第87話:今、峻厳を越える
かつてミズガルズとの戦にこのような感動はなかった。獣と変わらぬ雑な剣。凶暴で欲深く恥も外聞もない。ゆえに駆除する外敵としか思わなかった。
ずっと前からそう。
ただの一度も――
(……いや、何だ? これが、初めてではないような)
かすかな既視感。されど思い出せない。黒い靄がかかり、何も見えない、見通せない。怒りに駆られ誤った選択に賛同してしまった。
あれは生涯最大の過ちであった。
その代価を本当の意味で支払ったのは『神降ろし』に賛同した自分たちではない。それもまた正気を取り戻したシャクスを苛む。
騎士としてあるまじき愚行。あの時正しかったのはただ二人だけ。
(……二人?)
そう、二人。
今、最も己へ近づきつつある騎士の卵たち。何もかもが違う二人であるが、何処か重なるところはあった。
それにこの大盾も既視感がある。記憶が黒濁しているが――
『■■■ッ!』
確かに見たことがある。
(千年前? いや、違う。朦朧とはしている。風化もある。だが、忘れてはいない。奪われたことも、攻め寄せてきた相手から奪ったことも、覚えている)
大盾を押し出し、攻撃を阻む姿。
其処に肩を並べるは黒髪の――
(私が……魔道に染まっていた時代か? 思い出せない。大事なことのような気がするのに……まあ、今更詮無いことか)
悪い気分ではない。その記憶自体もその時どう感じたのかはわからないが、きっと自分にとって忌避すべきことではなかったように思う。
思い出せないことよりも残り少ない今を生きる。
かつてこの地に蔓延っていたミズガルズの獣たちは許せない。
だが、自分たちがやり方を間違えたことは認めざるを得ない。
それはきっと全員が理解している。
自分たちは正しくなかった、と。
(……剣よ、峻厳と聳え立て)
今、正しくない応手をした者は手傷を負った。近づいてきた二人も顔を歪めている。極限状態で間違えないことは難しい。ほんの一つ、ボタンを掛け違えるだけで生死が分かたれるのが戦場である。
実戦なら間違えた者は死んでいる。
痛みだけがそれを教えてくれる。もっと言えば正しいだけでは足りない。目の前の黒髪の少年はこの戦場において、恐ろしいことにただの一度も間違えた選択肢を取っていない。尋常ではない精神力、集中力を持っている。
異常なほどに。
だが、彼は今痛みに顔を歪めている。正しくとも彼には力が足りない。速さが足りない。技術も足りない。あらゆるものが足りていない。
だから、正しいのに届かない。その辺りは他の者と違う。大盾を構える方は正しい選択を取らずとも、ベターな選択肢だけで生存が適う。
ここが地力の差。それを埋めさえすれば――
(まだまだ道半ば。さりとて手は抜かぬ。届かぬなら考えよ。どうすれば届くか。一人では絶対に届かない時、どうすべきか)
人は急成長などしない。そう見えることがあっても、それは積み重ねた何かが閾値を越えて見えるようになっただけ。
今のクルスでは届かない。隣のフレイヤを合わせても遠い。
(……出来れば次の機会には、己で導き出すことだ)
シャクスにとって相手が卵である内は勝負をする相手ではない。あくまで指導すべき相手である。だから、実戦なら殺せた状況でも生かした。
其処から彼らが死んだと考えるか、まだ生きていると考えるかは彼ら次第。
『■■■!』
まだ生きているぞ、彼らの眼がそう言う。これだけ痛めつけてなお、誰一人諦めずに食らいついてくる。本当に素晴らしい。痛みは与えているのだ。自分が指導していた大半の子どもたちならば死んだふりをしてしまうほどの。
いや、あの時よりもずっと厳しく接している。
それでも諦めない。
(全員、命を投げ出してきたか! そして――)
遠く、何かが爆ぜた。しかし、シャクスからはそれが見えない。
最後のひと絞り、『全員』が完璧に連動する。
「……見事!」
シャクスは全てが噛み合った今この時に、全力をもって応えた。
○
「まだだ!」
あらゆる意味で限界、気力体力共にこれ以上出せない。傷だらけ、いずれも致命傷ではないが、重なれば意識を保つのも難しくなる。
ここが限界。ここからはじり貧。
だから、若き彼らは全員が動ける内に、最後の大勝負を仕掛けた。死にたくない。痛いのも嫌だ。だが、安全な選択では眼前の怪物に届かない。
全員、フレン・スタディオンが仲間をかばった時一歩も動けなかった。
クルス・リンザールが、ノア・エウエノルが、ユーグの援護に行った時も出来るわけがない、と動けなかった。いや、動かなかった。
何故だろうか。ここでやらねば騎士にはなれない、そう思った。
ゆえに、
(今ッ!)
