4)二番目の存在

1 慌ただしい朝

 鷹也と別れて碧霧は部屋に戻ることにした。阿の国へ戻ることを紫月に話すためだ。

 さっきは「伯子を捨てる」なんて口にしたが、実際にはそうはいかない。ただ、冗談でもそういう話をしたことで心はいくらか軽くなっていた。

 帰るための算段をあれこれと考える。今から紫月に事情を話して、美玲に残るよう頼み倒し、与平と深芳に挨拶をして──、猿師の小言は今度聞くことにした。


 テラスからガラス戸をそっと開け部屋に入る。と、ぐすぐすと鼻を鳴らす音が聞こえた。碧霧が慌ててベッドに行くと、いつの間にか起きていた紫月が、ベッドの真ん中でシーツを抱えて泣いていた。


「紫月、」


 碧霧はすぐさま彼女の元へ駆け寄った。


「怖い夢でも見た?」

「あ、葵……」


 碧霧の姿を見て、紫月がほっとした顔をする。碧霧はベッドの端に腰を下ろして、彼女を抱き寄せた。


「ごめん、一人にさせた。どうしたの?」

「黙って帰ったのかと思った……」


 言って紫月は心もとなく碧霧の胸に顔をうずめた。夕べは大丈夫そうだと思ったが、やはり気持ちが相当弱っている。彼女は、涙を誤魔化すようにシーツの端でごしごしと顔を拭いた。


「葵はいつも黙って帰るから」

「最近は言うようにしてるよ」


 昔は、紫月に黙って姿を消して、よく彼女から不満を言われた。しかし、紫月に黙って消えられて、その不安を自分が味わう羽目になった。以来、碧霧はできるだけ言うように心がけていた。


「ちょっと朝の空気を吸いたくて。で、鷹也と話をしてた」

「鷹也と?」

「うん。ただの雑談」


 そこまで言って碧霧は大きく息をつく。これから彼女に「帰る」と告げなければならない。さっきまでの軽い心が途端に重くなった。

 すると碧霧の緊張が紫月に伝わったのだろう、彼女がそろりと顔を上げた。


「葵、何かあった?」

「ああ、うん──」


 気遣うべきは、こちらの方なのに。碧霧は申し訳なく思いながら、話を切り出した。


「左近から式神が届いて、至急戻ってきて欲しいと。何か起こったんだと思う」

「……そう、」


 紫月がうつむく。しかし彼女は、すぐにニコッと口角を上げて明るい顔を碧霧に返した。


「私は大丈夫よ。葵が帰らないとみんなが困るでしょ」

「ごめん」

「謝らないで。大丈夫だって言っているじゃない」


 赤く腫れた目で言われても説得力がない。

 ままならない身が歯がゆくて、自分自身に腹が立つ。何度そう思ったことだろう。


「美玲には残ってもらおうと思う。無理やり連れてきて、着替えも何もないから用意してあげてくれる?」

「もちろんよ」

「ごめん」

「だから、謝らないで」


 気丈に振る舞う彼女が愛おしい。碧霧は紫月に顔を近づけると、唇を重ね合わせた。最初は軽く、それから深く。

 甘い吐息が自然と漏れる。碧霧が紫月の首筋を唇でゆっくりなぞると、彼女は体をびくりと震わせた。


「葵、美玲が起こしに来るかも」

「まだ早いし、誰も来ないよ」


 抑えていた感情が込み上げてくる。昨日、あんなことがあった中での今日だ。自重すべきだと思うものの我慢できない。

 碧霧は紫月をそのまま押し倒した。


「帰る前に紫月とつながりたい」

「……どうしたの、変よ」

「もっと自分勝手になるって決めたんだ」


 後はもう紫月の唇を自分の唇でふさいで黙らせる。気持ちを強引に押しつければ、負ける形で彼女が応えた。鷹也が言っていた同調しやすい紫月の悪い癖だ。


──自分の気持ちなのか誰か別の人の気持ちなのか分からなくなる。


 たぶん鷹也は気づいている。自分が彼女に何をしているか。

 お互いの感情が絡まって、ゆっくりと混ざり合っていく。

 このまま自分に染まればいいと碧霧は思った。




 キッチンでは割烹着かっぽうぎ姿の美玲が、だし巻き卵を作っていた。その隣の土鍋には、与平のためのお粥ができ上がり、フライパンでは厚切りのベーコンがじゅうじゅうと音を立てている。

 ちらりと時計を見ると、まだ七時を過ぎたところである。今日はみんなにゆっくり寝て欲しいので、朝食は起きた順に食べてもらおうと美玲は考えていた。


「いい匂い。これはだし巻き卵? こっちの土鍋は?」

「与平さまのお粥よ。よりによってあなたが一番?」


 匂いに誘われキッチンに現れた鷹也を、美玲はあからさまに嫌な顔で出迎えた。


「リビングにいないから、勝手に帰ったのかと思ったわ」

「ううん、テラスで葵と話をしてた」

「碧霧さまと? 何を?」

「んー? 雑談」


 言って鷹也は美玲の隣に立つと、フライパンを覗く。


「ねえ、ニンニクある? ベーコンと一緒に炒めたい」

「……あるけど朝から? 臭くなるじゃない」

「いいの。美味しいよ」


 自慢げに言う鷹也はまるで子供のようだ。美玲は「うーん」と唸る。


(だったら、ジャガイモにニンニクのスライスで風味付けした方が──)


 しかし美玲はすぐ、ぶんぶんと頭を振った。

 いけない。どうして真剣に考えてやらないといけないのだ。

 一緒にいると、やはりどうにも調子を狂わされる。

 ここは一旦、距離を置こう。


「私、紫月と碧霧さまを起こしてくるわ。ベーコンを見てて」


 美玲は、くるりと身をひるがえした。刹那、


「あー、待って!」


 美玲は鷹也に背後から片手でがしりと抱き止められる。美玲は「ひゃあ?!」と、すっとんきょうな声を上げた。


「なななな──、なにを?!」

「ストップ。今、邪魔しちゃダメ」


 鷹也が耳元で美玲に告げる。美玲はひぃっと震え上がった。


「邪魔ってなんなの?! 近いっ、放して!!」

「たぶん二人で話をしてると思う。葵、帰らないといけないらしくて」

「え?」

「阿の国から式神が届いたんだ。至急の用みたい」


 なるほど、「碧霧と話をしてた」というのは、そのことだったのか。全然、雑談じゃないじゃないか、と美玲は思う。

 というか、いつの間にそんな話をするように? いやいや、そもそもこの状態である必要性は??


「大丈夫かな? 紫月、心細いよね」

「だから近いって言っているでしょ! 耳元で喋らないで!!」


 フライパンのベーコンがじゅうじゅうと焼けていた。

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