第31話 正解があるなら教えてくれ
その日は杏奈に連絡しても返事がくることはなく、部屋の扉を叩いても出てくることはなかった。
色々あって疲れたのだろう。そっとしておくことにした僕だが、翌朝になっても彼女は部屋から出て来ない。
流石に不審に思って、何度かインターホンを鳴らし続けると、
「……は、はい」
死にそうな声と共に、酷く顔色の悪い杏奈が扉を開けた。
◆
「体調悪いなら、早くそう言えよ。心配しただろ」
部屋にあげてもらい、ふらつく彼女を支えながらベッドへ移動して寝かせた。
布団をかぶって口元を隠し、「ごめん」と力なく呟く。普段の元気がまったくなく調子が狂う。
「熱は?」
「……三十八度、ちょっとくらい」
「病院は?」
「まだ行ってない」
「食事は?」
「昨日の夜から、何も……」
覇気のない声をボソボソと呟く様は、本当に別人のようだ。
「じゃあ、学校には僕から連絡しとく。すぐお粥作るから、起きててくれ。食べないと治るもんも治らないし」
「遅刻しちゃうよ?」
「気にすんな、僕も休むから」
杏奈との勉強会のおかげで、真面目に授業を聞く必要があまりないため、一日くらいの欠席は何の問題もない。
それに一昨日と昨日で、流石の僕も疲れた。
今日はバイトもないため、疲労を消化するとしよう。
「……いいよ、放っといて」
「は?」
「あたしのこと、放っておいて」
「体調が悪いやつを――」
「何度も言わせないで! 放っておいてって言ってるの!!」
勢いよく身体を起こしてそう叫び、ゴホゴホとむせた。
理解のできない言動に戸惑うも、ひとまず「大丈夫か?」と背中をさする。杏奈は目尻に涙をにじませて、ガバッと布団を頭までかぶる。
「……ごめん、大声出して。あたし、大丈夫だからさ。真白に迷惑かけたくないし」
今にも消え入りそうな声をにじませて、「ごめんね」と再度謝った。
僕は小さくため息を漏らして、制服のネクタイを緩める。
「何が大丈夫だよ。ふざけんな」
その言葉に、杏奈はおずおずと布団から顔を出した。
「風邪っぴきを放っとくなんて、そっちの方が僕にとっちゃ迷惑なんだ。学校への連絡とお粥作るのは、勝手にやらせてもらうからな」
どうして杏奈が僕を拒絶するのか、理由はわからない。
もしかしたら、風邪をうつしたくないのかもしれない。体調が悪くて気が立っているのかもしれない。僕のことが嫌いになったのかもしれない。
彼女の気持ちは汲むべきだと思うが、それは健康な場合に限る。
心配性の僕に、体調不良の人間を放っておける度量なんてない。
「文句はあとで聞くから、今はとにかく寝てろ」
言いながらスマホを取り出し、廊下に出た。
よくよく考えると杏奈の代わりに僕が欠席の連絡を入れるのはおかしいのではと思ったが、電話に出た教師にお隣さんであることを説明するとすんなり受け入れてくれた。ついでに僕にも風邪がうつったことにして、欠席を報告し電話を切る。
すぐ自分の部屋に戻り、お粥を作った。卵とネギがたっぷり入ったやつだ。
それを鍋ごと杏奈のもとへ持って行き、ドンとテーブルに置く。
「ここに置いとくぞ。夜にまた来るから」
杏奈から返って来たのは、沈黙だった。
◆
午後七時を回った頃。
杏奈の部屋のインターホンを押すと、やはり反応はなかった。
まさかと思い、ドアノブを捻ると……。
開いている。僕が出てから、鍵を締めていないらしい。
「……不用心だな」
不審者が入ってきたらどうするつもりなのだろう、と思うのと同時に、病院に行っていないのではという疑問に行き着く。そういえば、彼女が部屋から出た音を聞いていない。
勝手に部屋にあがって廊下を進み居室へ入ると、明かりも点いておらず真っ暗。薄闇の中で今朝持ってきた鍋を確認すると、一切手がつけられていなかった。
「せっかく作ってもらったのに……ごめん、食べれなかった」
杏奈は起きていたらしく、もぞっと動いてそう言った。
その声には、今朝以上に張りがない。丸一日何も食べておらず、熱があって、おそらく薬も飲んでいない。流石にこれはまずいのではないか。
「お前、もしかして……」
杏奈はメチャクチャな性格だが、正しい選択が取れない人間ではない。
風邪をひけば病院に行くだろうし、消化のいい食事をとるだろう。それが難しければ、誰かに助けを求めるはず。それすらできないということは、体調不良以外に何か理由があるのだろう。
「昨日のこと、気にしてるのか?」
あの二人組は、盗んだ制服を三階教室のゴミ箱に捨てたと言っていた。
自分の制服がホコリとゴミにまみれていたら、それはショックなことだろう。
「生徒会がクリーニング代出してくれるって言ってたし。それに実は、盗んだやつは特定できたんだ。僕がもう、二度としないよう言っといたし――」
「知ってる」
「え?」
