第103話 斉物論 またもまとめる
予、
斉物論がよくわからんから読み返してみて、やっぱりよくわかりませんでした。ただ、自分が提起した
①道の前で万物はカス。
②けど我々は、確かに生きている。
X証明しきれないものは検討に値しない。
については、全くゆらぎませんでした。広大にもほどがあるよくわからないなにかの中にふわりと浮かぶ自分に気づき、自分の価値観こそが世界における絶対的な基準であるという勘違いであるとか、自分ならばより世界のことがわかるというおごりを粉々にすべく、斉物論のテキストは綴られています。
ここで斉物論の構成を見てみます。初っ端と終わりにエピソードが載ります。これは大知閑閑以降の論説を例示、補強するものと見ることができるかと思います。となると理解分解にあたっては、大知閑閑〜此之謂葆光を一つの流れとして理解し、堯舜問答〜影とフチまでの各エピソードを眺め、いちど冒頭に戻り、最後に胡蝶の夢を見る、とするのが良いのでしょう。
○本論
2
大知閑閑,小知间间;大言炎炎,小言詹詹。其寐也魂交,其覺也形開,與接為搆,日以心鬬。縵者,窖者,密者。小恐惴惴,大恐縵縵。其發若機栝,其司是非之謂也;其留如詛盟,其守勝之謂也;其殺若秋冬,以言其日消也;其溺之所為之,不可使復之也;其厭也如緘,以言其老洫也;近死之心,莫使復陽也。喜怒哀樂,慮嘆變慹,姚佚啟態;樂出虛,蒸成菌。日夜相代乎前,而莫知其所萌。已乎,已乎!旦暮得此,其所由以生乎!
非彼无我,非我无所取。是亦近矣,而不知其所為使。若有真宰,而特不得其眹。可行己信,而不見其形,有情而无形。百骸、九竅、六藏,賅而存焉,吾誰與為親?汝皆說之乎?其有私焉?如是皆有為臣妾乎?其臣妾不足以相治乎?其遞相為君臣乎?其有真君存焉?如求得其情與不得,無益損乎其真。一受其成形,不忘以待盡。與物相刃相靡,其行盡如馳,而莫之能止,不亦悲乎?終身役役而不見其成功,苶然疲役而不知其所歸,可不哀邪?人謂之不死,奚益?其形化,其心與之然,可不謂大哀乎?人之生也,固若是芒乎?其我獨芒,而人亦有不芒者乎?夫隨其成心而師之,誰獨且无師乎?奚必知代而心自取者有之?愚者與有焉。未成乎心而有是非,是今日適越而昔至也。是以无有為有。无有為有,雖有神禹,且不能知,吾獨且奈何哉?
②、X。
自分が、自分が、と闘争を繰り返し、日々衰えゆく。そんなものになんの意味があるのか。所詮我々は我々の生まれた源のこともわからなければ、そもそもにして自身の体がどのように動いているのかすらわからない。何もかもがさっぱりわからない中、目先のものに対してあくせくとしてどうなるのか? どうせ世界のありようなんてものは、あの神の如き知恵をお持ちでいた禹王ですらわからなかったのだ。
道とともにあろうとすることに必要なのは賢さではない。ただ、気づくか、気づかないかでしかない。
3
夫言非吹也,言者有言。其所言者特未定也。果有言邪?其未嘗有言邪?其以為異於鷇音,亦有辯乎?其無辯乎?道惡乎隱而有真偽?言惡乎隱而有是非?道惡乎往而不存?言惡乎存而不可?道隱於小成,言隱於榮華。故有儒墨之是非,以是其所非而非其所是。欲是其所非而非其所是,則莫若以明。
物无非彼,物无非是。自彼則不見,自知則知之。故曰彼出於是,是亦因彼。彼是方生之說也,雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之於天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且无彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應无窮。是亦一无窮,非亦一无窮也。故曰莫若以明。
X。
