6 鬼斬の青年

 深く暗い水底にゆらゆらと沈んでいくような感覚だった。

 雪解け水のような冷たい空気が疲れきった紫月の心を癒す。

 これは彼が持つ彼自身の気だ。力強くつなぎ止めてくれる碧霧の気とは違う、むしろ何もかも洗い流してくれるような不思議な気だ。

 自分を取り巻く一切のしがらみから解放され、紫月は身も心も軽くなったような気がした。


「終わったよ」


 柔らかな声に紫月はゆっくりと意識を取り戻す。闇に包まれ、一時の間、意識を失っていたように思った。


「……大丈夫?」


 紫月が広い胸に埋めていた顔を上げると、赤い目が心配そうにこちらを見ていた。あれだけ怖いと感じた瞳の赤──、しかし彼のそれは、温かみのある灯火ともしびのようだった。


「ありがとう、大丈夫よ」

「……ええと、紫月さまって呼べばいい?」

「まさか。ただの紫月でいいわよ、

「ただの──、じゃないよね」

「なにが?」


 怪訝な顔を鷹也に返す。すると、鷹也は何か言いたげに口を開きかけたが、すぐに口を閉じ、微妙な顔をして黙り込んでしまった。

 紫月は、そんな彼の態度が気になりつつも、そっと彼から体を離した。碧霧や与平以外でこんな風に体を密着させたことはなく、意識がはっきりするにつれ、なんとも落ち着かない気持ちになる。

 とは言っても、足元がおぼつかないので、彼の両手は背中に回されたままだ。紫月は、逃げ場を探して与平たちの方へ顔を向けた。


「先生、ヘイさんは……」

「もう心配ない」


 与平の傍らにひざまずく猿師が答える。深芳は憔悴しきった様子で、胸に抱く夫の顔を何度もなでている。そして──、横たわる与平の体からは、左足の膝下部分が消えていた。


「ヘイさんっ」


 ようやく意識がはっきりしてきて現実が戻ってくる。与平の元へ駆け寄ると、与平が力なく笑った。


「紫月、心配をかけた」

「そんなこと」


 可能な限りの笑顔を与平に返す。声は弱々しいが、さっきよりは顔色がいい。足の断面には猿師がハンカチをかけてくれていて、それが赤く染まってはいるものの、生々しい部分は見えないよう隠されていた。

 猿師が「さて、」と声を上げる。


「ひとまず、三人を安全な場所へ移動させよう。鷹也、あとを任せてもいいか」

「もちろん」

「え? あなたは残るの?」


 思わず紫月は聞き返す。鷹也が当然とばかりにうなずいた。


「そのために俺は来たと言っただろ。に堕ちた仲間を始末するのは、同族の仕事だから」

「……ケモノ、」

「闇に囚われた同族をそう呼ぶんだ」


 自嘲的な笑みを浮かべ鷹也が答えた。そして彼は、伏し目がちに言葉を続けた。


「鬼斬は特異な力を持つから、その力に飲まれて狂ってしまう奴が時々出る。そういうのが出た時は、自分たちで始末するというのが俺たち一族の決まりなんだ」

「同士討ち──」

「そんな綺麗なもんじゃないよ。ケモノ狩り、だ」


 鷹也が吐き捨てるように呟いた。

 鬼斬は、生まれながらにあやかしに対抗できる力を持つ特殊な人間の一族だと言う。ただ、その特異な力の代償として、あやかしや人を殺すことだけに魅いられてしまう者が出る。そうした鬼斬たちは「ケモノ」と呼ばれ、「ケモノ狩り」と称して同族によって秘密裏に闇に葬られるとのことだった。


 鷹也の簡単な説明を、今度は猿師が引き継ぐ。


「今回は、鬼斬一族でも指折りの使い手がケモノに堕ちた。しかも、彼を慕う者たちが寝返り、まさかの集団化だ。通常、ケモノ狩りは単体相手にするもので、こんな群れを追いかけるなんてこと、儂の記憶にもない」

「……」


 紫月は言葉を失う。自分たちが遭遇したのは、まさにそういう人間たちだったのだと、今さらながらに恐ろしさが込み上げてきた。

 そして鷹也は、そんな同族を止めるためにここに来たのだ。


「まさか一人で立ち向かうつもり? 他の同族の人は?」

「俺と同じように指名された他の二人は、途中でられてしまった。でも、同族以外にも協力してくれる人がいる。先生もその一人だし、この与平って人も二人も倒してくれたし。正直、助かった」


 この青年は、妖猿である猿師や、鬼である与平のことを「人」と呼ぶ。人間なのに、人間とあやかしとの境界がとても曖昧だ。だからこそ、紫月は他人事だと知らんぷりできなくなった。


「算段はあるの? 先生以外の協力者は?」

「いるよ。御前みさき系神社の宮司さんたち。大砲級の破魔矢も打てる武闘派集団なんだ」


 武闘派の宮司ってどんなだろう? 思わず頭をひねる紫月だったが、深芳が突然「あっ!」と声を上げた。そして彼女は、与平の顔を両手で挟んで覗き込む。


「ミサキって、神社の系統名だったの?」

「だから仕事だと、儂は何度も言った」

「でも『ミサキ』なんて、女の名前みたいで……」

「違う。『ミサキ』じゃない。『ミサキ14』だ」

「……」


 深芳が与平のコートのポケットをごそごそあさり、彼のスマホを取り出す。そして画面で何かを確認して、はあっと大きくうなだれた。

 画面には、起動したアプリの知人一覧に「ミサキ14」「ミサキ6」「ミサキ25」といった名前が連なっている。


「なによ、これ。分かりにくい──」


 仕事の内情を、無関係な妻に話さないのは彼なりの矜持だ。頑固なまでのこだわりだが、これで分かってくれとは無理がある。

 呆れた口調でぼやきつつ、しかし、深芳は涙ぐみながら自分の額を与平の額に押しつけた。そして震える声で「ごめんなさい」と呟いた。


「今日は駄目だって言われていたのに、私が外に飛び出したからこんなことに──」

「飛び出させたのは儂だ。ミィは悪くない」


 言って与平は笑いながら深芳の頭をなでた。

 猿師が二人の様子を眺めながら「もう大丈夫そうだな」と嘆息する。そして彼は深芳に言った。


「さあ深芳さま、ここは鷹也と御前みさき衆に任せて脱出しましょう。おそらく奴らは、珍しい鬼に気がそれて、私たち追っ手の動きに気づいていない。鷹也、儂も後から合流する。しばらく頼んだぞ」

「分かった」

「ちょっと待って、」


 紫月が会話に割って入る。彼女は、深芳と与平の様子をうかがいながら猿師と鷹也に向かって言った。


「私も残るわ」


 宣言すると、不思議なほど気持ちが奮い立った。

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