10 逃げていい

 鷹也の「高い志」という言葉を受けて、碧霧は複雑な気持ちになった。

 父親の施政に疑問を持ち、北の領の未来を変えるため立ち上がった。その考えに賛同し、一緒に戦ってくれる臣下も同志もいる。

 しかし、いろいろな思いが集まれば集まるほど、期待は大きく膨らんで処理しきれない重圧が両肩にのしかった。

 碧霧は小さく首を傾げた。


「気がつけば、周囲からの期待をどうにかしようとしているだけで、そこに志なんてあるかどうか。むしろ、中途半端に理想を掲げている分たちが悪い」

「……理想を掲げていることは悪いことじゃないだろ」

「理想に振り回されている自分がいる。その内、なんのためだったか分からなくなる」


 ぽろっと本音がこぼれる。上に立つ者として言うべきことではなかったと思う。みんな、自分を信じて疑わない。なのに、当の本人がこんな風に迷子になっているなんて。

 碧霧は心中を誤魔化すために笑った。

 

「ま、志なんて言っても、そんな程度だ」


 その時、朝焼けの空から一羽の鳶が舞い降りた。

 気づいた碧霧が腕を出すと、それは腕に止まってピュッと鳴いた。

 鳶から思念を受け取った碧霧がピクリと頬を緊張させる。鷹也が、ちらりと碧霧の顔を伺った。


「……誰からの式?」

「阿の国の守役から。急ぎ帰ってきて欲しいと。何かあったな」


 碧霧はため息混じりに答えた。

 今日は紫月の気持ちが落ち着くよう、彼女とゆっくり過ごすつもりだった。与平や深芳のことだって心配だ。なのに、問題はこちらの都合なんて構わず起こる。

 にわかに厳しい表情になる碧霧を見て、鷹也が顔を曇らせた。


「あっちに帰るの?」

「……ああ。せめて美玲を置いていく」

「そう、」


 鷹也が黙り込む。その沈黙に碧霧は責められているような気分になる。

 彼が何を言いたいか、想像はつく。きっと、こんな時に恋人を放って帰るなんて薄情な奴だと思っているのだろう。でも、阿の国でも、みんなが自分を待っている。


(個人の感情なんて捨てろ。伯子として、やるべきことを考えるんだ──)


 自分の気持ちを押し殺し、そう碧霧が言い聞かせた時、


「もっと自分勝手でもいいんじゃない? 別に間違ってない」


 まるで碧霧の心の中を見透かしたように鷹也が言った。てっきりなじられると思っていた碧霧は、戸惑いながら言い返した。


「俺の立場で……そんな、真似はできない」

「だったら捨てちゃえよ。鬼伯の息子なんて肩書き」


 思わず碧霧は、「は?」と眉根を寄せた。


「捨てる?」

「そう」

「そんなこと──」

「できるよ。だってみんな、その肩書きにどれだけ背負わせるの。自分でやれよって思う」


 鷹也がさらりと言ってのけた。碧霧は呆けるしかない。


「鬼伯の息子なんて、阿の国の身分のことは分からないし、葵がどれだけのことを抱えているのかも知らないけれど──。葵が潰れる。背負いきれないものは、捨てる場があってしかるべきだ」

「いや、捨てるなんて、無責任な……」

「葵は自己犠牲が過ぎるよ。やり過ぎ、ブラック、ワーカーホリック」


 最後は意味の分からない言葉を並べ立てる。そして鷹也は、軽やかに笑った。


「そんなに難しいことじゃないと思うけどな。例えば、こっちに住むとか。肩書きがないって、わりと自由で快適だよ。葵、ビジュアルいいからモデルできるかもね。ああ、でも年取らないのはまずいかな──」

「……」

「ほら、なんでもできる気がしない?」


 馬鹿馬鹿しいほどの絵空事。しかし、なぜだか目頭が熱くなり、碧霧は慌てて目を伏せた。

 弱音を吐くことなんて許されなかった。いつでも最良の結果を求められ、自分もそうあるべきだと思っていた。それだけの犠牲の上に今の自分の立場はある。

 迷わず、振り返らず、ただひたすら前だけを見据えて──。捨てるなんて、冗談でも言う者はいなかった。

 でも鷹也は、伯子であることを捨ててもいいと言う。「なんでもできる」とは、こういう時に使う言葉だっただろうか?


「じゃあ、本当に駄目な時は捨てるかな」


 冗談混じりに言葉にすると、気持ちがひどく軽くなった。

 ああ、そうか。自分も重たかったんだなと、初めて気づく。

 同時に、頭の中がひどくすっきりした。

 鷹也が満足そうに黒い瞳を細めた。


「そう、それぐらい自分勝手でいいと思う。あ、でも──」

「?」

「これ、長柄さんの受け売り。人生、開き直って自分勝手なくらいがちょうどいいって」


 言って鷹也は寂しそうに笑いながら目を伏せる。

 あのケモノに堕ちた鬼斬の男を本当に慕っていたんだなと、碧霧は思う。思い出の中の「長柄」は、鷹也にとって今でも一番の存在なのかもしれない。

 碧霧は、昨夜モッズコートの男を始末した時の無機質な鷹也の横顔を思い出した。「同族を殺す」とは、そういうことだ。

 碧霧はきゅっと口元を結び直し、彼に言った。


「あの男の所在が掴めたら、先生を通じて俺にも連絡を。こちらからも討伐隊を出す」

「でも、葵たちには関係ない。不干渉が大原則なんだろ」

「もう十分に巻き込まれている。あの男は与平の片足を奪い、紫月に手を出した。それに──」


 鷹也が手を下すべきじゃない、というのは言うのを止めた。彼の覚悟に水を差すことになるだろうから。でも、同族狩りで彼が傷つくのは目に見えている。


「俺たち鬼は部外者だから、人の国で何をやっても許される。問題ない」

「それ、百日紅さるすべり先生に聞かれたら怒られるよ」


 どちらからともなく笑いが漏れた。

 不思議な気分だった。立場なんて関係なく、彼はただの「葵」に話しかけてくる。そんなのは、紫月以来だ。


「鷹也、」

「?」

「……いや、なんでもない。紫月と話をしてくる」


 ありがとう、は声にならなかった。にわかに込み上げてくる親しみの感情と、戸惑いの気持ちと。

 心の奥にあるわだかまりは、今は気づかないふりをした。

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