9 志なんて
冬の朝は、ゆっくりと静かに明ける。それは阿の国も人の国も変わらない。
碧霧はベッドから抜け出すと、一つ大きく伸びをする。紫月はまだ深く眠ったままだ。
昨夜、二人きりになって、あらためて紫月の口から昨日のことをいろいろ聞いた。深芳と与平が珍しく大喧嘩して彼女が家出をしてしまったとか、帰り道にいきなり異空間に誘い込まれて襲われたとか、ケモノに堕ちてしまった鬼斬たちのあやかしに対する侮蔑的な扱いとか──。
ようやく逃げ延びた路地で鷹也に見つけられた時は、生きた心地がしなかったと言う。でも、それがまさかの味方で、「私は運がいい」と彼女は笑った。
鷹也とのことは──とても気になったが、言い争いもしたくなかったので、問い詰めるような真似はせず、話のついでといったていで紫月に尋ねた。
与平の足を切り落とすよう言ったのは鷹也らしい。そして、その時に紫月が直視しないで済むよう鷹也はかばってくれたとのことだった。
「不思議な気分。葵の気はほこほこと温かくて、包まれていると安心するの。鷹也の気はひんやりと冷たい水底のような感じ。でもね、すごく身が軽くなって解放されたようだった」
非常時とは言え、自分以外の男と気を重ね合わせたことに少なからず憤りを覚える。でも、生きるか死ぬかの瀬戸際に、その場にいなかった自分は何も言う資格がない。鷹也のおかげで紫月たちが助かったのは間違いなく事実だ。
(それに──、)
碧霧はため息を一つついた。紫月は「軽くなった」と言っていた。本人は何気なく話していたが、つまりは今まで「重かった」ということだ。
重たい理由は察しがつく。一緒に寝ていると紫月によく言われる。「葵はいつも重いのよ」と。
彼女の体に腕をどかりと乗せているから? そうではないだろう。彼女が本当に感じているのは、がんじがらめに縛られた見えない鎖の重さだ。
新鮮な空気を求めて碧霧はテラスに出た。冬の冷たい風が今は心地よく感じた。
下へと続く階段を降りると、鷹也が一人で手すりにもたれかかり、朝焼けの空を眺めていた。
彼は碧霧の姿に気がつくと、柔らかな笑みを向けた。
「おはよう。二人でゆっくり休めた?」
その言い方に他意は感じない。碧霧は戸惑いつつも「ああ」とうなずき返した。
「そっちは? きっと美玲にソファーを譲って床で寝たんだろ?」
「うん。でも、
「そうか」
なんとなく沈黙が流れる。聞きたいことはたくさんあるのに、いざ本人を前にすると言葉が何一つ出てこない。すると、鷹也が「そう言えば」と口を開いた。
「葵ってさ、美玲に聞いたんだけど、王サマの息子なんだってね。ええと、鬼伯とか言うんだっけ」
言って彼はちょっと気まずそうに笑う。
「俺って不敬にあたらない?」
「阿の国の身分の話だろ。人には関係ない」
「でも、美玲には馴れ馴れしくするなって釘を刺された」
そう言いながら、すでに七洞の姫さえも「美玲」と呼んでいる。加えて、美玲にお説教をされたらしい。
美玲は本当に気に入らない相手は歯牙にもかけない。お説教をされた時点で及第点は取っている。短時間でこの距離の詰め方はちょっと見習いたいかもしれない。
「てことは、紫月もだよね。
「……ちょっと事情があって、こっちに避難している」
どこまで話したものかと言葉を濁して答えると、鷹也にその先を促された。もちろん教えてくれるよね、という顔だ。
無邪気な圧に押され、碧霧はしぶしぶ口を開いた。
「父親が紫月の力を欲しがっていて、自分のものにしようとしている。だから、人の国に避難させてるんだ」
「息子の彼女に手を出すの? えぐいな、あんたの父親。仮にも国を統治する鬼伯だろ?」
「統治じゃない。ただの支配だ。まともに父親なんて思ったこともない。俺は息子とは名ばかりの邪魔者で、父親とは何度も衝突している」
「実の父親と……争っているんだ? 大変だな、統治者の息子って」
「そっちと似たようなもんだろ。同族の争いだから」
人間同士の争いはたくさん見てきた。だから、最初に「異能者同士の抗争」と聞かされた時は、もっと派閥争いのようなものだと思っていた。まさか、自分と同じように身内を討つための争いだなんて、鷹也から詳しく話を聞くまで想像もしていなかった。
鷹也が「そうかな?」と自嘲する。
「葵と違って、俺たちの一族は保身のために戦っているようなもんだよ。鬼斬の特異な能力は、同じ人間の術者たちからも疎まれていて、誰かが力に飲まれて狂ってしまっても、勝手に殺し合えばいいって思われている。それでも、これ以上嫌われる訳にはいかないから、みんな必死になってケモノを止める。そして今度は、『同族殺し』って嫌われる。葵みたいに国をどうこうしようとか、そんな高い志なんてどこにもない」
「高い志、か……」
思わず碧霧の口から自嘲的な笑いが漏れた。
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