第49話:たった一夜

「僕が自分を見る? アホかカス。僕に何の得があんねん」

「そ、それは、その、ないです」

 クルスの伸ばした手をクロイツェルは無造作に払う。

「ええか。世の中対価を払わなモノは買えん。僕の講義は安ない。買いたいならそれなりのモノ積むか、来年上位クラスまで上がらなあかんよ」

「……はい」

 クロイツェルの言葉は至極真っ当で、当然のことであった。彼はアスガルドの講師も兼任しているが、本職はユニオン騎士団所属の騎士である。忙しく学園、ユニオン間を飛び回る生活を送る彼の時間は安くない。

 だから、彼の講義は高学年の上位陣にのみ受けることが許されたものであった。最下位である今のクルスにはそもそも、講義を受ける資格すらないのだ。

「しかし、随分陰気臭い面やな。今日、何があったか……まさか自分、くく、今年のアスガルドが対抗戦を勝ち抜ける、なんて思っとったわけ……図星かーい」

「わ、笑わないでください! 何がおかしいんですか!」

 クロイツェルは腹を抱えて笑う。何がおかしいんだ、とクルスは彼を睨むもお構いなし、むしろさらに煽るように、笑い声を増す。

 不愉快だ、とクルスは思った。

「才能なし。努力もそこそこ。そないな奴この世にごまんとおる。自分はまだ理解しとらんようやけど、この界隈は上を見れば見るほどに積んどる者しかおらん。時間は人類みな平等、有限や。あの連中はそれを全て向上に充てたか? 一分一秒を惜しんで積み上げたか? 答えは否や。僕からしたら、甘ったるくて殺したくなる」

 何て酷いことを言うんだ、とクルスは思う。あんなにも頑張っていた人なのに、自分の恩人なのに、そんな酷いことを――

「どこぞのカスの面倒を見る時間があれば僕なら自分に注ぐ。足りんなら尚更や。他人に手を差し伸べとる暇あんの? クソカスの分際でェ?」

「エイル先輩を、悪く言わないでください!」

「誰に口聞いとんねん、カス。自分、今の話聞いとらんかったんか? 自分もあのカス女の足引っ張った要因やろうが。悪くしたのは自分や、時間を奪ったのは自分や。そして、それで向上したんが自分や。ようやった、僕は褒めたる。それでええ。お高く留まっている連中が手ェ差し伸べてくれるなら、ありがたくその手取ってケツの毛まで毟り取る。その強欲さは、これからも存分に生かせ」

「……ごう、よく?」

「自覚ないんか? 自分、僕が思っとるよりずっと薄情な奴やなァ」

 考えたこともなかった。今まで、教わるのが当たり前だったから。『先生』、友達、学園の教師、先輩――知らないから仕方ないじゃないか、と厚意を受けていた。彼らの善意に感謝していた。だけど、其処まで踏み込んで考えたことはなかった。

 今、クロイツェルから突き付けられるまでは。

「まあええわ。ただ、勘違いだけは正せ。自分は努力を才能ないカスの特権やと思っとるみたいやけど……それは逆や」

「……?」

「凡夫の努力言うんは困難や。辛い、苦しい、達成感が希薄、何処で跳ねるかもわからん。だが、天才はちゃう。同じように辛く苦しいが、達成感の回数は凡夫の比やない。やればやるだけ伸びる。常に目標を達成し、その達成感から苦しみを忘れ研鑽を積む。さらに伸びる。何処までも……それが天才の世界や」

 クルスは自分の知る天才たちを思い浮かべる。確かにイールファスはどの講義も当たり前のように良い成績を取る。事前に予習しているのか、それともすでに積み重ねた中にあるのか。フレイヤも、デリングも、ディンも、ミラも、フィンは、ともかくとして皆努力を欠かさない。おそらく、自分の見ていないところでもやっている。

