第102話 再読 斉物論11 夢為胡蝶

昔者莊周夢為胡蝶,栩栩然胡蝶也。自喻適志與!不知周也。俄然覺,則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶與,胡蝶之夢為周與?周與胡蝶,則必有分矣。此之謂物化。

 昔、莊周は夢にて胡蝶為り。栩栩然たる胡蝶なり。自ら志に適うと喻うや! 周なるを知らざるなり。俄然と覺め、則ち蘧蘧然たる周なり。知らず、周の夢にて胡蝶為るか、胡蝶の夢にて周為るか? 周と胡蝶、則ち必ずや分有り。此れや之れ物化と謂う。


 昔、ぼくは夢の中で蝶だった。ひらひらと舞う蝶だったのだ! あまりに心地よすぎて、ぼくがぼくであることすら忘れていたほどだ。ところが不意に目覚めて、きょろきょろとするぼくに戻ったのだ。

 これはどうしたことだ。ぼくが夢の中で蝶であったのか、それとも蝶が夢の中でぼくであるのだろうか?

 ぼくたちは、抗いようもなく「自分の知覚」を区分けしてしまわざるを得ない。本来世界と斉しいものであると信じたいのだが、どうしても切り離されたひとつのもの、として自分を認識せざるを得ないのだ。



 と言うわけで、斉物論のラスト。正直「物化」についてはどう足掻いても理解しようがない。だので、その前に「必ずや分あり」という言葉が持ち出されていることから強引に引っ張ってきた。

「分はない、すべて等しい」が荘子の言いたいことではなかったか。けれども、必ず分はあってしまう。夢と現実、どちらが本当の世界なのかなぞ到底わからないはずだというのに。どちらが正しいかなぞ証明しようがないのであれば、「どちらも自分」としかいいようがないはずなのだ。

 しかしどちらも自分でありながら「人でない自分」「蝶でない自分」に分かれてしまっている。これはどうしたことだ、ぼくは一なるものではなかったのか、分なき世界にたゆたうはずではなかったのか?

 こうなってくると、「道枢」を思い出さずにおれない。世界はひとつのはずなのに、それでも、どうしようもなく「自分」にとっては「自分以外」が存在してしまう。ここはどう足掻いても克服のしようがない。


 自分の中で、荘子は結局「聖人とは人間に届きうる存在ではない」と語っている、と思っている。だのでここで物化という言葉が、世界はどうしようもなくひとつだ。けれども自分という意識が恒常的に世界と同一であり続けることなどできようがない、と語っていると考えれば、聖人でありたいと思いながら決して聖人にはなれない自らの悲しさを語っているようにも思われる。


 さて、これでひとまず斉物論の再読は終了。前回と同じように、改めて斉物論というチャプター全体がどのようなものになったかを整理した上で、老子道徳経のうち「道」について語っているものをピックアップ、両者のすりあわせを行い、終了します。

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