第56話(下)夢の終わり、全てを零に
暗闇の中で、
買ったばかりの安楽椅子に体を預けているような、或いは程よい酩酊感に身を沈めているかのような、心地良い揺れを感じる。
リズミカルに跳ねる水音も、不安だらけの心を鎮めさせてくれた。
ただそれでも、まとわりつくような潮の香りだけは、少々気に障った。
嗅ぎ慣れた匂いではあるものの、鼻腔を貫いて脳を直接刺激してくるとなると、次第に嫌悪が
我慢し切れず、目を開ける。
僅かな頭痛を感じながら目を凝らすと、そこには海があった。
月の無い夜の海は、普段よりもなお暗い。
うっかり飛び込んでしまわぬよう、ゆっくりと体を起こした。
「ここは、いったい?」
周囲が海であることは、何となく察していた。
予想外だったのは、本当に海しかないこと。
周囲をぐるりと見回してみても、海、海、海。
自分はいつの間にか小舟に寝かされ、どこぞの洋上を漂っていた。まるで、真っ暗闇に取り残されたような状況だ。
そうして微睡みから一気に、アーデイリーナ・リヴァイアサン・ド・リデフォールは、意識を現実世界に引き戻された。
「無闇に動かれない方が宜しい。夜の海は文字通りの闇。落ちれば上下の区別も付かず、たちまち溺れましょう」
年配の男性特有の、低くて落ち着いた声がする。
よく見れば自分の反対側、船首に近い場所で誰かが腰を下ろしていた。
「起き上がるのであれば、眩暈を起こさぬようゆっくりと。一瞬とはいえ、心臓を打撃され失神していたのです。覚えておいでですかな」
目が慣れてくる。併せて、徐々に記憶も蘇る。
その人物にアディは見覚えがあった。
逃亡中、地下道で遭遇した四人の襲撃者。その内の仮面で顔を隠した男だった。
「貴方、は。いったい何がどうなって」
「落城後の逃亡劇から、丸二日が経っています。王城は陥落し、女王も死亡。旧公爵領をはじめとする各都市も続々陥されています。……事実上、リデフォール王国は滅びました」
淡々と、仮面な男が絶望的なことを告げる。
リデフォールが滅亡した。
二百年に及ぶ栄華を極めた、先祖から受け継いだ国が、自分の代で。
動揺は隠せなかった。だが予感が無かったかといえば嘘になる。この国は、色々な面で末期だった。
王として崇められつつも、
革命という引金を引かれたのも、ある意味自然な流れですらある。
そして国が滅ぶというのなら。お飾りであったとしても、王という象徴的存在が見逃されることはない。
それを成したのが、己の親友だという事実は、胸を痛めるのに余り有るが。
だから、この場で目覚めたアディの疑問は、一つだけだ。
「何故、私は生きているんです?」
戦後平定のための人質として生かされるのであれば、理解はできる。君主の命を担保することで、反対勢力の勢いを弱めることはあるだろう。
だが自分はお飾りに過ぎない。今の王宮は元国王派が主体であるとはいえ、人質としての価値は低い。
更に言えば、自分を襲った一団、
「仰る通り、御身を生かす利点は無い。学舎内では、助けよう、利用しようという声は上がらなかったと聞いています。故に、私が動かざるを得なくなった。しかし私に許された権限は少ない。交渉できたことも、遺体を辱めないこと、その程度です」
「でも私は、こうして生きています」
あの状況でよもや仕留め損ねるとは、正直考えにくい。何かできるとすれば、それこそ目の前の男性なのだが。果たしてあの瀬戸際で、彼一人で何ができるものだろうか。
アディの疑問を見透かしたか、仮面に隠れた顔がにやりと笑う。
「金も時間も権力も無い、そんな有様でした故。私にできたのは精々、女王討伐メンバーの内一人を引き込む程度でした。貴女を救えたのは、その協力者の尽力によるものです」
さらりと、目の前の老人がとんでもないことを言う。
襲撃してきたメンバーの顔は、もちろん憶えている。
その言を信じるなら、彼は側近のうち一人を、寝返らせたということになる。あの結束が固い門下生達の、誰かをだ。