 当たり前のように。

「アセナ・ドローミ。たまたまあっちにおったから僕も一戦だけ見た。ようもまあ、あの才能を隠し通したもんやと笑ったが、その才能の下には確かな努力の跡があったわ。継戦能力を高めるための脂肪の下、鍛え上げられた筋肉と柔軟性が見えた。出力が高過ぎるから魔力の伝導こそ粗かったが、それでも今の自分よりずっと上や。努力なしでは説明がつかん。特に、騎士の家出身者でない者は」

 幼少期から当たり前のように騎士としての教育を受けてきた者たちと、クルスの一番大きな違いは、身体や魔力伝導、戦うための土台が、地金が違うことにあった。彼らの身体は騎士に特化しており、魔力の流れもスムーズ。

 基礎の違いに苦しんだ一年だった。

 だから、わかる。

「寝る間も惜しんで努力したんやろうなぁ。それを努力とも思わず。わかるかカス、これが現実や。才ある者こそが努力をする。それを才能と言うならそれでええ。自分には才能がなかった。それで終わり。国へ帰って畑でも耕しとれ」

 自分が才能の暴力で先輩を倒したと思っていた相手は、実は先輩に匹敵するほどの努力家で、さらに才能で勝ったから勝利した。ただ、それだけなのだと。

 才能と努力、その構図自体が間違っている。

「ほなさいなら」

 才能ある者は止まらない。止められない。向上心の高い天才をたくさん見てきた。そんな当たり前のことすら気づかなかった自分の間抜けさに嫌気がさす。

 普通じゃ一生追いつけない。

 だから――

「先生」

「あ?」

「先生の時間、いくらで買えますか?」

 普通じゃない道を。

「……ほォ」

 振り返ったクロイツェルはクルスの貌に浮かぶ『モノ』を見て、笑みを浮かべる。

「僕は高い言うたよな。自分、持ち合わせあるん?」

「足りない分は借金で、働いて返します」

「……高いで?」

「いくらでも。だから、俺に先生の時間をください!」

「何がために?」

「俺のため」

 クルスは迷うことなく言い切った。

「ぶは、クズが。ええやろ、出世払いで勘弁したる。構え、無駄な時間――」

「エンチャント」

 クロイツェルが言い切る前に、クルスは剣を抜き構える。

「……ええ度胸や。地獄見せたる。エンチャント」

「お願いします」

 クルス・リンザールは強欲な己を飲み込み、ただそれだけを手に地獄へと向かう。其処はレフ・クロイツェルの世界。ただ己のみにリソースを割き続け、底辺から成り上がった怪物は嗤う。その一歩、高くつくぞ、と。


     ○


 ディンは表情を曇らせながらクルスのベッドを見つめていた。時刻はすでに就寝時間。普段であれば柔軟を終え、とっくにベッドの中で目を瞑っている。自分は不滅団の使命があるため、たまに門限を破り真夜中徘徊することはあるが――

「……どうしちまったんだよ、クルス」

 今まで一度もクルスがこんな時間になるまで寮へ戻ってこなかったことはなかった。自分とは違い、その辺はかなり真面目であったはずなのだ。

 だからこそ心配してしまう。

(最近、しんどそうだったからなぁ)

 彼が思い浮かべるのは苦悩する親友の姿。夏の予定を決められぬほどに弱り切っていた。最悪、実家に頭を下げてでも寝床ぐらいは確保してやろうと思っていたが、そういう話自体が最近は出来ていない。

 心ここにあらず。集中力も乱れていた。

 極めつけは――

(……やっぱ、ティル先輩にあっさりとゼー・シルトを破られたのが堪えたんだろうな。ああいう奥の手があるってのは、それだけで心の拠り所になるし)

 ティル・ナとやり合い、敗れたことであろう。六学年の首席に敗れたことは仕方がないが、その内容が良くなかった。自分の強みを最大限まで引き出してもらった後で、あっさりと攻略して見せたのだ。ちょっと意地が悪いと思う。

 まあ、正直に言えば、

(……俺も似たようなこと考えていたな)

 初見であれば面食らうだろうが、ディンは一応王都に現れたダンジョン内で彼のフォームを、戦い方を見ている。熟考していたわけではないが、ふとした拍子に崩し方を考えてしまうのは戦う者のサガである。

