第8話
「私のお飾りの妻になってください」
そんな言葉を本当に愛する女性に差し出すのは心がナイフで刻まれるように痛んだ。
だけれど、これが彼女と結婚する唯一の方法だと思うと仕方がなかった。
幼馴染で許嫁だった彼女のことは一日だって忘れたことはない。
彼女は忘れてしまったみたいだけれど……。
彼女が幼い頃、誘拐されてから関係は変わってしまった。
両親が彼女のことをよく思わず、口走った言葉が原因で婚約は解消されてしまった。
婚約が解消されてからも彼女を思い続けた。
彼女に関する情報を集め続けた。
すこしでも彼女が笑っていると思えればいいと思って。
だけれど、彼女の人生はどんどんと過酷なものになっていった。
記憶喪失に、家の没落。だけれど、彼女は貧しい暮らしに心を汚されることなく健気に生き続けている。
だけれど、記憶喪失の彼女はこちらのことを覚えていないし、ただ差し伸べた手なんて信じてくれないだろう。
そう思って、考えた結果が、「お飾りの妻になってください」と申し出ることだった。
彼女に指一本さえ触れることができなくても、彼女に幸せになって欲しいと思った。
男性が怖いなら結婚なんて了承してくれないだろう。
結果、お飾りの妻として彼女と正式に結婚することが叶った。
彼女を怯えさせたりしないように自分には身分の差がある愛人がいて、その女と別邸と住んでいることにして、彼女が屋敷に慣れるまでまっているつもりだった。
彼女に昔、渡したドレスにそっくりなこの白亜の屋敷と庭にたくさんのスズランを与えた。
どれも子供の頃、彼女に約束したものだった。
彼女は覚えていないだろうが、屋敷の前でスズランの咲き誇る庭を見て微笑む彼女をみて、約束を果たせて良かったと心から思えた。
たとえ彼女がこちらのことを思い出すことがなくても、たとえ彼女が一生をお飾りの妻として過ごすことを望んでも、ずっと彼女の側にいて守り続けたいと思った。
彼女は屋敷の使用人達にもなれていき、徐々に昔のように微笑むことができるようになっていった。
ただ問題は彼女は「お飾りの妻」の役割を正式な妻としてパーティーにでることだけでなく、架空の愛人との恋愛のスパイスになることだと勘違いしているところだった。
最初は困惑した。
だけれど、その困惑も気にならなくなるくらい、架空の愛人にヤキモチをやかせようとする彼女が愛しくてしかたがなかった。
「おかえりなさい!」
出迎えると同時に抱きしめられたときは驚いた。
男性が怖いはずなのに、彼女が仕事のためとはいえ、自ら触れてくれるのは嬉しくてしかたがなかった。
手作りの料理に刺繍をいれたハンカチのプレゼント。
どれも期待していなかった、幸せだ。
使用人達は事情を知っているから、きっと協力して彼女と私の思い出を作ってくれようとしたのだろう。
演技だとしても、せめて夫婦としてのワンシーンをって。
とくに彼女のメイドはよくやってくれていた。
だけれど、そんな日々にも転機がやってきった。
彼女が言ったのだ。
「旦那様の愛する人に会ってみたいのです」
ついにこのときが来たと思った。
「私が愛するのは貴方だけですよ」
そう言ってしまいたかった。
でも、実際に口にできた言葉は、
「ダメです」
初めて彼女に拒絶する言葉を放ってしまった。
本当は彼女の望みならどんなささやかなものでも叶えてあげたいと思っていた。
だけれど、こればかりは無理だ。
存在しない女性に会わせるなんてことができない。
しかし、彼女は架空の愛人に会う計画を立て始めた。
どうやら、私との仲むつまじい関係を愛人が見たら傷つくだろうとおもったらしい。
使用人達がとめてくれたのに、彼女はきかなかった。
彼女に偽りを告げていたと知られるのが怖かった。
せっかく打ち解けた彼女がまた心を閉ざしてしまうのではないだろうかと不安だった。
そして決めたのだ。
あの別邸を消してしまおうと。
もともと、祖父が趣味のために自ら建てた家だから、危険もあったのだ。
だから、彼女が訪れる前に、燃やしてしまおうと……。
彼女がその燃えさかる別邸に愛人を助けるために飛び込むなんて誰も予想しなかった。
彼女は本当に真面目で思いやりがある。
そんな彼女に嘘偽りを告げて、結婚を申し込んだ私はきっと許されることはないだろう。
燃えさかる別邸に飛び込んだ彼女に気づき、助け出すことはできた。
ただ、私は彼女が再び目を覚ますのを待つ。
あの別邸と私の愛人についての
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