「筆頭自ら手を下す展開も予想できたのですが、かなり危ない橋を渡りました。実は貴女を貫いた剣は、死を偽装するための術式を施したものです」
彼が言うには、心臓を貫いたと思ったはずの剣は、実はその身体を一つも傷付けておらず、代わりに触れた瞬間電撃を流す仕組みなのだという。
もちろんそれは、肉体を表面上傷付けないだけの、普通の剣より殺傷力が薄れているというだけの話に過ぎない。受けたアディが一撃で気を失ったように、場合によっては十二分に死に至らしめることができる。
立案者が言うには、電流を調整しつつ直後に手当てに当たることで、何とか一命を取り留めることができた、とのことだった。
「取引通りの、遺体保護のための仕掛けだと、筆頭殿には言い渡したものの。見破られる可能性はありました。そもそも剣以外で止めを刺す可能性もあります故、中々に冷や冷やしたものです」
「……相変わらずの用意周到な手並みですね。執政者としての手腕は、リデフォール史上
「さて。殿下はどなたかと勘違いされていらっしゃいますな」
挙句、陛下や女王ではなく殿下呼びだ。己の正体について隠す気は無いらしい。
とはいえ今のアディに殿下という敬称は、皮肉にしかなっていない。何はどうあれ、リデフォール王国は滅んだ。
何がそこまで彼女を駆り立てたのか。
思い当たる節が多すぎて、考えるだけで鬱屈した気持ちになる。
強いて、直接の契機を言うならば。
「ティト・ユメル。道場の年長組の中で
当時の王宮は
もっとも弱い古参門下生を狙った卑劣な愚行には、流石にアディも徹底的な原因究明を命じたものだったが。
「残念ながら、王宮は知らぬ存ぜぬを貫いたようで。和平路線でいた学舎内の穏健派幹部も、覚悟を決めてしまったでしょうな。祖国を滅ぼすという世迷いごとに
ティト・ユメル本人とは、会話こそ一度や二度交わした程度だが、その芯の強そうな顔つきはよく覚えている。
常に一歩引いた位置で、道場の仲間達を優しく注意深く見ていた。そんな印象がある。
女王として、事件の概要は報告を受けていた。損傷著しい遺体が横たわる殺人現場は、それは凄惨なものだったらしい。
そしてそのティト・ユメル暗殺事件から約一年。報復とばかりの凄烈な手段で、王宮は焼け落ちた。本来であれば女王である自分も、その犠牲の一人として名を連ねるはずだっただろう。
仮面の男性が救ってくれなければ、事実そうなっていた。
「危険を冒してまで私を助けてくれるのは、過去リデフォール湾で、私が貴方を助けたからですか」
海上での、彼とアルノーの決戦は今でも鮮明に思い出せる。あれは正しく、最高の水術師同士による、究極の術比べだった。
だが仮面の男は、その質問が出ること自体に落胆したかのように、分かりやすく肩を落とす。
「やはり私への勘違いがあられる。恩讐など、個人的で些細なもの。私があるのは全て国のため。それだけのことにございまする」
「にしては一貫性がありません。宰相の身で独裁政治を敷きつつ、アルノーさんとの争いに敗れた後は、彼女の革命に手を貸して国を滅ぼし。一方で死に行く国家元首を助けるなんて」
ある意味では、その場その場で動いて、都合の良いように世渡りをしていると。
そう責められながらも、仮面の男は身じろぎもしない。恥じることなど何も無いと、言わんばかりだ。
「当然です。状況次第で最善は変わる。政治が乱れれば国は荒み、新たな勢力が興る。トップが入れ替われば政治そのものも変わるし、平和が続いて産業が進歩すれば富者と貧者が生まれ、人同士に隔たりが生まれる。隔たりは分裂を生み、統一されることのない意思は、善し悪しの区別なく乱れを生じさせる。戦争も平和も、恒久的なものではありません。同じやり方に固執するのは愚者のやり方です」
舌が回ると言うべきか、面の皮が厚いというべきか。現役で宰相だった時のような、実に堂々とした主張だった。
