5 家路の罠

 遅めの朝食を終えて、紫月たちは街をもう少しだけぶらつくことにした。

 ここまで来たのなら深芳を楽しませたいという思いが与平にもあったらしく、彼もすんなり了承した。


 銀杏通りは、有名なブランド店や趣味のいいセレクトショップが立ち並ぶ。気になる店を三人であれこれと見て回り、紫月たちは服を数着とマグカップを三つ買った。


「さあ、そろそろ帰ろう」


 結局、遅めの昼食もレストランで済ませ、帰途に就いたのは午後三時半を回っていた。家に置いてきた吽助うすんけが、そろそろ寂しがっている頃だ。

 紫月たちのマンションは、街から離れた閑静な郊外にある。人通りも少なく、人目を忍んで暮らすには便利な場所だが、ここからだとバスで三十分ほど揺られ、それから徒歩で十五分ほどかかる。

 バス停で時刻表を確認すると、三十分待ちだということが分かった。


「三十分待ちか……」

「どうする?」

「そうねえ、」


 今日は朝から大騒ぎしたこともあって、なんとなく疲れていた。このまま待ってバスで帰ること自体が面倒臭く三人は感じた。


「タクシーを拾って帰るか? 駅まで歩くことになるが」

「早く帰ることができるならそうしましょ。ヘイさんは、夜に仕事もあるし」

「私もそれでいい」


 与平が提案すると、深芳も紫月もすぐに賛成した。

 街はオレンジ色の西日に照らされ、建物が長い影を作っている。三人は黄昏たそがれに溶ける街並みの中を駅に向かって歩き始めた。

 紫月は、ふと地面に視線を落とす。道に伸びる影の黒が、まるで御化筋おばけすじの入り口に見えて、なんとなく落ち着かない気持ちになる。

 夕暮れの時間帯は、時も場も揺らいでいる。普段であれば交わることのないものが出会うこともある。


 その時、


 アヤカシ、ミィツケタ……。


 ふと風に乗って、誰かの囁き声が聞こえた。何かが絡みつくような感覚がぞわりと背中を走り、紫月は思わず振り返った。


(……なに?)


 今は、角も隠しているし、瞳の色も変えている。どこから見ても人間な訳で、異なる存在であると気づかれるはずがない。


「紫月、どうしたの?」

「行くぞ」

「あ、うん……」


 深芳と与平に声をかけられて、紫月は慌てて先を行く二人の後を追いかける。

 しかし、深芳たちがちょうど街路樹の木陰を踏みしめた時、地面の黒がぐにゃりと歪んだ。


「母さん、ヘイさん!」


 とっさに紫月は声を上げた。そぞろとした不安が、確信に変わる。

 紫月が二人に飛び付いたのと、二人が「え?」と振り返ったのが同時だった。紫月たちは、影の中に飲み込まれた。




「……ここは?」


 ほんの一瞬だけ目の前が真っ白になり、次の瞬間には同じ場所に立っていた。しかし、同じであって、全く異なる場所だった。

 通りにはさっきまで大勢の人が行き交っていたのに、今は自分たち以外に誰もいない。

 傍らに並ぶ店舗には、可愛い小物やおしゃれな服が陳列されたままだ。が、それを売る店員の姿が店内にはなかった。

 あたりはしんっと静まり返り、虫や鳥の声も風の音もない。まるで、突然みんな消えてしまったようだった。


「ミィ、紫月、手荷物を捨てろ」


 異常事態を察した与平が、すぐさま二人に指示を出した。不測の事態に備えろという意味だ。紫月と深芳は、持っていたショッピングバッグをその場に捨てた。


「儂から離れるな」


 与平が腰に結んである金茶の下緒さげおを握る。刹那、彼の腰に刀が現れて、彼はそれをすらりと抜いた。


「ヘイさん、ここはどこかしら?」

「分からない。紫月は何か分かるか?」

「この感じ……。大きな結界、じゃないかな? 場所はそのまま、私たちだけを隔離したみたいな」


 紫月は感じたことをそのまま答えた。人の国に来て、自分の身を守るために多くのことを学んだ。中でも結界術に関することは得意だった。同調能力が高い紫月と結界術は相性がいい。マンションに結んでいる複雑な結界も、今では紫月が結んでいる。

 与平が周囲を警戒しつつ鼻白んだ。


「これが結界の中?」

「うん。人の国と阿の国みたいな別の世界って感じじゃないし、そうだと思う」

「どこかのあやかしの仕業か……。紫月、結界に干渉できるか?」

「やってみる」


 結界は強引に壊すこともできれば、術自体に干渉して解くこともできる。そして、術への干渉は、同調能力の高い紫月だからこそできることだ。


 その時、


「あらあ、適当なあやかしが入ってきたのかと思ったら、人に化けてるなんて上級じゃない?」


 建物の影から声がして、紫月たちは一斉に声のした方に目を向けた。すると、そこにショートヘアの若い女が立っていた。

 グレーのコートに黒いパンツ姿の女は、品定めするような視線で紫月たちを眺め回し、真っ赤な唇を笑いで歪めた。


「いやぁね、まがい物のくせに。嫌味なぐらい美人に化けちゃって。で、正体はなあに? 狐? 天狗? それとも蛇?」

「突然出てきて……。下品な色の口紅ね」


 深芳が無駄に真っ赤な口元を指摘する。

 女はぴくりと鼻にシワを寄せ、深芳をにらんだ。


「人間に化けている分際で、偉そうじゃないの」

「別に、感じたことを言ったまでよ。もう少し薄化粧を覚えたら? 少しは可愛く見えるかも」

「足を広げて男を悦ばすことしか能がないくせにっ。このメス豚!!」


 刹那、与平の姿が紫月の目の前から消えた。

 ──え? と紫月が思った時には、与平はショートヘアの女の前で刀を振り上げていた。


「死んで黙れ」


 鋭い音とともに容赦なく刃が落とされる。が、側面から何者かが現れて、女をかすめ取った。

 獲物を見失った刃が虚しく空を切る。


「……」


 与平は冷ややかな目を獲物が逃げた方へと向けた。

 彼から少し離れた場所に、悔しそうに歯噛みするショートヘアの女と、それを抱きかかえる男がいた。

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