我々は言葉でもってあれのこれのと語る。物事を評価したつもりになる。しかし、その是非を語ってみたところでAからすればAが是、Bが非となるが、BからすればAが非、Bが是だ。あらゆる物事は相対的にしか語ることができず、そこに「たった一つの、絶対に正しいこと」を見出そうとすれば、「AもBも存在している」ということでしかない。すべてが存在している、と受け入れ、その是非を判断しない。どうせ「是にもなるし、非にもなる」みたいな結論にしか繋がらないからだ。なら、ありのままのありようを受け入れろ。それで初めて世界のありのままの姿を見出すことができる。
4
以指喻指之非指,不若以非指喻指之非指也;以馬喻馬之非馬,不若以非馬喻馬之非馬也。天地一指也,萬物一馬也。
可乎可,不可乎不可。道行之而成,物謂之而然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。物固有所然,物固有所可。无物不然,无物不可。故為是舉莛與楹,厲與西施,恢恑譎怪,道通為一。其分也,成也;其成也,毀也。凡物无成與毀,復通為一。唯達者知通為一,為是不用而寓諸庸。庸也者,用也;用也者,通也;通也者,得也;適得而幾矣。因是已,已而不知其然,謂之道。勞神明為一而不知其同也,謂之朝三。何謂朝三?狙公賦芧,曰:「朝三而暮四,」衆狙皆怒。曰:「然則朝四而暮三,」衆狙皆悅。名實未虧而喜怒為用,亦因是也。是以聖人和之以是非而休乎天鈞,是之謂兩行。
X。
とあるCという物体あるいは概念がある。物体であればその名前でくくられる無数の実体があり、さらにそれを認識する観測者の数だけ様々な解釈が与えられる。概念であれば、運用者の数ぶんの解釈。では、いったい誰の解釈が本当の意味でCを正確に言い表せるのか? 誰もいない。それらの解釈を戦わせてみたところで猿がどんぐりの数で喚き立てるのと同じにしかならない。ならば「Cがある」以上のことをあれこれ論じたところで仕方がないのだ。是でも、非でもあることを受け入れるのだ。
5
古之人,其知有所至矣。惡乎至?有以為未始有物者,至矣,盡矣,不可以加矣。其次以為有物矣,而未始有封也。其次以為有封焉,而未始有是非也。是非之彰也,道之所以虧也。道之所以虧,愛之所以成。果且有成與虧乎哉?果且无成與虧乎哉?有成與虧,故昭氏之鼓琴也;無成與虧,故昭氏之不鼓琴也。昭文之鼓琴也,師曠之枝策也,惠子之據梧也,三子之知幾乎,皆其盛者也,故載之末年。惟其好之也,以異於彼,其好之也,欲以明之。彼非所明而明之,故以堅白之昧終。而其子又以文之論論緒,終身无成。若是而可謂成乎?雖我亦成也。若是而不可謂成乎?物與我無成也。是故滑疑之耀,聖人之所圖也。為是不用而寓諸庸,此之謂以明。
X。
ただ世界とともにあり、ことさらの思弁を挟まない。これが理想的なあり方だ。けれども、これはことさらな思索、人為によってではたどり着けない。もしそうだと仮定するならば、実在する演奏の名人、作曲の名人、論考の名人たちが真理にたどり着いたとしてもおかしくないはずではないか。けれども彼らは真理を他者に伝えるどころか、その言葉によって却って人々を迷わせるに過ぎなかった。人為、分別を捨て、ありとあらゆるものの前に身を投げ出し、その「何もわからないもの」を「わからない」ままで引き受ける。そうして初めて、世界のありようが見えてくる。
6
今且有言於此,不知其與是類乎?其與是不類乎?類與不類,相與為類,則與彼无以異矣。雖然,請嘗言之。有始也者,有未始有始也者,有未始有夫未始有始也者。有有也者,有无也者,有未始有无也者,有未始有夫未始有无也者。俄而有无矣,而未知有无之果孰有孰无也。今我則已有謂矣,而未知吾所謂之其果有謂乎,其果无謂乎?天下莫大於秋毫之末,而大山為小;莫壽於殤子,而彭祖為夭。天地與我並生,而萬物與我為一。既已為一矣,且得有言乎?既已謂之一矣,且得无言乎?一與言為二,二與一為三。自此以往,巧曆不能得,而況其凡乎!故自无適有以至於三,而況自有適有乎!无適焉,因是已!
