第三二話 前菜(アペタイザー)
——強くなりたい。そう僕はただ強くなりたい。剣の道を歩むものとして。
どうして強くなりたい?
それは弱い僕では振り向いてくれないだろう人がいるから……その人を振り向かせるのに、僕はこの道しか知らないから。だから今よりも強くなりたい。
クヒッ……他にも興味を持たせる道はいくらでもあるだろうが……それがお前の欲望なら我は叶えよう。
私はこの世界に呼び出されたお前に力をもたらすもの……再び問いかける時に、我を受け入れよ。そうすればお前は……剣の道の深淵を、そして鮮やかなあの花を咲かせることができる。
我を受け入れよ、そして我と共に……堕落しきったこの世の中に、石を投じよ。鮮やかなこの赤い色を、流血と破壊と混乱を。
……慈悲はない、慈悲などいらない、我とお前の間に立ち塞がる全ては、血という鮮やかなあの赤い色を咲かせるのだ。再び我が問うときに、お前は我を受け入れよ。
——急速に意識が覚醒していく……ああ、これは夢なんだ……僕は再び憂鬱なあの日常へと戻るんだ。
「はぁん……美しい……僕の女神様……」
都内の男子高校生、折田 隆史は彼が女神と崇める女性、新居 灯が青葉根高等学園の剣道部の道場にて竹刀を振っている様子を物陰から眺めている。
彼は心の中で彼女への愛の詩を歌い上げていた。
『拝啓、麗しの君。
今僕は君が青葉根高等学園剣道部と一緒に、竹刀を振っているところを見ています。
灯さんが時折剣道部で竹刀を振り、体を鍛えていることを僕は知っています。
灯さんが竹刀を振るたびに、こぼれ落ちる汗の輝きが美しい。
灯さんが竹刀を振る姿はとても美しい……剣の女神と言う言葉が君には相応しい。
ああ、君の頬を伝う汗、その汗を僕は舐めとりたい、床に落ちる汗も全て舐めとりたい。
ああ、さらに君のその大きな胸が、竹刀の動きに合わせて揺れている。
僕は剣道の防具になって、君に愛されたい。美しい女神よ、いつか君の愛を僕にくれないか』
新居 灯は時折青葉根高等学園剣道部に遊びに来て、竹刀を振ることがある。
部員ではないが、汗をかきたい、と話をしたところ、剣道部部長の
当然の如く新居 灯が竹刀を振る日は部員の出席率は一〇〇パーセントを越え、幽霊部員、部員ではない学生なども参加するカオスな状況が生まれるのだが……大阪はそれでも良いと考えている。
私は竹刀を無心で振る……。長い髪を結い上げて、白い頸が見えているのをじっと見つめる複数の視線。ため息が出そうだ……実にこの視線は苦痛でしかない。だから私は何も考えないようにして竹刀を振っている。
この竹刀という竹を纏めただけの模造刀は、現在住んでいる日本において剣道と呼ばれるスポーツに使われている道具だ。
前世では剣の修行には刃を落としただけの鉄製の剣を使用していた。重さが変わったら戦闘の際に役に立たないからだ。
剣の修行中に体を痛めて別の職業へと移った仲間も多い……私は剣聖と呼ばれるまでに、本当に数多くの志を諦めた仲間を送り出した側なのだ。だからこそ、現代のこの剣道というスポーツで汗を流すのは……とても好きだ。
スポーツというカテゴリの中で、競い合える、人も死なない、怪我もしにくい……なんて続けやすいのだろう、と感心したものだ。だから部長さんにお願いをしてたまに竹刀を振らせてもらって汗を流す。
「新居が剣道部に入ったら、全国行けるんだけどなー」
大阪部長が私が振る竹刀の動きを見て……もったいないなあ、という顔を見せる。部長は身長が私と同じくらいの中肉中背の引き締まった体をしていて、スポーツマンらしい髪を短く刈り上げた好漢とも言える男子だ。
まあ、部長のぼやきもそりゃそうだろうと思う。私は前世で何百人どころか、何万もの敵を斬り伏せてきた本物の
「すいません、私部活動というのにあまり参加できないのですよ……家庭の事情でして」
私は部長に苦笑いで答える。家庭の事情というのは大嘘でしかなくて、私が単に面倒だと思ってるだけだ。お菓子を食べられる部活なら喜んで参加するのだが、残念ながら大阪部長はかなりストイックな人間だと聞いていて、そんなことは許されないだろうなあと思うわけで。
「まあ、偶に練習してくれると幽霊部員も出てくれるからね……それでいいのかもな」
大阪部長は頭を掻いて……少し悪戯っぽい笑顔を浮かべる。割と私はこの部長さんは嫌いではない……当初参加を打診した時はかなり嫌な顔をしていたし、嫌がらせなどもされたのだが……剣士は剣で語るというか、腕を認められればそれで理解できるというか……そんなこんなで私は大阪部長とはそれなりに仲が良い。
ふと……視界の隅に入った、あまり気の強そうでない男性……あれは誰だったろうか? 少し気になる印象の小柄な男性が目に入る。剣道部の部員だろうが……先輩の防具を熱心に磨き、サポートをしている人だ。名前は私もわからない……でもその人がなぜか気になった。
「おい、甲斐! これもやっとけよ!」
他の上級生が甲斐さんと呼ばれた小柄な男性に防具を押し付ける。一度に渡した数が多く、甲斐さんは防具を落としてしまい……先輩たちがそれを見て、彼に指を指して笑っている。