 力で抑え込む。切るでも、振るでもなく、押し込むような剣であればどうか。ティルの攻略法もかすかに過ったが、あれは実戦向きじゃない。

 少なくともああも見事に力を制御し、ぴたりと剣先を張り付けて固定するのは相当技量が必要。ただ、あそこまでの芸当をする必要はないのだ。

 要は流させなければどうとでもなる、と言うのが本質である。

 初見であれば苦労したと思う。だが、二回り目であればおそらく自分を含め上位五名には通じない。必ず各々解法を引っ提げてくる。

 そして、攻略されたなら――

(今のクルスに上位と張り合う力はない)

 ただ、上位陣に通用しないのは本来当たり前のことなのだ。実力差があって、その差通りの結果が出ただけ。逆に考えたなら、初見ならその差を埋められるスペシャルな手札をクルスは持っていた、と言うこと。

 手札は使いようで化ける。

(今の、だが)

 手札が突き抜けているから欠点となっている部分も、よくよく考えてみれば今となっては御三家水準まで成長しているのだ。あとは突き抜けた手札にどこまで合わせられるか。手札を使い分け、攻防の選択肢を増やした時――

(……どうなるやら。つーか早く帰って来いよぉ)

 クルス・リンザールの堅守は強力な強みとなる。


     ○


(し、死ぬ)

 クルスは顔を歪め、地を這いながら咳き込んでいた。ぶっ通しで、ただただクロイツェルと打ち合い続ける。以前の型を見ていた時とは異なり、圧倒的強者の攻めを必死に受け止め続け、生存するためにクルスは剣を振るっていた。

 だが、

「あかん。自分が受け間違えるから手元狂ってもうたわ」

「……」

 クロイツェルは寸分違わず、クルスの間違いを咎めてくる。及第点の捌きなら薄皮一枚だけ切られ、上手くない捌き方ならかすかに肉を削ぎ、間違っているぞと示す。クソな動きなら目立たぬところをさらに深く切り込まれる。

 正確無比に、徐々に削られ続ける。

「はよ立てや」

 そもそもずっと集中し、レフ・クロイツェルの剣を受け続けているのだ。クー・ドラコ、竜の尾を冠する中段から背後へ流す脇構えの型がクロイツェルの得意とするものであった。相手からすると切っ先が遠く読み辛い反面、自分から相手へも遠く、相当踏み込みを深く、身をさらけ出すようなやり方をせねば使いこなせない。

 素人のクルスでもわかる。彼の型はリスクの塊である、と。

 堅守のゼー・シルトとは全てが対極。

 つまりは防御を捨てた超攻撃特化であり、今のクルスはずっとその猛攻にさらされている。対応し切れない。対応させる気もない。

「イエス……マスター」

「行くで」

 軽い言葉から放たれる重い連撃。この細身の男の何処にこんな力があるのか、と思うほど一撃一撃が重かった。それこそティルの大剣より重く、それでいて回転数も段違い。受けるだけでも精一杯。あまりにも苦しい。

 間違えずとも薄皮を切られ、間違えたなら肉を切られる。

 浅い傷、戦いながら血が止まる程度だが、後から後から傷が増えるため楽になることはない。集中力を極限まで研ぎ澄まし、それでもなお――

「く、そ」

「だから、ビビるな言うとんねんカスが!」

 先ほどよりも少し深い。つまり、クロイツェルにとってはクソみたいな動きであった、と言うこと。この男のさじ加減で自分は死ぬ。そうでなくとも切り刻まれ続けている。こんなことに意味があるのか、と考えてしまう。

 これではただ嬲り殺しにあっているだけではないか、と。

「なんや、その眼は?」

「あ、ぐ」

 クロイツェルは倒れ伏したクルスの髪を掴み持ち上げる。

「自分、死ぬんが怖いんか?」

「……あ、たりまえ、です」

「何が当たり前やカス。それをまず捨てェ。騎士が命惜しんでどないすんねん。死ぬのが仕事やぞ。そない騎士は要らんわ。人が騎士に成ろうとすな。騎士は皆、人でなしに成らなあかん。人のまま騎士に成ろう言うんが……間違っとる」

