第45話(下)天望の虹、風の剣
エルのどこか物憂げな表情に、アーネが何も言えなくなる。
二人の間に重い空気が広がる中、突然エルが後ろに飛びずさった。直後に、彼がいた場所の真下から、粘土質の土塊が隆起する。
「離れてくださいエルネスト氏! それはわたしのものです!」
隆起した土塊から、ベルサが飛び出してくる。彼女の体から、淡い黄金の光が漏れていた。土の魔石を起動させている証だ。
「同盟はどうした獣の巫女。契約違反だぞ」
「それは貴方の方です。私の助力要請に応え、手に入れた物には手出ししない。それが
「ならば何故、これを俺から隠した。盟約に倣って、堂々と所有権を主張すれば良かっただろう」
しない理由はただ一つ。水の異形が、エルに関するものでもあるからだ。エルに所有権を主張されれば、ベルサに引く気が無い以上、同盟は破棄となる。それを避けたかったのだろう。
「待ってバスフィールド卿、貴女もあの異形を知っているの? やっぱりあれはアルノーなの?」
「すみません、ティファート卿。お話はまた今度、ってプリシス卿、ですか? あれが?」
「……事情を知らん奴が見れば、そういう風に映るということだ。笑ってやるな」
「笑ってませんよ。……うーん。見れば分かるというか、戴冠式の現場にいたなら、気付きそうなものだけど」
どう説明しようかとばかりに、ベルサが首を捻る。だが、持ち逃げを企てていた彼女の立場で、
考え込んだのも束の間、仕切り直すかのようにエルへと向き直った。わざとらしく咳払いまでしてみせる。
「それはともかく、改めてもう一度言います。それは、わたしが先に確保、保持したものです」
「残念だが。同盟は終了のようだ」
二人の体から魔石の光が漏れ出す。
これ以上の言葉は不要とばかりに、戦闘態勢に入っていた。
お互いが術を繰り出そうとしたその瞬間。
「オオオオオオオオ!」
特大の水柱が、二人の間に割って入った。
水の無い街中で、こんな大仰な水術を起動できるのは一人しかいない。
避けながらエルは、
「なるほど、地下水脈から汲み上げたな。まだこんな力が残っていたか」
王都の地下は、西の湖由来の地下水源があり、各地で井戸として活用されている。大人しいと思っていたら、いつの間にかそれを引き寄せていたようだ。
空へと高く昇った水柱は、すぐに縮み始める。
水飛沫が舞う中、
「いなくなった? 一体どこへいったの?」
「地下に潜ったな。これ以上は追えないか」
水柱は目眩しであると同時に、地下水源と地上を繋ぐ道でもあった。
とはいえ、はっきりとした地底湖が広がるわけでもないため、水か土の
単なる
「仕方無いが、あれは後回しだ。戦もそろそろ潮目が変わる。クラオンがもう少し素直ならば、一度で済んだのだが」
騒ぎを聞きつけたのか、兵士の一団がこちらへ向かってやってきた。
アーネとベルサが身構える。現れた兵達はミリー公爵軍のものだった。革鎧を装備した軽歩兵の一団の中に、一人だけ甲冑を着込んだ騎士がいる。その指揮官のような男が、エル達の前に歩み出た。
「こちらにおいででしたか、ジズサーラ殿」
「こっちは取り込み中だ。後にしろ」
「そうはいきません。貴方には、ある嫌疑がかかっています」
兵士達が一斉に槍を向ける。エルに対し、素早く囲うような陣形をとった。
味方であったはずのミリー公爵軍に武器を向けられて、困惑したのはアーネとベルサだ。事情が飲み込めず、退き時を失う。
「今朝方、クラオン軍本陣が襲撃を受け、壊滅しました。貴殿は公爵閣下からの指示で、クラオン軍本陣に赴いていましたね。事情をお聞かせ願いたい」
「ミリー公爵の直衛か。事情聴取という割に、物騒な陣形を取っているな。一人相手に慎重なことだ」
