第26話 漏れちゃうでしょ
「ほ、ほんとにいいの?」
「仕方ないだろ。あんなところにずっといたくないし、僕も早く帰りたいし」
しばらく待ったが杏奈の腰が回復することはなく、仕方なく僕がおぶって帰宅することになった。
時刻は午後七時を回った。まだ学校には準備にいそしむ生徒が大勢残っており、学校でも買い出しの生徒とすれ違う。そのたび奇異の目を向けられるが、気にしないよう努めて先を急ぐ。
「重くない?」
「重くないよ」
「うそっ、絶対重いって」
「何だよ。重いって言って欲しいのか?」
「そんなこと、ないけど……と、とにかく不安なの!」
「わぁー暴れるな! 落ちるだろ!」
足をバタつかせる杏奈を一喝して黙らせ、やれやれと息をついた。
早朝のパン屋でのバイトやたまにする倉庫バイトにでは、意味がわからないくらい重いものを持たされる。それらに比べれば全然マシ……なのだが、そんなことを説明してもこいつはわかってくれないだろうな。
「……」
「……お、おい」
「……」
「何してるんだよ」
無言でモゾモゾと動く杏奈。
意味のわからない挙動について尋ねると、彼女は「おっぱい」と小さく漏らす。
「……おっぱい押し付けたら、真白の頭の中おっぱいで一色になって重さ感じなくなるかと思って」
「お前一応、うちの学校で一番頭いいんだよな!?」
「男子って皆おっぱい好きでしょ? 真白もよく、あたしのおっぱい見てるし」
「外でおっぱいおっぱい言うなよ!!」
必死に考えないようにしていたのに、余計なことをされて意識せざるを得なくなってしまった。
衣服越しなため極端に柔らかさを感じるわけではないが、確かにそこにあるとわかってしまう。普段無防備に晒している谷間が脳裏に浮かび、ほわほわと頭の中にピンク色のモヤがかかる。
「どう? 嬉しい?」
「……それ以上やったら、このまま後ろに倒れるからな」
「えっ、押し倒す?」
「言ってない!!」
僕の必死の声が通じたのか、「ごめんごめん」と杏奈は身動ぎをやめた。
こんなことになるなら、こいつを放置して帰ればよかった。……まあそんなことしたら、僕の性格上、どうせまた学校に戻ることになるだろうけど。
「今日は楽しかったね。毎日が文化祭の準備日だったらいいのに」
「祭りより前の日、なんてことわざもあるしな。何だって始まる前の方が楽しいだろ」
「わかってないなー。真白と一緒だから楽しいんだよ?」
「……」
「今ちょっとニヤけたでしょ」
「ニヤけてない」
もちろん嘘だ。
「文化祭、一緒に周れないからさ。今日はちょっとだけど、遊べて楽しかった」
そう言って、僕の首に回した腕に優しく力を込めた。
彼女の金髪がたらりと垂れ、僕の頬に触れてくすぐったい。
「今年が無理でも、来年があるだろ。それに、再来年だって。今にこだわる必要なんてあるのか?」
「だって、来年再来年の文化祭に参加できるかわかんないし」
「何で?」
「仕事が入ってたら、あたしはそっちを優先するから。文化祭に参加したいから仕事休みますとか、絶対言えないよ」
「……あぁ、そっか。そうだったな」
クラスの違いや僕のバイトの都合で、杏奈とは朝と夜しか会っていないから忘れていたが、彼女は時折学校を早退してモデルの仕事をしている。
詳しいことは知らないが、僕みたいに自分で希望のシフトを提出できるようなものではないだろう。急に仕事が入ったり、オーディション的なものが入ったり、そういうことだってあり得る。
「そういえばさ、聞いたことなかったんだけど」
「ん?」
「お前の目標っていうか、夢? モデルとして食べていきたいって、何でそう思うようになったんだ? 誰か憧れの人とかいるのか?」
他意のない、単純な疑問だった。
野球選手になりたいとか、パイロットになりたいとか、僕だってその手の夢を抱いたことはある。しかし、食べていきたいとなると話が別だ。
「うーん、何て説明すればいいかな。単純な話、あたしが人生で初めて〝負けた〟って思ったからかな」
「負けた?」
「前も言ったけど、あたし、小中の頃は無敵って感じでさ。モデルの仕事するってなった時も、ぶっちゃけ舐めてたの。だって雑誌見ても、あたしより可愛い子なんていないんだもん」
と、自嘲気味に言う。
杏奈は黒歴史のように言っているが、正直僕は、こいつの自分に対して自信満々なところが気に入っていたりする。調子に乗るだろうから口には出さないけど。
「いざ現場に行ってみたら、もう全然違ってさ。単純にカメラが、その人の魅力を完全に切り抜けてないだけ。みんなオーラとかすごくて、あー負けたって思ったの」
「負けたって、そういうことか」
「うん。一回偉い人に、あたしに将来性あるか聞いたことあるの。そしたら何て言われたと思う? そんなことを言って若い子のやる気を削ぎたくない、だってさ。それもう答え言ってるじゃんって感じで……――余計に燃えたよね」
横目に捉えた彼女の瞳は、真っすぐに前だけを見つめていた。
やっぱりこいつは格好いい。すごいと思うし、憧れる。僕には真似できない。
「まあでも、仕事は全然増えないしさ。実は映画とかドラマのオーディションも受けてるんだけどダメだし。やっぱり才能ないのかなー」
「成功してるやつの中で、失敗したことのないやつなんていないし大丈夫だろ。そのうち何とかなるよ」
「そ、そうかな?」
「杏奈が話した偉い人がどう思ってるかは知らないけど、少なくとも僕はそう思う」
根拠のないことを言うべきではないのかもしれない。僕は何の責任も持てないのだから。
でも、これは完全に我が儘だが、僕は自信たっぷりに前進しようとする杏奈が好きだ。
脇目を振って欲しくないし、立ち止まって欲しくない。そうならないよう無責任なことを言うくらい、普段から散々振り回されているのだから許して欲しい。
「……文化祭、だけど」
四、五十キロを背負ったまま歩き続けるのには限界がある。
足を止めて、気を遣わせないよう息を整えながら、視線だけを後ろへ向ける。
「もし暇な時間があったら、抜けられないか聞いてみるよ。……たぶん無理だけど、一応、聞くだけはやってみる」
別に僕が杏奈と文化祭を楽しみたいわけではない。
むしろ、この手の騒がしいイベントは得意じゃないし。
ただ彼女にとってはとても大きな行事で、しかも次やその次が無いかもしれないとなると、僕としては何とかしてあげたいと思ってしまう。
もちろん、僕の給料が優先。
業務に支障をきたさない上での話だが。
「本当?」
「期待はするなよ」
そう返すと。
雨が降り止んだあとのように、杏奈はしんと静まり返った。
おかしい。いつもなら、ワーキャー言いながらべたべたしてくるはずなのに……。
いや全然、期待してるわけじゃないけど。
「……僕、何かまずいこと言ったか?」
まったく意図せず、地雷を踏み抜いたのかもしれない。
それなら早く謝らなければと尋ねた僕に、杏奈は「そんなことないよ」と耳元で囁く。
「うちに帰ったらいっぱい好きって言うから、今我慢してるの。下手に口開いたら、漏れちゃうでしょ」
吐息混じりの声に、ゾクゾクと背筋に熱いものが走った。
……うちに帰ったら、か。
そろそろ休憩を終わろうと思ってたのに、果てしなく歩き出しづらい。まるで僕が、期待しているみたいになるから。
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