「……」

「言うてもわからんやっちゃな。ええよ、怖いなら今すぐに荷物帰って故郷へ帰ってまえ。それでもう、怖ないやろ」

 クルスは唇を噛みしめた。血が滲むほどに。この男に何がわかる。自分に帰る場所など無い。ゲリンゼルには、あそこには、何もないのだ。

 ありえない。あるわけがない。

 自分は――

「あ、ああ!」

 何もないから、騎士に成るしかないのだ。

 クルスはクロイツェルの腕に噛みつき拘束を外す。そのまま構えて踏み込む。

「ああああああ!」

 戻るか死ぬか、その二択であれば迷わず、

「不細工」

「ふ、じゅッ!」

 クルスは死を選ぶ。そう定義した瞬間、クルスはいつもより深く踏み込めた気がした。今まで踏み込んだことのない領域。

 死が、今までよりもずっと近い。

 たった皮一枚、踏み込みを深くしただけなのに――

「其処から、どう繋げる?」

 クルスが遮二無二深く踏み込み、剣を振ってきた。それに対しクロイツェルは受けずにかわし、そのまま次の一撃に移る。

 その一撃を、

「見えた!」

 待っていた。とばかりにクルスは剣を振った。握力はとっくに尽きている。体にはもう踏ん張る力は微塵も残っていない。

 それでも乾坤一擲のカウンター、最後の全てを振り絞り振り抜く。

「あっ――」

 それはあの時の感覚、忘れ、失っていた感覚に近いものがあった。記憶は戻らずとも、感触は甦る。手応え、あり。

 そのカウンターはクロイツェルを断つ。

「……」

 皮一枚だけ。

「ッゥ!」

 全てを出し尽くし、それでも皮一枚。何一つ届かぬまま、クルスは膝を屈しそうになる。だが、クロイツェルはそれを許さず顔をひっつかみ、

「騎士がひざを折るなカス」

 無理やり立たせる。

「今の感覚や。自分みたいな非力がどんだけ気張ろうが大した力はでん。なら、そない力は要らんわ。抜け。理解したか?」

「い、イエス・マスター」

 クルスは不思議な感覚であった。クロイツェルに無理やり起こしてもらわねば、立つことすらままならぬ状態であったのに、不思議ときついとは思わなかった。苦しく、辛く、限界であっても、達成感があればもっと――

「それにしても、くく、噛みつきか」

「……申し訳ありません」

「謝らんでええ。噛みつき上等や。殺し合いしとるんやからな、使えるもんは何でも使わな。逆に言えば、あの状況なら歯ァ使われる可能性があるから、先に潰しとこか、となるわけやな。芽は摘め。敵に微かな活路すら与えるな」

「イエス・マスター」

 勝利至上主義の騎士。今日、クルスは彼の一端を覗いた気がした。死を振り切り、一分一秒を削ぎ落とし辿り着いた山巓。

 クルスには其処がとても輝いて見えた。

 その眼を見て――

「……今日はこの辺にしとこか」

「あの、もう少し借金しますので――」

「死ねカス。今の自分にそこまでの価値あるかい。それに」

 クロイツェルが天を指さす。其処からはもう、日が頭の先を覗かせていた。つまりは朝焼け、彼らは一晩中殺し合い、と言うよりもクルスが一方的に嬲られていただけの時間を過ごしていた。まるで、そんな気はなかったのだが。

「僕は今日、アスガルドを発つ。死ぬほど溜まっとる仕事を全部片づけなならん。来年もこの島国と大陸をアホほど往復するために、な」

「す、すいません」

 クロイツェルはまだやる気だったクルスを見つめ、目を細めた。手の皮はとうの昔にずるずるに剥け血まみれである。全身傷だらけ、ここまで存分に痛めつけたのだ。間違えを身をもって正してやるために、自分がそうしたのだから。

