2 異変を知らせる歌

 碧霧は、仕事もそこそこに切り上げて人の国へ向かうことにした。

 ベージュのパンツと白シャツに着替え、濃紺のジャケットを羽織って本舎の庭に行くと、美玲が待っていた。彼女は、突然のことなので小袖にうちき姿だ。

 自分だけ着替えてきた碧霧を見て、美玲は不満げに口を尖らせた。


「今度から、事前に言ってよね。私、このままの格好で行くしかないじゃないの」

「紫月の家に服を置かしてもらってないのか?」

「あなたと一緒にしないで。いくらなんでもそこまで図々しくないわ」

「……それ、俺が図々しいって言いたい?」

「立場が違うって言ってるのよ。?」


 最後は、わざとらしい丁寧な口調で立場の違いを強調された。

 周囲の目がないと横柄な態度になるので忘れてしまいがちだが、彼女なりに臣下として気遣いはしているらしい。


 二人で乗っていくのはジンベイザメと呼ばれる平たいサメの式神で碧霧が用意したものだ。灰色と白のツートンカラーが空に紛れやすく、背中に複数人を乗せることもできて便利がいい。

 浦ノ川柵から北上すること一里ほど、急勾配な渓谷の中にぽつんと建つ小さな砦が見えてきた。ここは碧霧が水天狗や紅の鬼と密談する時に使われる場所である。そして、その近くの谷間に、碧霧は御化筋おばけすじの入り口を作っていた。


 この筋は月夜の里や沈海平しずみだいらにも繋がっていて、空を飛んでくるより早く浦ノ川柵に着くことができる。月夜の里に残された六洞衆の家族の避難路にもなっていて、知っているのは関係者のみだ。美玲が急に呼ばれて月夜の里から参じることができるのも、一人で人の国へ行くことができるのもこの御化筋のおかげだ。


 人の国への道すがら、碧霧は美玲から残りの報告を受けた。

 碧霧の不在であることにともない存在感が増してきた他の庶子(碧霧にとって腹違いの弟)のこと、伊万里の輿入れに密かに動いている千紫の様子、こうした洞家や家元たちの動向──これらを客観的に美玲は伝えてくれる。今や彼女は、碧霧にとっても重要な存在である。


 そして、ちょうど報告が終わる頃、二人は人の国へと到着した。

 人の国はまだ冬で、御化筋おばけすじを抜けると冷たい風が二人を出迎えた。美玲がぶるりと体を震わせたので、碧霧は自分が着ていたジャケットを彼女の肩にかけた。


「やだ、こんなことしなくても大丈夫よ」

「さすがに悪い。俺のせいだし」

「だったら今度から先に連絡をして」


 再び念押しされて碧霧は神妙な面持ちでうなずくしかない。

 同時に、二人は街の異変に気がついた。


「……碧霧さま」

「ああ、」


 美玲と碧霧は、何事かと空を振り仰ぐ。

 夜空が活力に満ちあふれ、いつもは弱々しく瞬いている星がきらきらと光っている。風が忙しなく舞っていて、地上でざわめく木々たちの声を拾い上げていた。


 これは、天地あまつちを震わす喜びの歌。


「碧霧さま、もしかして……紫月が歌っている?」


 まさか。どうして人の国で月詞つきことを。

 どくん、と胸が鳴る。碧霧は素早く紫月の所在を探る。アメジストのペンダントは、いつも身に付けるよう言ってあった。と、遠く離れた街の方角から彼女の存在と厳かな気を感じた。


「美玲、このまま街に向かう! 飛ばすぞ、背ビレに捕まれ!」

「はいっ」


 式神のサメを旋回させて、一気に速度を上げる。「きゃっ」という美玲の小さな叫び声とともに、彼女の肩から濃紺のジャケットが吹き飛んだ。

 しかし碧霧は、かまわずぐんぐんと空を進む。ややして、街の方角から何かがこちらに向かって飛んできた。


百日紅さるすべり先生っ!」


 それが猿師の式神であると分かり、碧霧は再び急旋回して彼のエイに近づく。美玲は振り落とされないよう必死に背ビレにしがみついている。

 すると、猿師もこちらに気づいてくれて、二人の式神は空中で横並びとなった。


「碧霧さま、いいところにいらっしゃいました!」

「いったい何が──」


 あったのか、と問いただそうとし、しかし、碧霧は息を飲んだ。

 エイの背には、猿師の他に深芳と与平が乗っている。だが、与平は深芳に抱かれるように横たわっており、その左足は膝から下の部分が失われていた。

 美玲が口元を両手で押さえて悲鳴を止める。


「与平……。どういう、ことだ」

「申し訳ありません。人間の異能者の抗争に巻き込まれてこの様です。紫月は今、猿師の仲間たちと敵を引きつけてくれています」


 そんな馬鹿な。

 与平は、仮にも六洞りくどう衆三番隊長だった男である。その男が片足を失うなどあり得ない。

 つまりは、それほどの事態が起こっているということだ。


「美玲、先生の式に移れ」

「え?」

「いいから、早くしろ!!」


 碧霧に叱咤され、美玲は足をもつらせながらジンベイザメからエイに乗り移った。碧霧はそれを見届けると、一気に式神を浮上させた。


「碧霧さま、お待ちください! 紫月さまの元には最も信頼できる人間たちを残してきました。まずは、私の話を聞いて──!」


 しかし、猿師の声はサメが巻き起こした風によってかき消された。猿師は思わず舌打ちする。碧霧は状況を分かっていない。下手をすれば、鷹也や御前みさき衆まで攻撃しかねない。

 すかさず与平が猿師に声をかけた。


「猿師、ここまで来れば儂らはもう大丈夫だ。美玲も連れて、三人でマンションまで戻る。あなたは碧霧さまを追ってくれ」

「分かった」


 猿師が自身の髪を抜いて、そこに息を吹きかける。すると、空にたなびく大きなエイがもう一匹現れた。彼はその背に乗り移ると、碧霧の後を追うべく大急ぎで飛び去った。

 

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