷村先生から視線を外し、私は歯を食いしばった。

 やりたいことは何もない。ただ穏やかに生きていきたい。そしてできればささやかな贅沢をしたい。それを伝えるだけなのに、言うのに勇気がいった。言ったら谷村先生が呆れてしまうのは簡単に想像できたし、私自身も呆れている。どんなに自分の中を掘り下げても、それ以外の欲求や希望はなかったのだ。

 空っぽな自分。それが悲しくてたまらない。

 私の反応を見て、谷村先生はそうか、と呟いた。

「何も見つからなかったのなら、進学希望大学は変更しないでおこう」

 その言葉を聞いて思わず私は谷村先生を見る。どうして谷村先生がそう言うのか、まるでわからなかった。目標がないのなら大学進学なんてやめてしまえ、と言われると覚悟していた。それなのに、先生は頑張ろうと言っているのだ。

 先生は、笑っていた。

「どうしてですか? 私、やりたいことなんて何もありません」

 必死に自分の内側と向き合おうと頑張って、でも何もないことしかわからなかった。自分は立派な大人にはなれなさそうだし、なりたい大人像もない。将来就きたい仕事もないし、やり遂げたい何かもない。そんな自分は大学進学に向けて努力をし続けることはできないだろう。きっとどこかで投げやりになって放り出す。だから、どうしようもないと思っていた。

 思っていたのに。

 戸惑う私に谷村先生は微笑みかけてくれた。

「何もないから見つけに行くんだよ。俺だって未だに何をやりたいのかわからない。なら、大学という場所でそれを探すのは良いことだと思う」

「………でも、先生は教育学部で、将来教師になりたいんじゃ」

「合格できそうな学部がそれだったから受験しただけだよ。別に教職に就きたいわけじゃないさ。まあ、おかげでこうして塾のアルバイトができているわけだけど」

 そう言って谷村先生は照れたように笑った。そのことで、私は落ち込んでいた自分をほんの少しだけ慰めてあげることができた。

 それでも希望大学を変更しないという選択は謎だ。もし大学に行くことが目的なら、それがどこであろうと関係ないはず。目標を下げて確実に合格できるところを選んだ方が賢い。

 そう言おうと思って口を開きかけたけど、谷村先生に先を越された。

「やりたいことが見つからないのなら、希望の大学をとりあえず目指そう。合格することだけが目標なら、進学先を変更するのはまだ先でいいよ。今する必要はない」

「………どうして」

 谷村先生の優しい言葉に、私は不覚にも泣きそうになる。やりたいこともないし、やり遂げたいこともない。希望大学は、真希が目指すから私も、と思っただけだ。ついでに谷村先生がいるからいいな、と軽く考えただけ。そんな私は本当に大学に進学する必要があるのか。それさえわからない。こんな私は塾で勉強する意味もないと思う。むしろさっさと社会人になった方がいいのかもしれない。それなのに、谷村先生は私を見捨てず頑張ろうと言ってくれる。

 空っぽでどうしようもない私に、呆れたりしないで向き合ってくれる。それが嬉しかった。

 谷村先生は私の疑問に笑顔で答えてくれた。

「そんなに不安がらなくても大丈夫だよ。受験までまだ一年ある。この間のテストで苦手なところは大体わかったし、対策も考えてきた。一緒に頑張ろう?」

 その言葉に堪えていた涙がポロリと溢れてしまった。きっとこんなに優しい言葉を言ってくれるのは、これが谷村先生の仕事だから。生徒を励まして塾に通い続けてほしいからに決まってる。じゃなきゃ、こんなにも優しい言葉は口から出ない。そう思いつつ、でも、と思う。

 でも、谷村先生はきっと本心から私を励まそうとしてくれている。夢も希望もない空っぽな私だけれど、それでも埋められるものが大学で見つかるかもしれない。その奇跡を信じているのだ。

 その優しさに応えたい。

 頭の中であの歌がリフレインする。空っぽな自分を悲しんでいる歌。でも、それを歌っていたヒロインは最後、人に戻ったのだ。優しく美しいお姫様の姿に。そして主人公にお礼のキスをする。

 ………私も、取り戻せるかな?

 溢れる涙を拭いつつ、私は将来に思いを馳せた。

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