剣道部の練習に参加してよくみるようになった光景……いわゆる先輩からのいびり、というやつだ。
甲斐さん……大阪部長に名前を聞いたことがある。
「負けたり、いじめられた時に反抗したり何くそ、という気持ちがないと根本的な解決が難しいんだよな……」
大阪部長はそう言ってため息をつくと、いじめをしている先輩たちを怒鳴りつける。
「おい、お前ら雄一に無理させているんじゃねえ!」
残念ながら前世も含めて先輩による新人いびり、いじめというのは無くなることはない。まあ、前世もそんなのばっかりだったし……私は竹刀を振るのをやめて……甲斐さんが落としてしまった防具を拾い、甲斐さんに防具を押し付けた先輩へと歩いていく。
私が無表情で自分の元へと歩いてくるのを見て……何かを勘違いしたのかその先輩は急に期待をしたような緩んだ顔で私を見ている。何期待してんだこいつ。
「ご自分でやられたらいかがですか? 道具を大事にされたほうがいいですよ」
にっこり笑って、その先輩に防具を渡す。お、おう……と腑抜けたような顔で防具を受け取るのを見て……私は踵を返すように甲斐さんの元へ向かう……。彼は少し涙目で……私を見つめていた。
「私も手伝いますよ、場所教えてください」
甲斐さんにも笑顔を向けて一緒に歩いていく私を見て、大阪部長はやれやれ……という顔をして練習に戻る。そして……バカにされたと感じたのか、いじめを行っていた先輩たちは苦々しい顔で私と甲斐さんの背中を睨みつけていた。
「新居さん、いいよ。これ僕の仕事だし……」
「いいんですよ、道具は大事にしないと……私も練習に混ぜてもらっているのでお手伝いしたいです」
道場の裏手で私たちは防具の手入れに勤しんでいる。
断ろうとする甲斐さんに笑顔を向けて、私は防具の表面を濡れた布で拭き上げる。前世でも防具や剣の手入れは自分で行っていた私だ。自分が使う道具の手入れができない者は良い戦士になれない。
これが不文律ではあったな……だからどんなに疲れていてもこれだけは欠かさなかった。怪我をした時は流石にお願いをすることもあったが、最終的に怪我からの回復後に自分で手入れをし直していたくらい前世の私は整備マニアでもあった。
「あ、ありがとう。僕新居さんのこと、ちょっと誤解してたかもしれない……」
頬を染めて、恥ずかしそうな顔で自分の担当ぶんの防具を噴き上げている甲斐さん。だめだぞ少年、私は恋愛対象ではないのだぞ?
「誤解とは……? あ、ここ解れてますね。修理が必要です」
「あ、本当だ、別で分けてもらえれば僕が修理に出すよ。……新居さんはいいところのお嬢さんだから、こういうのは人の任せたりするのかと……」
まあ、確かに私が新居財閥のお嬢様であることは周知の事実である。だからそういう扱いをしてくる人もいるにはいる……でも我が家は基本的に『自分でやれることは全てやる』が家訓なので、人に任せるようなことはしない。
「私は料理とかも、家事洗濯も自分でやりますよ。お父様の方針で、やれることは自分でやれ、と小さい頃から教えられているので。こういうのも苦ではないです」
感心したように甲斐さんが私の顔を見つめている。ふふ、私はお嬢様だけど実に家庭的なお嬢様なのだ。もっと感心してくれて構わないのだぞ少年。
「すごいね……新居さん……僕は……いや。諦めずに腕を磨けたら、いつか……」
甲斐さんが防具を一生懸命磨く私を見つめて……小声でつぶやいた。
夕方……帰宅の途につく甲斐は地面へと倒れ伏していた。周りにはあの時甲斐をいじめていた先輩数人。
「おい、お前。新居が手伝ってくれたからっていい気になってるんじゃねえぞ!」
「お前なんかが手を出せる相手じゃないんだからな!」
「お前は俺たちの防具を黙って磨いてりゃいいんだよ!」
嫉妬心を甲斐へとぶつける先輩たち……いつからこんな扱いになったんだろう? 甲斐は痛みに耐えながら考える。中学の時は何も考えないで必死に竹刀を振っていた。
大会でも上位に入り、みんなからも剣の腕を褒められた……大阪部長も入部当時は期待してくれて……一緒に竹刀を振っていた時期もある。
でもいつからこうなった? 大会でうまくいかなかった時か? 迷いが竹刀を鈍らせた時か? どうして? どうして僕はいじめられている??
『……力が欲しいか?』
心に直接問いかける声……欲しい……力が欲しいよ! 心から絞り出すような慟哭。
絶え間なく続く暴力……痛みで次第に思考が薄れていく。そして代わりに怒りが沸々と湧き上がる……。
「全く蹴り疲れちまったよ……こいつ頑丈だから蹴り甲斐あるわ〜」
「新居をずっと見てたよな、キモすぎるぜ」
「疲れたからこいつの金でラーメン食おうぜ」
先輩たちが甲斐の財布の中身を物色しながら、笑ってその場を立ち去ろうとした時……大した腕を持っていない先輩たちは、背後で湧き上がる不気味な殺気に気が付かない。憎しみと殺意、そして明確な侮蔑。立ち上がるその影は目の前で緊張感なく歩く生命を見て、そしてこう思った。
「この程度の魂は……前菜にしかならんな……まずは三人」
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