第18話 馬場香織・四日目

 点滴は続いている。

 だから、必然的に香織はベッドに寝転がっている時間が長くなっていた。

 斎藤が眠たくなると言っていたとおり、時折強烈な眠気に襲われる。そしてそのまま眠ってしまう、というのを繰り返していた。

「先生、私が寝ていた間に来たのね」

 点滴の中身が再び増えているのを確認して、起こしてくれればよかったのにと唇を尖らせてしまう。

 寝ているのは薬のせいなのだ。ちょっとくらい、眠気を我慢して話すことくらいできる。

 視線を点滴から机の方に向けると、紙おむつが置かれているのが目に入った。眠ることが多くなって、トイレに間に合わなくなるかもしれないと、そう気づいて斎藤が置いたのだろう。

「もう。起こしてよ。そして言ってくれればいいじゃない」

 それにも香織は唇を尖らせてしまう。

 これでも十七歳の女の子なのだ。

 色々と気にする年頃なのに。

「まあ、病院にいると、あれこれ気にしてなんていられないけど」

 ナミに言われるまで、身だしなみを気にしないとなんて考えたこともなかった。それを思い出すと、斎藤だけを非難できるものではない。

 ここでは病気に振り回されてばかりだ。いつ検査が入るか解らないし、いつ手術が入るか解らない。

 自分の体調が急に悪くなって、起き上がれなくなったり、吐き続けてしまうことも珍しくない。

 だから、身だしなみなんて気にするだけ無駄だったのだ。

 香織だけではなく、ここに入院している患者みんながみんなそんな感じなのに、ナミだけは、ちゃんとしなきゃとよく言っていた。

「万が一にも治った時、何もできないって恥ずかしくない?」

 そう茶目っ気ったっぷりに言われて、ああ、そうかもと香織は恥ずかしくなったものだ。

 でも、ナミはいない。

 いや、生きているのかどうか、まだ知らされていない。

 そして今、点滴でただ寝ているだけしか出来ない自分に、そういう恥じらいは必要なのだろうか。

「私が知っているのは、この病院と、ちょっとの間お世話になった、前の病院だけ」

 それだけが総てだ。

 それなのに、もし病気が治ったらなんて、あり得ない話を考えるだけ無駄じゃないか。

「自分のことも、よく知らないのに」

 病院の外は知らないもので溢れていた。それと同時に、自分が何も知らないことも、よく解った。

 そして今、自分が何者なのかさえあやふやになりつつある。

 知るということは、解らなくなることなのかな。

 そんなことを思う。

「斎藤先生ならば、答えを知っているかしら」

 自分が何者か。

 どういう病気なのか。

 いつ死ぬのか。

「ああ、でも、知ってしまったら、私、どうなるのかしら」

 あやふやだから、いいやと投げやりになれるのではないだろうか。

 例えば手を差し伸べてくれる人がいない事実を知らなければ、羨ましいと思わなかったように。

 自由に本を買って読むことを知らなければ、それをしたいと思わなかったように。

「生きるって、難しいのね」

 香織は溜め息を吐くと、再び襲ってきた眠気に逆らうことなく、静かに寝息を立てていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る