X。
ここまでの話も、結局は弁別の話なのではないか、とされるかもしれない。
あー。まぁ、わかるよ。
けど言っとくがな、そういう態度がものごとをしっちゃかめっちゃかにすんのだ。
……わかっとんのか!? その辺お前に突きつけっかんな!!?!?!!!?
始まりとは何か? 始まりの前にも何かがあったのではないか? そんなことはないと否定もできる、いや、そうではない……と、否定に対する否定はどこまでも重ねることができ、きりがない。
また「自分が世界と同じところにある」と考えたとき、自分、世界、おなじところにある、という三つの認識が存在してしまう。そして三つの認識が存在していると気づくことで、認識は四つとなる。さらに「四つのものがある」という、五つ目の認識が生まれる。以降は無限増殖だ。こうなれば、もはや世界とともにある状態とは到底言うことができない。
いったん始まった議論は、その気になればどこまでも続いてしまうのだ。どうすればその果てにたどりつくというのか。ならば始めから乗らないほうが良いのだ。
7
夫道未始有封,言未始有常,為是而有畛也,請言其畛:有左有右,有倫有義,有分有辯,有競有爭,此之謂八德。六合之外,聖人存而不論;六合之內,聖人論而不議。春秋經世先王之志,聖人議而不辯。故分也者,有不分也;辯也者,有不辯也。曰:何也?聖人懷之,衆人辯之以相示也。故曰:辯也者,有不見也。夫大道不稱,大辯不言,大仁不仁,大廉不嗛,大勇不忮。道昭而不道,言辯而不及,仁常而不成,廉清而不信,勇忮而不成。五者园而幾向方矣,故知止其所不知,至矣。孰知不言之辯,不道之道?若有能知,此之謂天府。注焉而不滿,酌焉而不竭,而不知其所由來,此之謂葆光。
X。
下手に物事を区切ろうとするから、議論は際限なく紛糾し、はてには対立さえ招いてしまう。それを知るからこそ、聖人は自らが認知しうる世界の外に興味を持たない。また認知しうる中のことも受け入れはするが、批評はしない。下手に分析し、理解を深めようとすればするほど、世界の実態に対する理解は「中途半端な固執」がひどくなっていくに過ぎないとわかっているからだ。
仮に、仮に、本当に世界と同化できる人間が現れたとするならば、それはもう「天がこの世に降りてきた」ような印象を与えることだろう。彼はあらゆるものを受け入れても溢れないし、あらゆる知恵を授けても枯れ果てない。いったいぜんたい、彼についてどう解釈を加えようというのか。よくわからないがすごそうな人、という以外にないではないか!
