6 差し出した手

 長柄はちらりと背後を伺った。


「……ここまでだな」


 彼の背後には、同じく碧霧の鬼火を受けたもう一人の男──紫月の言う「鷹也」が立っている。状況としては詰んでいる。しかし、長柄は窮してる様子はない。

 彼は小さく嘆息した。


「さすがにおまえら二人を相手にするのは骨が折れる。それに──もう一人、厄介なのが来たようだ」


 長柄が刀を水平に持ち、刀身の背をすっと指でなぞる。刹那、彼の周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。自分をここから隔離するつもりだ。

 碧霧の本能が、彼を逃がしては駄目だと警告する。


「待て──!!」


 碧霧が鬼火を放ったのと、鷹也がそこへ斬り込んだのとが同時だった。しかし、鬼火は標的を失い飛散し、刃は虚しく空を斬った。


「逃げた……」

「違います。逃げ、ですよ」


 不機嫌な声とともに、カラスを引き連れた眼光鋭い男が、エイに乗って現れた。


百日紅さるすべり先生、」

「話を聞かず、勝手なことを──。どれだけ危険な相手か分かっておいでか」


 猿師は屋上に大きな穴の空いたビルを確認しながら、ぎろりと碧霧をにらんだ。




 それから碧霧は、あとのことは猿師に任せ、紫月の待つ屋上へと降りた。まだ呆然と立ち尽くす彼女を彼はぎゅっと抱き締める。


「頼むから、無茶をしないでくれ」

「でも──、逃げちゃったわ。私を守ってくれた宮司さんも殺された。それに、だってヘイさんが、ヘイさんの足が──」

「うん、分かっている」

「あれは、逃がしちゃダメな奴よ」


 紫月には珍しい、厳しく断罪する物言い。それほどの目に遭ったのだと、碧霧は思った。無理もない、家族と慕う与平が片足を失ったのだ。

 碧霧が紫月の頬に口づけをそっと落とす。彼女がグスッと鼻を鳴らしてこちらに体を預けてきた。


「ここは先生に任せて俺たちは先に帰ろう」 

「……」


 その時、少し離れた場所で、わめき声が上がる。モッズコートの男が意識を取り戻したらしい。はっと上がりかけた紫月の頭を、碧霧はぐっと押さえた。


「見なくていい」


 碧霧が言い終わらない内に、鷹也がモッズコートの男を容赦なく斬り伏せる。男のうめき声とともにゴトリと倒れる生々しい音が響いた。


 いったい何があったのか。


 猿師が関わっていることから、人間の法の枠外で起こっている事件であることは間違いないが、それにしても戦意の失せた者を捕らえることなく斬り捨てるなんて尋常じゃない。

 するとその時、モッズコートの男の亡骸なきがらが塵となって崩れ始めた。


「──?!」


 見たことのない光景に碧霧は息を飲む。しかも、それだけではない。男を始末し終えた鷹也の手から刀が消え、瞳が人間らしい黒に戻ったのだ。

 さらさらと塵が舞う。鷹也はじっとそれを見つめているだけである。

 その姿は、さっきまで死闘を繰り広げていた男とは思えないほど弱々しい。

 刹那、紫月が碧霧の腕をすり抜けて鷹也の元へ駆け寄った。


「鷹也、しっかりして」

「紫月……」

「大丈夫よ。あなた、ちゃんとここにいるわよ」


 紫月は鷹也の正面に回り込むと、何かから引き戻すように彼の両手を取る。鷹也は人懐こい笑顔をかすかに浮かべ、紫月の手を握り返した。


「ありがとう、大丈夫だよ」


 碧霧は戸惑うしかない。

 例えば、恋人が誰かから手を差し出されたとして、きっとその手は振り払うことができる。でも、恋人が誰かに差し出した手は、どうするのが正解だろう?

 はっきりと二人の間に繋がりができていることを感じ取り、碧霧はすぐに反応ができないでいた。

 すると、碧霧の様子に気づいた鷹也がこちらに顔を向けた。そして彼は、紫月の手を離し、遠慮がちに目礼する。紫月が「ああ、そうね」と満面の笑みを浮かべ、鷹也の腕を引っ張り碧霧の元へと戻ってきた


「碧霧、あらためて紹介するわ。人の異能者で──、」

「俺は鬼斬の久澄鷹也。ええと、だよね?」


 ちらりと紫月の様子を伺い鷹也が言った。どうやら紫月が話をしたらしい。碧霧は上辺だけの笑顔を彼に返しつつ、紫月を自分の元へ抱き寄せた。


「紫月はそう呼ぶけどね。正確には、碧霧だ」

「碧霧? それは姓?」

「いやそうじゃない。姓はなくて、葵は幼名なんだ」

「へえ。じゃあ、紫月もそうなの?」

「私は九洞くどって姓が一応ある。そもそも幼名なんて、葵だけよ」

「はは、まるで皇族みたいだな」


 鷹也が柔らかな笑みを浮かべた。本当にこちらに敵意も他意もなさそうで、さっきの死闘とのギャップが半端ない。

 碧霧はためらいつつも、気になっていることを彼に尋ねた。


「鬼斬っていうのは? あの逃げた男もそういうことか」

「ああ。鬼というのは、あやかし全般を指している言葉で、俺たちはそれを斬ることを生業なりわいとしているから……」

「物騒な名前だな」


 苦笑しながら感想を漏らすと、鷹也も苦笑した。こちらが何に戸惑っているか、ちゃんと分かっている顔だ。


「でも、人の世界に害をなすあやかしを斬りはするけど、やみくもに殺すわけじゃない。百日紅さるすべり先生みたいな人もいっぱいいるって分かってる」


 猿師のことを「人」と呼ぶ。彼にとっては、自分たちも「人」の部類に入っていそうだ。そこに違和感を覚えつつ、あやかしとえらく距離が近い人間だと思う。すると、猿師がそこにやってきた。


「碧霧さま、とにかくここを離れてください。マンションにお戻りを」

「分かりました」

「ねえ先生、鷹也たちはどうするの? このまま解散?」


 紫月が猿師に尋ねると、彼は「いいえ」と首を振った。


御前みさき衆はこれからここの後始末です。派手にやらかしましたから、じきに警察やら消防やらが駆けつける。事前に御前衆がをしていて正解でした」


 猿師が嫌味たっぷりの視線を碧霧に投げた。碧霧は居心地悪くそっぽを向く。その横で紫月はぱっと顔を輝かせた。


「だったら鷹也、うちに来て。ほら頬に火傷やけどしてるわ」

「ああ、さっきの鬼火かな? たいしたことないよ」

「ダメよ。だって葵のせいだもの。母さんやヘイさんにもお礼を言わせて」


 紫月が「ね、」と碧霧に同意を求める。

 なんで?

 という思いは、言葉にも顔にも出すことはできなかった。碧霧が曖昧にうなずくと、紫月が「じゃあ決まりね」と笑った。

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