四学年、そして今実戦の中で学んだ三学年、全員の意識が繋がった。ここから先、賭けられる状況はない。ここしかない。
意思の共有、群れが生き物のように動く。
其処に、
『……■■!』
剣が全てを見切ったかのように顕現する。恐ろしいほどの精度である。これだけの人数相手に、ほんの一つも間違えてくれない。
命を差し出した。だが、命を取らずに力で押し返される。
「ごめん。クルス君。もう、私じゃ――」
大勢が吹き飛ぶ。
だが、
「舐めんな」「舐めんじゃないわよ!」
テラとジュリアは気合で掻い潜る。窮地でテラはようやくコツを掴んだ。安定を求めていたからピコの剣にはならなかった。自分が考えるよりもさらに不安定に、敵の攻撃をもバネにして、安定を生む。窮地でこそピコの剣は輝く。ジュリアもまた、ノアには及ばぬ特別クラス二位の加速力で強引に切り抜けた。
さらに踏み込む。肉薄する。
しかしそれでも、
「「ッ!?」」
シャクスの剣は間に合ってしまう。出し切った。それでも届かない。
仕方がない。これが今の現実。
だから、
「「行けェ!」」
あとは二人に託す。他の者に剣が向いた分、クルスとフレイヤが前進するゆとりが生まれた。歯を食いしばり、彼らもまた連動する。
皆が捨て石になってくれた。それがわからぬほど馬鹿ではない。
「フレイヤ!」
「むんッ」
両腕で大盾を支え、前へとねじ込むように一歩分のスペースを作る。さっきからずっと愚直に、ただ大盾のみを支えている。息を切らして、スタミナお化けの彼女が今、ノアたち同様に限界を迎えていた。
それでも気丈に、
「行きますわよ!」
「わかってる!」
振舞う。
だからクルスも彼女の心配などせずにただ半面、左の攻撃をいなして進む。近づくほどに圧が増す。近づくほどに遠ざかる。
先ほど渾身の剣を抓まれた時、嫌と言うほどその距離を感じた。
もう間違えない。今の自分だけでは届かない。
峻厳たる頂き。今の自分たちが踏破するためには――
「お先に失礼しますわ」
全身全霊、フレイヤは大盾と共に最後のひと絞り、出し切る。近接こそ『人剣』の本領、あまりにも重い一撃がフレイヤの全身に響く。
腕はとっくに折れている。右腕の支えがあっても、もう――
「……っ、ぅ」
彼女の代わりに大盾が砕けた。五百年、魔を阻み続けた由緒正しき騎士の盾。ヴァナディースの家宝が今、役割を終える。
足りない分を埋めるために。
「今度は間違えない!」
クルス・リンザールが今、先ほど眼前の怪物が勝手に詰めてくれた距離を、皆の献身により今一度踏破する。
最後の最後、
『■■!』
『人剣』のシャクスが腕を解く。その瞬間、クルスの背筋が凍る。ようやくここまで来た。皆のおかげで刃が届くところまで来た。
それなのに確信してしまう。
自分の刃は届かない、と。
今踏み込んでも、最善のカウンターを放ったとしても、先ほどと同じ結果が待っている。赤子の手をひねるが如く、刃が阻まれるだろう。
クルスは顔を歪めながら、
「……知ってるよ」
あえてシャクスの腕を、彼が持つ最速最強の剣を受け、流す。流し切れない分は騎士剣が負担してくれる。フレンの剣、その刃が破壊力に耐えかねて砕けた。
クルスはそれを途中で――捨てていた。
友の剣をも削ぎ落とす。
「だから――」
そして、
「――俺様と二人合わせてなら、どうだッ!」
最後の一人と連動する。
○
ほんの少し前、ノアはソロンの言葉を思い出していた。
彼は視野についてこう語った。
『視野の広さは、見えている範囲が広いわけじゃない。同じ人間だし視野角も同じさ。違うのは予測、予測するために情報を事前に集める。これが肝要なわけだ』
魔法のような視野。彼はそれを予測と言った。事前に首を振り、周囲の情報を頭に入れておく。そして周囲の動きを予測し、未来を見る。
それが視野の原理。俯瞰の視点とはすなわち、情報を収集した上での予知なのだ。だから、大事なのは情報を得ること。
逆に言えば、
(……情報を絞れば、未来は読めねえよなァ?)