②についてはもう少しどこかで論じていた気もしたのだけど、改めて整理してみるとあまり明示的に語られてはいなかった。ただ論の全体が「自分が感得しうるもののうち、間違えようのないもの」を懸命に探り当てようとしている印象にもなる。つまり②については証明がどうこうではなく、「議論の前提としなきゃどうしようもない」となっていそう。
……いや違うわ、これ斉物論全体によって導かれる最終結論が②だわ。またあとで話します。
ともあれ、デカルトにいきたくなりますね。やっぱりいくのやめます。デカルトの「我思う、故に我あり」は神から切り離された一個人がいかに形而上の世界に挑まんかという、いわばゲマインシャフト的なものであり、一方の荘子は一瞬でも世界と同期してしまった感覚から世界を見直すと「人間が自己を認識している」ことがどうにも棄却しきれないという、まぁゲゼルシャフト的なものなのよね。同じような話をしていても、ベクトルは間逆なのだ。だからこそ楽しそうとも思うのだが、ちょっと今やりたいことを考えれば、脇に置いとくしかない。
○解説としてのエピソード集
7
故昔者堯問於舜曰:「我欲伐宗、膾、胥敖,南面而不釋然。其故何也?」舜曰:「夫三子者,猶存乎蓬艾之間。若不釋然,何哉?昔者十日並出,萬物皆照,而況德之進乎日者乎!」
いにしえの聖王と呼ばれる堯と、舜。荘子は史書に残る結果(堯はいったん禅譲における人選に失敗した末、舜を選んだ。その舜は失敗することもなく禹を後継者として選んだ)から舜をより偉大な聖人であるとみなす。まぁ正直「一切の失敗なくもっとも正しい選択肢を引き当てる」とか、この世に霊威が存在することを心底実感できてるやつ以外がうたうんなら、その詐欺師あるいは扇動者としての異能が半端ないってことにもなりますよね。
荘周みたいな観察者ないし冷笑者を検討の前提に置くのであれば、「舜みてーな明察をキメる聖人? いるわけねーだろwww」みたいな結論に行き着きそうでは、ある。だってここまで荘子を読んできて、荘周が聖人と同じ境地にたどり着けたなんて思ったことはなさそうだ、としか思えないんだもの。
「り、りろんはしってる」
――んだ、ろう。
けど。
では、それをどう実践しきれるか。まぁ「無理」が結論なんですが。
8
齧缺問乎王倪曰:「子知物之所同是乎?」
曰:「吾惡乎知之?」
「子知子之所不知邪?」
曰:「吾惡乎知之?」
「然則物无知邪?」
曰:「吾惡乎知之?
雖然,嘗試言之:庸詎知吾所謂知之非不知邪?庸詎知吾所謂不知之非知邪?
且吾嘗試問乎女:民溼寢則腰疾偏死,鰌然乎哉?木處則惴慄恂懼,猨猴然乎哉?三者孰知正處?民食芻豢,麋鹿食薦,蝍且甘帶,鴟鴉耆鼠,四者孰知正味?猨猵狙以為雌,麋與鹿交,鰌與魚游。毛嬙麗姬,人之所美也;魚見之深入,鳥見之高飛,麋鹿見之決驟,四者孰知天下之正色哉?自我觀之,仁義之端,是非之塗,樊然殽亂,吾惡能知其辯!」
齧缺曰:「子不知利害,則至人固不知利害乎?」
王倪曰:「至人神矣!大澤焚而不能熱,河漢沍而不能寒,疾雷破山,風振海而不能驚。若然者,乘雲氣,騎日月,而遊乎四海之外,死生无變於己,而況利害之端乎?」
4 からの置き換え。あなたが思う「指」は私の思う「指」とはちがう、そして世の中にごまんとある、実体としての指もちがう。同じようなことが馬にも天下にも万物にだって言える。そうしたら「知る」と言う概念だって当然ちがう。そしてあなたの「知る」が本当に正しいものかどうかを考えるとき、そもそもの生き方によっていくらでも「知る」の意味合いが変わる。
では「至人」なら「知る」の意味がわかるんだろうか? いやたぶんそんなことに関心持たないと思うよ。
9
瞿鵲子問乎長梧子曰:「吾聞諸夫子,聖人不從事於務,不就利,不違害,不喜求,不緣道;无謂有謂,有謂无謂,而遊乎塵垢之外。夫子以為孟浪之言,而我以為妙道之行也。吾子以為奚若?」
長梧子曰:「是黃帝之所聽熒也,而丘也何足以知之!且女亦大早計,見卵而求時夜,見彈而求鴞炙。
予嘗為女妄言之,女以妄聽之。奚旁日月,挾宇宙?為其脗合,置其滑涽,以隸相尊。衆人役役,聖人愚芚,參萬歲而一成純。萬物盡然,而以是相蘊。
予惡乎知說生之非惑邪!予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪!麗之姬,艾封人之子也。晉國之始得之也,涕泣沾襟;及其至於王所,與王同筐牀,食芻豢,而後悔其泣也。予惡乎知夫死者不悔其始之蘄生乎?