 それでもこの少年は――

「まあええわ。暇つぶしにはなった。さっさと帰れカス」

「……」

「僕が命じたらイエスやろうが」

「……その、何でもしますので、俺に夏の間、修業を付けてください」

「……」

 クロイツェルは驚いたのか目を剥き、クルスをまじまじと見つめる。

「どこまで強欲なんやボケが。何度も言うとるが僕の講義は安ない。幸運なことに受ける機会があるなら其処を目指せ。まずは其処からやろ」

「……そう、ですよね」

「と言うか自分、まだ夏の予定が決まっとらんのか」

「……はい」

「トロくさいガキやな。何処まで能無しやねん」

「……お金がないので選択肢が」

 クロイツェルはクルスの言い訳を聞き、顔を歪めながら顔面を掴む。そして悠々と持ち上げた。俗に言うアイアンクローである。

「いだだだだ」

「僕の一番嫌いな言い訳や。金がないならないなりの道を探したか? どうせ探しとらんやろ? 自分、他人に頼ってばかりで自分で考えんからな」

「……でも」

「でもやないわボケ。要は金を稼げて、居住地を提供してくれて、その上で自分にとって最も向上出来る場所を探すだけやろが」

「そんな、都合のいい話は――」

「サマースクールの学生アシスタント。御三家はレムリアぐらいしか力を入れとらんが、準御三家から下や私立は大体どこもそれなりに人手がいる。メインは自分とこの学生やろうが夏に手の空いとる学生は意外と少ない。そも、そこで働かな食えん奴が騎士を目指そう言うんが、強欲かつ生意気なんやがな」

「……」

「それに、アシスタントなら手伝いがてら講義を見放題や。普通に講義を受けに来た連中よりも、場合によっては色んな種類の講義に、教師に触れることが出来る。金もそこそこもらえて、住む場所もあちらが手配して……ちっ、要らん話やったな」

 サマースクールの学生アシスタント。考えたこともなかった選択肢である。アスガルドには募集はなく、他校にまで行って金を稼ごうと言う者も周りにはいない。クルス同様、彼らにとっても発想の外側であろう。

「ほな、僕は帰る――」

「あの、何処の学校がおすすめとか」

「ほんま殺されたいんか、自分」

「……す、すいません」

「カス虫が。少しは自分で頭を働かせ。言うてもどうせ考えられんやろうから、考え方だけ教えたるわ。アスガルドの学びに生かしたい、だけなら似た傾向の学校を選べばええ。だが、少しでも手札を増やしたいなら、僕ならあえて真逆の学校を選ぶ。御三家随一の保守的な学校と、対極にある場所は――」

「……メガラニカ、ですか?」

 クルスの薄い知識でも浮かんでくる学校の名前。その名に対してクロイツェルは何一つ反応を示さず、否定も肯定もしないままクルスに背を向けた。

「知るかボケ。あとは自分で考えェや」

「あ、ありがとうございました!」

「礼は要らん。いずれ、まとめて取り立てたるから覚悟しとけや」

「はい!」

「……何で笑顔やねん。キショい」

 舌打ちし、クロイツェルはこの場を去っていく。クルスもまた満身創痍の身体を引きずりながら、寮へ戻るために動き出す。

 一睡もしていないのに眠くない。余力はないけど、心だけは静かに熱を取り戻していた。たった一晩、何が変わったわけでもない。

 だけど、進むべき道は見えた。あの時の確信も、疲弊した身体と言う限定的な状態でのみ再現性を得た気がする。あとはもう一度手を伸ばすだけ。

 そしてその上で、この確信を活かす手札を揃える。

 アスガルドの方針は正しかった。攻守揃えて初めて、自分の堅守は生きるのだ。さっきのような遮二無二踏み込んだあれは良い牽制になった。

 囮の質を上げればカウンターも刺さる。カウンターが刺されば守備の強さも増す。囮も、囮以上の働きをするかもしれない。

 クルス・リンザールは征く。

「……まだ早い。まだ、足りんわ」

 レフ・クロイツェルの思惑通りに。

 彼らが持つ歪みを抱えたまま――


 ちなみに血塗れのまま寮へ戻ったクルスを見て、

「誰がやった!?」

 ぶち切れたディンが騒動を起こしたのはまた別の話である。

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