或いはアディに足りないのは、このような肝の太さだったのかもしれない。
「私が暴政を敷いてまで国力増強に努めたのは、国のため。今回革命に手を貸したのも、裏で貴女を助けたのも、国のためです。相反する事象に見えて全ては繋がっている。どれも必要なことなのです。一つの視座に留まること無きよう。単独の事象で終わる物事は無いのだと、憶えておいてください」
本当に、この御仁は何手先まで見据えているのだろう。恐らくこの動きも、彼が打った数多ある手筋の一つに過ぎないと、アディは察してしまった。
「まあ、口では大層なことを言ってみたものの。今回の革命は、私では止めようが無かった。その中で出来る最善を図ったに過ぎません」
ロベールという宰相が、かつて力で王宮を従え、社会制度を利用し。
アルノー・プリシス=リヴァイアサンが王宮と社会制度の変革を図り。
それでも変わらぬリデフォールを、
強引な手段だが、今後の激動する世界を思えば、それもまた必要な一手ではあり。
そこまでしなくては、リデフォールの潮流は変えられないのだと、仮面の男は言う。
「貴方の真意が読めません。仮に、その言葉に嘘はないのだとしても。いったい何故、そこまで国にこだわるのでしょうか」
「こだわっているつもりは、無いのですが。強いて言えば、見てられなかった、と言うことになりましょうか」
明確な最適解があるのに、欲に目が眩んで、明後日の方向に舵取りして見せたり。
沢山の手段があるのに、それしか無いと決めつけて、大した実りも無い方策に縋ったり。
少し見方を変えるだけで、少し話を聞くだけで、解は無数に広がるのに。
卓越した思考で未来を見越すかつての独裁者は、苦々しい口調でそう嘆いた。
「あまりにも愚かで、見ていられなかった。優れた指導者がどれだけ教え諭しても、聞かず、見ようとすらしない。その愚かさに耐えられず、ならば自分が全てを。それだけのことです。私はその程度の、気が短くて狭量な男なのです」
その言葉は肌から沁みて心に滲むようだった。
やはり自分は為政者として未熟だったのだと、改めてアディは感じ入った。
風向きが変わっていく。そんな感覚を覚える。
ふと空を凝視してみると、前方の空だけ星がないことに気付いた。雲が出ている様子は無い。
更に目を細めると、海上に何か巨大なものが浮かんでいた。
それが大陸間の往来に使われる大型貿易船だと分かるのには、しばらくかかった。
灯りが一切無いため、ギリギリまで近付いて波が変わるまで、察することができなかった。
「さて。殿下にはこれから、島を出てもらうことになります。長い旅になります。或いは、リデフォールに戻ることなく、朽ちることとなるでしょう。ですがその危険を冒す意味には、いつか必ず出会う」
そう言いながら、仮面の男は、封した手紙らしきものを、アディに託す。
「船にいる私の知己が貴女を匿い、道筋を付けてくれましょう。そこで、己の行く末を切り拓きください。恐らくその時までには、リデフォール王国という枠組みは消えていましょうが」
それが周り回って、リデフォールの大地に恵みをもたらすのだと。王国で一時代を築き上げた男は、そう続けた。
巨大な船を見上げる。まだ覚悟なんて何もできていなかった。
暗闇の海に星は写らない。
行方を示すものが何もなかろうとも。
命がある以上、進んでいくしかない。
「船の行き先は?」
「エミリア教国、かつての名をソロン帝国。大陸全土に渡る最大の宗教派閥の総本山にして、今なお大戦が続く水無き荒れ野。全ては、あの国から始まりました」
全ては零に立ち返った。
どこで間違えたのか、或いは最初から間違えていたのか。
今一度、全てをやり直す。
そのためには別の視点、新たな見識が必要だ。
*
大型の貿易船は、小舟からの乗船者を確認して、すぐに外洋へと舵を切り出した。
取り残された小舟には一人、名も無き仮面の老人が乗っている。貿易船の生む波に揺られながら、杖をつく仮面の男は、それでも小揺るぎもしない。