夢飲酒者,旦而哭泣;夢哭泣者,旦而田獵。方其夢也,不知其夢也。夢之中又占其夢焉,覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也,而愚者自以為覺,竊竊然知之。君乎,牧乎,固哉!丘也與女,皆夢也;予謂女夢,亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後而一遇大聖,知其解者,是旦暮遇之也。
既使我與若辯矣,若勝我,我不若勝,若果是也,我果非也邪?我勝若,若不吾勝,我果是也,而果非也邪?其或是也,其或非也邪?其俱是也,其俱非也邪?我與若不能相知也。則人固受其黮闇,吾誰使正之?使同乎若者正之?既與若同矣,惡能正之!使同乎我者正之?既同乎我矣,惡能正之!使異乎我與若者正之?既異乎我與若矣,惡能正之!使同乎我與若者正之?既同乎我與若矣,惡能正之!然則我與若與人俱不能相知也,而待彼也邪?
何謂和之以天倪?曰:是不是,然不然。是若果是也,則是之異乎不是也亦无辯﹔然若果然也,則然之異乎不然也亦无辯。化聲之相待、若其不相待。和之以天倪,因之以曼衍,所以窮年也。忘年忘義,振於无竟,故寓諸无竟。」
3 および 6 および 7 からの置き換え。
ここの議論見て笑っちゃった。以前に福永光司氏が「天籟とは人籟や地籟と言ったあらゆる音を区別せず、斉同の境地から聞き入れること」とされていたことに噛みついた訳なのだけれど、そしてそこは確信レベルで思ってもいるのだけれど(だいたい斉同の境地ってなんやねん)、一方で、これなのよね。
かりに福永氏と論争したとして、勝ったにせよ負けたにせよ、どちらの論が正しいと言うことになるのか? あるいは双方が正しく、双方が間違っているのか? 誰か第三者に裁定してもらったたところでどちらかに見解が寄っていればどちらか寄りの裁定しか下さないだろうし、両方に納得していれば決められないだろうし、どちらも間違っていると思えば切り捨てられる。そんな答えのないもんに対していったい誰の裁定を待てばいいのか?
聖人とは訳のわからんもの、ファンタジー。そんなもんはブラックボックスに押し込めてしまえ。だいたい生きてることだって訳わからんのだ、その理由なんぞブラックボックスに押し込めてしまえ。なんでもかんでもあるがままに受け入れてしまえばいいのだ。受け入れた末にどうなるのかなぞブラックボックスに押し込めてしまえ。全部ブラックボックスにぶん投げろ。
10
罔兩問景曰:「曩子行,今子止﹔曩子坐,今子起。何其无特操與?」
景曰:「吾有待而然者邪?吾所待又有待而然者邪?吾待蛇蚹蜩翼邪?惡識所以然!惡識所以不然!」
これは、考えてみると 5 からの翻案のような気はする。2 も含まれるかな。我々の意識はみんな罔兩なのであり、景である肉体によって振り回されている。そうしたら、肉体をいましめる何か、すなわち真宰がこの世に存在するとして、ではその真宰も本当に誰にも束縛されない何かだと思うのかい? という。
ここは図解があるといいだろう。
天籟>地籟>人籟
真宰>肉体>情
然者>景 >罔兩
斉物論冒頭の、本論冒頭の、そしてここの、それぞれの三つがそれぞれこのように対応している。このように解釈した。われわれは「情」に基づいて考え、「肉体」を動かしこそするがその原理はわからず、ならば肉体を本当に制御する、仮に「真宰」と置いた何者かのことはちょっと想像がつかない。ここで「情」の立ち位置は人籟、罔兩に置き換えることが可能であり、以下同文。
そこに気付けるか、気付けないか。それはどんなに賢くても、気付けないなら届かない。どんなに愚かであっても、気付けさえすれば飛び込める。そういった性質のもの。さて、ここまでの話を一通り整理してみて、「世界マジわからん、わかったつもりになるだけ無駄」に気付けたかな?
