3 碧霧の代償

 急ぎの式神が届いた以上、軽く挨拶を交わして阿の国に帰るつもりだった。ここで長話をしていると、紫月だって様子を見に来るかもしれない。しかし、目の前の二人はこのまま解放してくれそうにはない。

 碧霧はしばらく考えを巡らせて、やおら静かに口を開いた。


「……伯母上、与平。伏見谷の結界のことを聞いたことは?」

「三百年前、九尾さまが谷全体に結ばれた結界のことね」

「そうです」


 人の国の「伏見谷」は、三百年前に大妖狐九尾によって開かれた狐の里である。九尾は猿師・百日紅さるすべり兵衛ひょうえの師であり、今は亡き藤花と盟約を結んだ者だ。彼は藤花が伏見谷へ輿入れすることを条件に、自身が持っていた妖刀の鞘を彼女に預けた。

 そして藤花亡き今、その「鞘」は娘の伊万里に引き継がれている。伊万里は、もうすぐ伏見谷へ輿入れ予定だ。


「その結界が、何か?」

百日紅さるすべり先生に、当時どのように結界を結んだのか教えてもらいました。大妖狐とは言え、三百年に及ぶ結界を一人で結んだとは思えなかったので。先生いわく、とある者の力を借りたそうです」

「とある者?」

「伏見谷の湖に招き入れたという龍神です」


 一つ一つ、碧霧は丁寧に言葉を重ねる。深芳と与平は、まだこの話の行き着く先が見えていないらしく、少し怪訝な顔をしている。碧霧はさらに話を続けた。


「自身の残りの寿命と引き換えに結界を結んだ大妖狐の最期も聞きました。彼は、龍神を招き入れた湖に陣を張り、二か月ほどの間そこにこもり──、全てが終わるまで、誰も近寄ることはできなかったそうです。二か月後に当時の伏宮家当主と先生が訪れた時、大妖狐の姿はすでになかったとか」

「いなくなった?」

「はい。龍神に心の臓を捧げられたのだと、先生が言っていました」


 深芳と与平の顔からすっと血の気が引いた。話が早くて助かる。二人は、こちらが何を言いたいか、きっと理解した。

 与平が厳しい表情であえて碧霧に問う。


「碧霧さまも月影の子と同じ契約をなさったと? あれは──白銀の子は何者なのです?」

「月影は、自身を『月の光であり影』と言っていた。どちらにしろ、俺たちの理解を超えた存在であることは間違いない。神という言葉が妥当かどうかは分からないが、そういう存在だと思っている」

「では、もう一つ。紫月は以前、白銀の子の力を借りて右近を助けています。あれは?」

「無意識だろうけど、紫月はその代償を払っている」


 言って碧霧は深芳をちらりと見た。そして、ためらいがちに彼女に告げた。


「おそらく魂を削られている。月影相手に無償はあり得ない」


 深芳がこくりと息を飲む。彼女は戸惑った様子で与平を見つめ、与平が彼女を胸元に抱き寄せた。

 碧霧は落ち着いた口調で二人に言った。


「月影の力を使うということは、そういうことだ。だとしても、紫月は目の前に傷ついた者がいれば、きっと力を使うだろう。だから、百日紅さるすべり先生から龍神の話を聞いてそれに気づいた時、俺は月影と契約を結んで彼女から月影を切り離した。今の紫月は、月影の器としての役割しか負っていない」

「……つまり、代償を払う者が紫月から碧霧さまに代わったと、そういう理解でよろしいですか?」

「問題ない。そして、誰も助けないよう月影に制限をかけた」

「娘にこのことを話さないのは、なぜなの?」


 今度は深芳が尋ねる。碧霧が困ったように笑った。


「伯母上は、与平が足を失うと分かっていて、ご自分のために力を使いますか?」

「……」


 愚問だったと、深芳が気まずそうに小さく頷いた。碧霧は、きゅっと顔を引き締め二人に告げた。


「力を使うことで俺に何かあると分かったら、きっと紫月は命の危険にさらされても使おうとはしなくなる。だからこのことは言っていない。彼女以外に月影の力を使えないようにしたのは──俺の我儘わがままだ。そういう意味では、与平が片足を失ったのは俺のせいだ。俺を恨んでもらってもいい」


 最後は悲壮感さえ漂う表情で碧霧は締めくくる。

 大切な恋人を守るために、代償を払う者となり、そして命の選別をする決断をした。さすがの深芳も与平も、碧霧の決断に対してにわかに言葉が見つからない。

 ややして──、与平が「これだけは」と落ち着いた口調で碧霧に言った。


「碧霧さま、その我儘わがままは間違っておりません。ですから、この先誰に何が起ころうとも、あなたが負い目を感じる必要はない」


 与平の言葉に深芳も頷いて同調する。


「その通りね。ついでに、女として言わせてもらえれば、」

「?」

「紫月にちゃんと話しなさい。あの子は、あなたの後ろで守られたい訳じゃない。一緒に並んで立ちたいと、そう言っていたのよ。彼女に選択をする機会を与えてあげて」

「……ありがとうございます。伯母上、与平」


 明言を避けて碧霧は二人にお礼を言った。深芳と与平は、決して「分かった」とは言わない碧霧に困り顔を見合わせた。

 その時、部屋の外でパタパタと足音が鳴り、ドアがノックされた。


「入るよ。葵、急いでいるんでしょ?」


 ほぼノックと同時にドアが開き、紫月が顔を覗かせた。


「どうしたの、何か別の話をしてた?」

「いや、いつものとおり小言をもらっていただけ。もう終わったよ」

「美玲が利久さまに伝えて欲しいことがあるって」

「分かった。今、行くよ」


 とっさに碧霧は誤魔化して笑う。そして彼は、深芳と与平に「これで」と挨拶をして部屋を出ていった。

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