「壊滅? エル、一体何したの」
「ティファート卿、そこ聞いてないフリしてて欲しいです。ウチらが聞いたら、マズい系の話ですよこれ。困りました」
とはいえ、最早手遅れな話ではあった。
何を隠そう、既にアーネ達にも殺気が向けられている。エルに対する任務が済んだら、次は機密情報を知ってしまった目撃者への対処に入るのだろう。
「先ずはジズサーラ殿、貴方です。素直に聴取に応じるのならそれで良し、そうでなくば」
槍を構えた兵士達が、ジリジリと歩み寄る。
それに対して、エルはあくまで落ち着き払っていた。腰から下げた、柄しかない剣に左手を添える。
顔色が変わったのは、ベルサだけだった。
「まっず! 皆さん伏せて!」
喋りながらベルサが身を屈める。
その声に反応できたのはアーネと、公爵直衛の男だけだった。
轟音が周辺を駆け巡る。
肉が潰れ骨が砕ける音を残し、アーネ達の真上を風が通り過ぎていく。
瓦礫が転がり塵が舞い、それさえも風は瞬時に吹き散らす。
次にアーネが顔を上げたとき見えたものは、さっきまで槍を構えていた、兵士達の残骸らしきものだった。
辺りに飛び散る肉片と漂う血臭で、アーネは思わず嘔吐しかける。堪えて飲み込むのには、並々ならぬ気合いが必要だった。
「エルネスト氏、わたし達を巻き込む気まんまんで術を使いましたね」
「達、じゃなくてお前だけだがな。真っ二つにしたら死ぬのかどうか、気になっていたんだ。許せ」
「許すわけないでしょう! 市街地ど真ん中で
「ぐ、馬鹿な、風術で斬撃を行うとは。それに虹剣だと。まさか、貴殿の正体は」
急に、公爵直衛の男の声が消える。それどころか見る見る顔色が青く変わっていく。もがき苦しみ始めて、すぐにそのまま動かなくなる。
極めて短時間で、エルは公爵直衛の部隊を沈黙させた。
「恐ろしい腕ですね。もう、そこまで
「感謝してるよ。
嘔吐感が拭えてなさそうなアーネに対して、ベルサは割と平気なようだった。
やはり、大陸で敗戦を経てきた人間は違うと、エルは改めて彼女への評価を改めた。
「というかエルネスト氏、本当何してるんです? クラオン本陣襲ったのも、どうせ貴方でしょ。情報も横流ししまくるし、あちこちで暴れるし。虐げた者達への復讐が、目的だったんじゃないんですか」
「合っているぞ。ただ規模については、小さく見積り過ぎていたようだな」
「エル、何なの。さっきから何言ってるの!」
話したままだが、と言わんばかりの飄々とした態度で、エルはアーネを見下ろす。
得体の知れないものを見てしまった、そんな恐怖がアーネの顔に浮かんでいた。
「この期に及んで、まだ分からんのか」
「……本当に、争いを撒き散らすんだ。昔はよくアルノーと、正義について語り合っていたのに」
「そもそもアルノーに正義を刷り込み、王都に送り込んだのも計略の一環だ。奴がしくじったせいで、前倒しになったがな」
こともなげにエルが言い切る。優しさだと思っていたものは、ただの打算でしかなかった。悔しさからか、アーネが唇の端をぎゅっと食いしばる。
「信じていたのに。貴方だけは、裏切ることはないと。優しいお兄ちゃんとして、慕ってたのに」
「お前の勝手な理想を、俺に
覚えの無い責めを受けたつもりなのか、アーネは事情を飲み込めて無さそうな顔をする。
その他人事のような態度に、エルはほんの僅かばかり、苛立ちを覚えた。わざわざ指摘するまでも無いと思っていたが、自覚すら無いというのなら、話は別だ。
「アルノーの願いは、お前をはじめとする、社会的弱者を守るためのものだった。だがそう簡単に、国も人も、在り方や考え方が移ろうことはない」
語気を強めてエルが語る。
アーネをはじめとした、搾取される側の人間が真っ当に生きられる国を作るためには、少なくない血を流す必要があった。
平等な世界を作るというのは、そういうことだ。それまでの慣習や認識を壊さなければ、新たな価値観は生まれない。
さぞやアルノーも苦しんだだろう。
「それをお前達は、一部を切り取り、人を傷つけてはいけないなど、それらしい偽善を
アルノーが何故そんな道を選んだのか、考えもせずにだ。アーネからすれば言い訳もあるのだろうが、そもそもこれは、正しい正しくないの問題ではない。
「エルネスト氏、そこまでです。プリシス卿を見殺しにした、貴方が言える筋合いでは無いです」
エルの言葉をベルサが遮る。いつもの彼女からは窺えない、怒りの感情がそこに見えた。
「プリシス卿だって、死は覚悟していたはず。結果がネガティブなものだったとしても、それも含めて彼の決断でしょう。それを余人がしゃしゃり出て、他人のせいにするなんて。彼を侮辱する行為です」
「確かに奴の苦しみは、奴だけのものだ。一個人の苦しみを横から咀嚼して、他人に分かれと言うのは理に叶わない。だがらこそアーネ、お前も勝手な理想を、アルノーに押し付けてはならなかった」
アルノーの行動や言動の、都合のいいところばかり切り取って。それを為すうえでの、非情な行為には目を瞑らず、正論で責め立てる。
利益を得ながら、アルノーにだけ負債を負わせていた。少なくとも、エルにはそう見えていた。
「アルノーは背負わされたものの重みに耐えきれなくなり、最後には自死を選んだ。因果としては、お前達の行動がそれを決定させたんだよ」
「自死? 違う、アルノーは殺されたんだよ! あたし達が、ううん。あたしが殺したんだ……」
「妄言を。一体どうやって水辺のリヴァイアサンを殺せると言うのだ。水使いの強さが、操れる水の量で決まることぐらい、知っているだろう」
そこに水がある限り、どんな外傷も
そして戴冠式の日、助かる条件を満たしているのに、アルノーはそれを選ばなかった。
「助かる命を捨て、進んで死を受け入れる。それを自死と言わず何と言う」
「……アルノーが自死? あたしがアルノーを?」
殺したのではなく、自害を選ばせた。
同じ結末だが、それは全く別の意味を持つ。
アルノーは、その身に降り掛かった暴力に抗いきれず、命を奪われたわけではない。
生きるか死ぬかを、選ぶ余地があって。
そのうえで、これ以上生きていくことはできないと、己自身を諦めたのだ。
言い換えるのならば。
「アルノーは絶望のあまり、自害を選んだ?」
「驚いた顔をするな。本当は分かっていたはずだろう? 己が、アルノーの前に立ちはだかる意味を。アルノーへの責めが、どんな力を持つのかを」
考え無しのようで、理知的。
無学に見せかけて、博識。
情熱家のようでいて、怜悧な判断を下せる。
それがアーネという女の本質だ。
天然か意図的かは分からないが。或いは、彼女なりの処世術と言った方が、正しいかもしれない。
だから具体的な思考はしていなくても、理解はしていたはずなのだ。
「リヴァイアサンは最強の治癒術を持つ。止めるには、自害させるのが一番早い。お前は幼馴染に対して、最も有効で、薄情な戦法を選んだんだよ」
殺したのではなく、自害を選ばせた。
その非情な事実こそ、アーネが目を背けていたもの。
そして、あの血染めの戴冠式の真実。
死んだ弟分を引き合いにして、無闇に傷を広げているだけと分かっていた。それでもエルは責めるのを止めない。
「さっき地下に落ちたあいつが、アルノーだと。冗談を言うな。人間であれば、真っ二つにされて生きているものか。あれは、ただの水人形だ」
アルノーの外観を真似た
制御がされないまま崩れ去るところを、術者の
術者が死したのちも、消えることなく漂う亡霊。
それがさっきまでいた、水使いの異形の正体。
「アルノーは
「……じゃあ、やっぱり。アルノーは」
心の中では、それでも或いはと願っていたのだろう。
だがそんな都合の良い話など、ありはしない。
他ならぬ同じ四大の一柱だからこそ、分かる。
「アルノーは死んだ。自らの意思で、その命を終わらせた。それが唯一の真実だ」
「ああ、あぁ。うああああああぁっ!」
戦場に悲痛な叫びが響く。
痛みから逃れるように、アーネが自らの体を抱きしめ
「っ、もういいでしょう! それを今議論して何になりますか!」
ベルサが珍しく大声を上げる。
だがエルは見向きもしない。
今が、過去を清算するとき。
今こそが、正しく向き合うべき刻なのだ。
「引っ込んでいろ。アルノーとアーネ、生き死にが反対でも俺はこうしていたさ。それが、兄貴分としてこいつらに与えてやれる、最後の慈悲だ」
突如突風が発生する。
その意味に気付いたベルサが、慌てて泥の壁を隆起させるが、間に合わない。
風はアーネの身を
落ちる。落ちていく。どこまでも。
何も見えない真っ暗闇の、更にその奥深くへ。
悲鳴さえ、あがることは無かった。
当惑したあの状態では、恐らくは恐怖を感じる暇さえ無かっただろう。
アーネの姿は穴の底へと消えていき、黒色に塗り潰されていった。
救助の失敗を悟ったベルサが、痛恨の極みといった表情で苦虫を噛み潰す。
地下水が汲み上げられたときに、土が水を吸ってしまったせいで土術の浸透が悪く、出遅れた。あの
「貴方と言う人は、本当に捻くれてますね。仮にも幼馴染でしょうに」
「これも優しさだ。しかし、兄貴分としての仕事もこれで最後か。肩の荷が下りた気分だ」
エルが
ベルサが身構えて目を瞑る中、エルは直上に飛び上がった。
「エルネスト氏、一体何をするつもりですか!」
ベルサの呼びかけに耳を貸さず、
高く高く、太陽に向かってひたすら空へ。
空気が薄くなるのも、ものともせず。エルは上を目指す。
褐色の肌が、少しだけ寒さで身震いを起こす。低温対策として、地表で手に入れた暖かい空気ごと移動しているが、限度はある。生命線である風術を維持しながら、雲すらも抜けて上がり続ける。
そして地球の丸みを目視できるほどの高さで、エルは停止した。
「気分が安らぐ。良い眺めだ」
剣身の無い剣、
もちろん地上の景色など、見えてはいない。
だが今から使う風術を考えれば、細かい視野な些細な問題だった。
「罪悪感は無い。お前達にも、守護者はいたのだ。気に食わぬと切り捨てたのは、お前達の方だ」
その声には、微かだが確かに、怒りの感情が込められていた。
空気など無いに等しい宙空で、風が吹き始める。
エルの周囲で渦巻いていた空気が、地上に向かってどんどん降りていく。それに比例して、柄の先から伸びる光も輝きを増していった。
空気が地表へ流れる。それは
エルの風術による流動の力が地表まで届いたとき、それは一本の巨大な竜巻として降臨していた。
降り立つ場所は、激戦が繰り広げられるリデフォール城の西門。
現地で争う両軍は、それ故に気付くのが致命的に遅れた。自分達が置かれた状況をはっきりと理解した時には、最早離脱も叶わぬほど、竜巻が発達した後だった。
「忌まわしき孤島よ
これこそが風使いの秘奥。『
「全て吹き飛ばせ。
天地を繋ぐ、巨大な竜巻が更に膨れていく。
人も家畜も家屋も、全てを巻き上げる。
無慈悲に、残虐に。それは爆ぜた。
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