○以上の議論を導くための導入
1
南郭子綦隱几而坐,仰天而噓,嗒焉似喪其耦。顏成子游立侍乎前,曰:「何居乎?形固可使如槁木,而心固可使如死灰乎?今之隱几者,非昔之隱几者也?」
子綦曰:「偃,不亦善乎,而問之也!今者吾喪我,汝知之乎?汝聞人籟而未聞地籟,汝聞地籟而未聞天籟夫!」
子游曰:「敢問其方。」
子綦曰:「夫大塊噫氣,其名為風。是唯无作,作則萬竅怒呺。而獨不聞之翏翏乎?山林之畏隹,大木百圍之竅穴,似鼻、似口、似耳、似枅、似圈、似臼、似洼者、似污者;激者、謞者、叱者、吸者、叫者、譹者、宎者、咬者,前者唱于而隨者唱喁。泠風則小和,飄風則大和,厲風濟則衆竅為虛。而獨不見之調調之刁刁乎?」
子游曰:「地籟則衆竅是已,人籟則比竹是已,敢問天籟?」
子綦曰:「夫吹萬不同,而使其自已也,咸其自取,怒者其誰邪!」
そして、この冒頭。
南郭子綦は道と合致したのだが、顏成子游に話しかけられたことにより、「引き戻された」。そして道と合致することにより、「自分では到底知り得ぬもの」の存在を実感として体得した。それが南郭子綦の感覚で言うと「籟」、歌だった。たぶん音楽が好きな方なんでしょう。
荘子はおそらく果てしない青空と一体化したのが道と合致した感覚だったろうし、南郭子綦は音。そして老子は、果てしない深淵。どれもこれもが言葉にするとてんでんばらばらだが、しかし「道と合致した」という意味ではどれも等しい。なぜなら、そこにはどうしようもなく自分がいてしまうから。
そうやって考えると、胡蝶の夢のエピソードの見え方がだいぶ変わってきた。
○総説
11
昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。
夢の中の自分が自分なのか、夢から覚めた自分が自分なのか。それがどちらだかわからない、しかし「夢の中の自分と外の自分がちがう」と言う感覚だけはどうしても手元に残ってしまう。どれだけ道に合致したと思っても、結局のところ自分という「物」であることからは逃れようがなく、避けようがない。つまり自分の解釈における「物化」とは、自分自身がどうしようもなく自分という実体を帯びてしまっている、と気付くこと。すなわち上で言った「②けど我々は、確かに生きている。」から、どうしようもなく逃れようがない、と言う最終結論だ。
そこには、どれだけ道と合致したいと願ってはみても、所詮は合致しきれない自分に対する諦めがあるように感ぜられる。もちろん「それはそれでよし」なのだろうけれど。
以上の検討を経て、はじめに提示したやつをもうちょっと感じたものに合わせて調整してみたいと思います。
①世界にある万物はカス。
②「我」からは逃れようがない。
X証明できないものは検討しない。
こうなってくるかな。ていうか①について斉物論では全然触れられてませんね。それはまるまる逍遥游に投げる感じだったのか。ともなれば斉物論によって「そんなとんでもねー中にぽつんと置き去りにされてるワイらが、確かにいてしまう」ことを示した。なら以下は「じゃあ実際どのように生きるべきでしょうか」に話が進んでいくのですね。そりゃ具体論のトップバッターが養生主、「自身を満たせ」になるわけです。まぁこっから先は追いませんが。
さて、この辺りの理解を踏まえて、老子の語る「道」と付き合ってみたいと思います。あいつの経世済民(笑)の話はどうでもいいので切り捨てます。
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