「我ながら、貧乏くじを引かされたものだ。まあ、どちらにせよ滅ぶとは言え。我が介入で犠牲が少なくなるならば、それに越したことはない」
アディが密かに乗り込んだ船が、陸から遠ざかっていく。順調にいけば一月とかからぬ旅路だ。
水術と風術の発展で最短の航路がとれるようになり、恩恵を受けたリデフォールは中継港として大いに発展を遂げた。
侵略者が少ない島国という地形が敵を遠ざけ、そして止まることのない内部腐敗を招いた。長年のツケを、リデフォールは払うことになる。そしてそれは、今回の事件だけで留まるものではない。
「後の展開も予想がつくというもの。まあ、この時のために生かされたとなれば、致し方あるまい。全てはあの若き水蛇に敗れた、己の咎よ」
そして自分は、誰もいなくなったこの国で一人舵を取る。
そう、
「殿下には一つ、伝えなんだが。本当にあの悪知恵で身を固めた女が、力のもがれた老体の独断を、予見できなかったものか」
いや、そんな甘い話は無いだろう。仮面の男によるアディ救出は、恐らく敢えて見逃された。
側近が協力を歩み出たことといい、はじめから
月の無い夜も、側近だけ伴った襲撃も、自分を随伴させたことも、全て理由があるのだ。
「いやはや、恐ろしい女だ。サー・アルノーも
かの組織における教育水準や持ちうる科学技術は、とうの昔にリデフォールに収まるものではなくなっていた。
その先進的な叡智を下支えするのが、高弟達のみが扱える、
本来あの力は、リデフォール王室にのみ許された力だ。力の一端に過ぎないとはいえ、あれを王室とは縁のない連中が扱えていることは、通常であれば考えられない事象である。
公爵家に連なる人間として、仮説自体は思い当たるものがあった。
「やはり、どこを探しても見つからぬ、かの水蛇の遺体。あれが関係してくるか」
最後の直系は、大聖堂とともに湖に沈んだ。
しかし度重なる捜索を経ても、湖から見つかるのは、聖堂を為していた瓦礫だけだった。
あの事件唯一の死傷者に関しては、骨や肉片はおろか、髪の毛の一本さえ見つかっていない。
恐らくは、誰かが遺体を隠したのだろう。
ジズの直系やべへモスの巫女が、即座に探しに向かったにも関わらず、遺体は見つからなかった。
ならば隠した犯人は、絞られる。
「エルネスト・ジズ・サーラがもたらした情報。よもや
消えたアルノーの遺体。
「誰が」隠したかは推測できる。
「いつ」隠したかも、絞られる。
だがどれほど思考を巡らせても。
「どこ」に、「どのように」隠したのかは今を持って検討が付かない。何よりも。
「何故、そんな行動を取った? 誰にも見つからぬよう
この、過去類を見ない異常現象には理由があって、その一環としてアルノーの遺体が使われた。そう関連付ける方が、しっくりくる。
自走を始めた
或いは、アルノーの生前の意向あってのことか。
死してなお、あの水蛇には悩ませられる。
「ジェラールよ。本当にお前は、育てる人間を間違ったな」
かつての好敵手に思いを馳せる。
思えば、あの頃が何をするにも一番楽だった。
これからを考えると、面倒で気が遠くなる。
最早、老体が表立って動くことはないだろうと思っていたが。
次の大事が迫る前に、為すべきを為さねばならない。
「それさえも、大陸で巻き起こる大火の、ほんの一幕に過ぎぬだろうが。既に火は起き、より大きなものへと燃え移った」
夜風が背中を抜けていく。
北から吹く潮風は冷たくて、ここ数年ですっかり衰えた老骨に滲みる。
「全てを巻き込み、燃えるだけ燃えて。最後は己ごと消えるがいい。始まりに居合わせた者として、端から眺めさせてもらうぞ」
小舟の上、波間に漂いながら、他人事のような科白を吐きつつも。
今はもう名さえ失った仮面の男が、強い意思の籠る声をそっと呟き落とした。
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