「……真白が話してるとこ、聞いたから」
言いながら、ゆっくりと身体を起こした。
前髪の切れ間から虚ろな瞳を覗かせて、僕を映し出す。
「見つかったことを教えようと思って。スマホに連絡しても出なかったから……色んな人に聞いたら、あの教室にいるって」
ますます理解ができなくなった。
喜ばれることをした、などと胸を張るつもりはないが、少なくとも悲しませるようなことをした覚えはない。
「……あたし、知らなかったの」
俯きながら零した声と共に、ぽたりと布団の上に熱いシミが広がった。
杏奈のもとへ駆け寄り、背中をさする。ずっと横になっていたことで、じんわりと汗ばんでいる。
「知らなかったって、何が?」
「自分が……嫌がらせされる、理由。……ずっと、ただ、僻まれてるだけだって思ってた。自分が優秀なのが悪いって……正直、周りのことバカにしてたし。何となく誰かと付き合ったりしたせいで、誰かが傷ついてたなんて想像もできなかった」
乾き切った声で綴りながら、両手で顔を覆い涙を拭う。
「……もし今、真白が誰かにとられたら嫌だもん。でもあたしは、ずっとそんな〝嫌なこと〟をしてきた。あの二人だけじゃないかもしれない。他にもたくさん、あたしの被害者がいるかも。そう考えたらさ……無理だよ、真白と一緒にい続けるなんて。そんな資格、あたしにはない!」
肩を震わせ、鼻水をすすり、手で何度も目を擦りながら。
彼女はたどたどしく訴える。
「こんなに嫌なやつだったあたしを、真白に好きになってもらおうなんて図々し過ぎる……っ」
複雑な気持ちが胸の内側で巻き起こる。
どう声をかけていいかわからない。
でも確かに、一つだけ、明確に言語化できる気持ちがあった。
「知るかそんなもん」
その気持ちは、意識するよりも先に唇を割って飛び出した。
「お前が誰かの好きを踏みにじってたから、それが何だよ。別に意図してやったわけじゃないんだろ」
「……」
「大体、一個悪いところがあったからって、他全部がゴミになるとか思ってるのか。そんなわけないだろ。僕はもう、お前のいいところをたくさん知ってるんだ。それを全部忘れて、僕に嫌いになってもらおうなんて、虫がいいにも程がある。……本当にもう、いい加減にしろよ!」
自分でも想像していたよりずっと語気が強くなり、杏奈はぐしゃぐしゃになった顔を上げて、「お、怒ってるの?」と首を傾げた。
「怒ってるに決まってるだろ! 僕のこと散々振り回しておいて何言ってるだ! 僕はもう、とっくに――」
続く言葉を、一瞬理性が引き留めた。
だが、もう止まれない。進めた足は戻ることを拒み、身体を前へ進ませる。
「杏奈のことが、好きなのに……!」
そう口にして、ハッと我に返った。
杏奈はただでさえ赤かった顔を更に赤くし、再び視線を手元へ落とす。
やばい。勢いでかなりまずいことを言ってしまった。
どうするんだ、これ。この状況で、今更否定するとか無理だろ。
「……でもあたし、嫌なやつだよ。真白が幻滅するくらいのこと、知らないうちにしてるかも……」
先ほどよりはいくらか明るく、しかしまだ泥沼ぬ片足を突っ込んだような声を落とした。
僕からあんな台詞を引き出しておいて、まだこの調子を貫く彼女に呆れてため息を漏らす。
「じゃあ、どういうやつだったら好きになってもいいんだ? 正解があるなら教えてくれ」
「せ、正解って……」
九月初旬、似たような問いを彼女からされた。
その時、僕は答えられなかった。答えられるはずがないことは、彼女が一番よくわかっている。
「大体、今まで散々僕の私生活をメチャクチャにしといて、今更図々しいもなにもないだろ。お前は会った時からずっと図々しいし……僕はそんなやつを好きになったんだから、もうぐだぐだ悩むのはやめろよ」
そっと杏奈の頭に触れて、優しく髪を撫でた。
彼女は涙で腫れた瞳で僕を見つめて、すぐに俯いた。
「……あたし、悪い子かもしれないのに、それでもいいの?」
「いい子とか悪い子とか、そんなのどうでもいい。お前が誰かを傷つけたら、その時はちゃんと怒るし、相手に許してもらえるように出来る限り手伝うよ」
「……そっか」
杏奈は納得したのか、ふっと肩から力を抜いた。
さて、一段落ついたところで、お粥を温め直すとしよう。流石に何か食べさせないと倒れかねない。
「真白」
「ん?」
立ち上がった僕に、彼女はそう言った。
振り返ると、熱っぽい瞳がこちらを映している。
「……す、好き、です」
かつてないほど弱気な告白に、プッと笑いが漏れた。
それが癪に障ったのか、杏奈はムーッと眉を寄せる。僕は「ごめんごめん」と謝って、
「僕も好きだよ」
そう口にして、微笑みかけた。
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