情報が無ければ視野以上の景色は見えない、と言うこと。
(へへ、相変わらずだな、ラビちゃんは)
昔から口は悪いが世話焼きで、よく気が付く女の子だった。何でも先回りしてくれて、その度にいつか見返したい。いつか肩を並べたいと思ったもの。
まあ、成長に伴い爆速で抜き去ってしまったが。
大事なのは今、『全員』が踏み込んだ中、彼女だけが踏み込まずにシャクスとノアの立ち位置を結ぶ、直線上に立っていたのだ。
臆したわけではない。ノアがこれで終わらぬことを確信した幼馴染は、自分も一緒にぶっ飛ばされるよりも彼を活かす方法を取ったのだ。
そのおかげで今、シャクスは自分を見れていない。
ここ。
「ヒュゥゥゥウウ!」
最後のひと息、死ぬ気で吸い込んで――
「征くぜ」
本日最速、全力中の全力を捻り出した。
足が破裂するほど、頑丈極まる足の骨が悲鳴を上げるほど、その加速力は理をひっくり返す。一瞬でラビをぶち抜き、一気にシャクスへ迫る。
魔力の全てを足に。
あとは騎士剣を叩き込むだけ。
さすがは災厄の騎士、これでも反応してくる。だが、もう遅い。剣は皆が引き付けてくれた。戻しは間に合っていない。
見えていれば手はあっただろうが、それはラビの機転が封じていた。
だが、この災厄の騎士は接近戦が強い。それはユーグとの戦いが嫌と言うほど示していた。ノアは馬鹿ではない。
自分の全力を賭しても届かないことは理解している。
だから――
「――どうだッ!」
自分と一緒に立ち向かった大馬鹿を一人、勘定に入れている。ソロンと同じ眼を持つ彼ならば、合わせられると思ったから。
シャクスと自分、そして大馬鹿の三人の立ち位置が完全な直線上であれば彼も見えていない。だが、そうでないことは確認済み。
ほんの一瞬、目が合ったから。なら、当然予測できる。
この未来を。今この時を。
『■ッ!』
さすがにシャクスは反応する。腕を解いた彼なら間に合ってしまう。全力全開、隙を突いたこれでも届かないのは業腹である。
だが、
「フレ――」
「……」
以心伝心、大盾が砕け倒れ伏す中、フレイヤはクルスに向かって腰を切り、『それ』が抜きやすいよう動いていた。
クルスは心の中で「結婚しよう!」と馬鹿みたいなことを叫びながら、彼女の『それ』を、フレイヤ・ヴァナディースの騎士剣を抜き放った。
『ッ!?』
其処からのカウンター。今度は先ほどよりさらに踏み込む。
シャクスはノアの迎撃に動いている。クルスとフレイヤの機転はさすがに視野の外側。騎士剣を砕いた時点で、シャクスはノアへ意識を割き過ぎていた。
どちらかは防げる。だが、どちらもは防げない。
「これで――」
ノアが剣を振るう。
「――終わりだァ!」
クルスもまた剣を振るっている。
シャクスは――
『さあ、どうした騎士の卵たちよ。一人前の騎士と認められたいのなら、この私の腕ぐらい解かせて見せよ! 深く踏み込まねば見えぬ頂がある。試練を乗り越えねば届かぬ境地がある。踏み込め。そして、私を越えてみよッ!』
かつて自身が放った言葉を噛みしめながら、
「……ぶは」
笑う。
二人の騎士の卵が、ふた振りの剣が今、交錯する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます