第52話(下)悪の由来、正義の資格
固い土の牢屋が、天井から
別れの言葉は無かった。
恐らく近い将来、自分達はもう一度会うことになるだろう。敵か味方かは、さておいて。
今回の騒動の中で、実のところエルは彼女を害する予定だった。
それも、それなりの優先順位をつけて。
先立って起きたクーデターで、死んだのがアルノーとアーネが逆でも、そうするつもりだった。
それは、ある意味介錯のようなもので。
あれほど寄り添い合っていた二人が、望んだ関係になれないのなら。せめて後を追わせてやるのが、せめてもの慈悲と信じていた。
違えることの無い連理の枝が分かたれてしまったならば、その末路は枯れ落ちるのが摂理だ。
だがエルは示してしまった。つがいを堕としてしまった片割れが、狂い咲いてしまう道を。
幼馴染としての
「まあ、とっくの昔に歯車はズレていたんだ。こればかりは仕方が無い」
「いったい何が仕方無いんです?」
背後から声が聞こえる。
まるで水中から水面に浮かび上がるように、土の中から滑らかな動作で、ベルサが這い出てきた。地面の下にいたというのに、艶やかなダークブラウンの髪には汚れ一つ無い。
「始めから信じてはいなかったが、やはりいたな」
土牢の中にいたときの、アーネの言葉が思い出される。この場にベルサが来ていないと嘯いていたが、案の定ブラフのようだった。
数的不利を理由に、エルが逃亡を優先することを防ぐためなのだろう。
「アーネは、お前の術式を代わりに発動させたと言っていたが。そもそも他人が完成させた術式を、別の人間が発動させることに無理がある」
「ティファート卿は、プリシス卿の水術を見て学びましたからね。
「魔石に水人形を人体として誤認させ、擬似的に術を起動させる例のあれか。俺達が『剣』込みで成立させる規模の術を、単独で発現させていたからな」
人体が水分で構成されているからこそ、できる荒技だった。
媒体を溶かし込んで自身の性質を変える、水としての基本性能もあってこそだが。
「教職か技術職向きなんだよ、あいつは。理屈っぽいしな。少なくとも政治家や革命家なんて目指すべきじゃあなかった」
「そう仕向けたのは貴方でしょう。友情も中途半端ですし、復讐もボヤけ気味。ほんと何がしたかったんですか」
「全部やりたかったさ。ただまあ特にどれがと言われれば、そうだな。美しいものが見たかったな」
灰色の瞳で遠くを見つめながら、エルが言葉を零す。彼らしくない、どこか郷愁を感じられる物言いだった。
「前にも言ってましたね。幼少の頃の、亡くなった母親の姿が忘れられないと。心に焼き付いたのは、花畑の風景ですか、それとも」
それ以降は、ベルサは続けなかった。彼女も気付いているのだろう。心に焼き付いた景色とは、花畑そのものを指すものではないと。
母の死を契機に、焦がれた光景は永遠に望めなくなり。
それでも、幼馴染達ならば、或いはと。
微かに縋っていたものの、今ではそれも潰えた。
もう一度、美しいものが見たかった。
それだけだと言うのに。
「一応聞いておきます。貴方の本当の望み通り、幼馴染二人が手を取り合って、貴方に立ち向かっていたら。その時はどうするつもりだったんです?」
「……さあな。色んな状況を考えていたし、勝ったときのことも、負けたときのことも考えていたが。実現しなかったことなど、忘れてしまったよ」
その線が、どうあっても成り立たないと分かったから。
どうあっても美しい景色には辿り着けないのだと、悟ってしまったから。
「それに
「今は奴に預けていた方が、面白くなる。それに一時的なものだ。いずれ必ず俺の元に帰ってくる」
自信ありげに、エルが言い切る。その未来が見えているかのような、確信に満ちていた。
その強気な表情を見ながら、ベルサが何かを決めあぐねるように一歩下がる。
「で、どうする? やるのかやらんのか、さっさと決めろ」
「……分かってるのに聞きます、それ?」
エルが挑発的に拳をベルサに向けるが、その誘いに乗って来ることは無かった。
念のため試したものの、地中から奇襲してこなかった時点で、返答は分かり切っていた。
お互い、切り札を切って疲労困憊なのだ。
ベルサの目的も、リヴァイアサン確保が第一のはず。安全にリデフォールから離脱できる今の状況は、彼女にとっては望ましい結末だ。
いかに
彼女はソロン帝国の人間であって、リデフォールの人間では無い。
そもそもな話。
こんな島国で決着をつけるほど、四大所持者の因縁は浅いものでは無い。
「帰り支度は済んでいるのか? 油を売っていると、部下が探しにくるぞ」
「差配は済ませてあります。貴方こそどうするんですか。リデフォールを出るって言ってましたけど」
「取引だからな。仕上げを見届けられんのは残念だが、向こうでの準備もある」
「向こうでの準備ですか」
探るような視線をベルサが送ってくる。もちろん彼女が疑う通り、ろくでもないことを考えてはいた。
「そう邪険にするなよ。四大同士の因縁がそう易々と切れるはずもない」
どうあっても、自分達は相争う運命なのだ。
それは舞台がリデフォールから移った後も、続いていく。
エルが空を見上げる。
竜巻と稲妻を呼んだ積乱雲は完全に消え去り、澄み渡る青空が広がっている。空を通じて繋がる新たなる大地へ、エルは思いを馳せた。
次の戦いは、これまでの比ではないものになるだろう。どれだけの血が世界を汚すのか、どれだけの涙が大地を濡らすのか。
いずれにせよ、自分と知己達は、その中心で踊るのだろう。
その時が、少しだけ楽しみだった。
*
破壊の竜巻は去ったが、戦場は未だ混乱の渦中にあった。両軍の先陣が戦闘開始したところに、強風や大粒の
公爵軍側の総大将であるミリー公は、本隊として奥に布陣していたため、直接の被害は免れていた。
とはいえ、入ってくる情報は竜巻による被害ばかり。離れた場所から見ても分かるほど、ミリー公は茹だったように顔を真っ赤にしていた。
「何だこれは、二度も巨大な竜巻が現れるなど! 有り得ん、事前の風術師達の予測では、早々起こる規模の災害ではないと言っておったぞ! 情報屋はどこだ、呼んでこい!」
戦場の喧騒に紛れても、その声は配下達の耳にけたたましく響いた。
だからこそミリー領の兵達は、もっと警戒が必要だった。
戦場でそんな大声を出せば、総大将の居場所が明るみになってしまう。幾ら前線から距離があるとはいえ、公爵を窘めなくてはいけなかった。
故に対応が、遅きに逸した。
守備隊の一人が、それを見つける。
それは土煙を上げながら、真っ直ぐ公爵家本陣に迫っていた。馬蹄の音も次第に大きくなる。十や二十ではきかない数の、兵士の群れ。
旗にはリデフォール王家を示す、絡み合った蛇が描かれていた。
「て、敵襲ー!」
竜巻による混乱の隙を突いて、王宮近衛を主体にした部隊が公爵軍に迫っていた。
「いたぜ、あれがミリー公爵だろ。トリスタン!」
「
奇襲を仕掛ける王宮近衛の中に、年若い四人の青年が混じっていた。
近衛騎士達が甲冑を着込んだ重武装なのに対し、彼らは軽い革鎧だけを身に付けていて、身軽さ重視の風体だった。そしてその分、重武装の騎士達より先駆けて、馬を走らせることができている。
「ぬはは、もう見つかっとるぞ。このまま早駆けじゃあ! 付いて来いトリスタン、ベン、エクトル」
「だから待てイクス! 指揮はこのトリスタン・デュノアが取る! それに自分達に任ぜられたのは初撃のみ。……エクトル、例のものは」
トリスタンと呼ばれた、長髪を後ろで結い上げた青年が、後ろを走る仲間に声をかける。他の門下生達と比べ剣や鎧に家紋が彫り込まれており、意匠が派手だった。
名前を呼ばれたエクトルは、いつもとかわらず陰気そうな雰囲気だった。伸びた前髪で目が隠れてしまっているのも、暗い印象を増長させる。
エクトルは騎乗したまま、背負っていた大きな弩を持ち直しトリスタンに見せた。
「……例の弾は装填済み。射手はベンかイクスを起用するよう、デュオから
「ぬう、デュオめ。自分に手柄を渡さないよう、小癪な指示を」
とはいえ、エクトルが持ち出した弩はかなり大きい。筋力に自信があるものでなければ、まともに構えられないだろう。
その点で言えば、トリスタンは華奢とまではいかないまでも、がたいが良いとは言えない。使うなら、彼の両脇を走る、大柄なベンかイクスのどちらかだろう。
そしてその一人、赤毛を豪快にかき上げて固めたベンは、露骨に嫌そうな顔をする。
「ああん? そんなん使ってたら、一番槍が間に合わねえじゃねえか。イクスにくれてやるよ」
「ぐはは、お前のなんちゃって筋肉では、コレは荷が重かろう! 新兵器はワシに任せて、お前は二番手柄でも掻っ攫ってこい」
「直接の交戦は、近衛兵達の役目と言っておろうが。……イクス、頼むぞ」
四人の中で一番大きな体躯のイクスが、エクトルから弩を受け取る。
見た目以上に重量があるのか、弩を受け取った瞬間バランスを崩し、肩まで伸ばした癖毛を揺らしながら馬上でぐらつく。すぐにエクトルが弩を支えて、事なきを得た。
「ふが、意外と重いな。ワシなら問題なくいけるが。しかし何で弩なんじゃろうな」
「すぐ持ち出せる射出兵器が、これしか無かったと聞いている」
指南書に設計のヒントは書かれていたものの、弾はともかく、本体製作は時間がかかる。
素材も設備も無い以上、既製品を流用するしか手が無かった。もし射出装置の製作が間に合ったとしても、テストする時間が無くなるため、すぐに使い物になるかも分からない。
「……敵陣は既に射程範囲。射撃時の反動が大きいため、下馬を推奨。弾は一発限り、外さないよう」
「よし。ではここで進軍停止しよう。イクスとエクトルはすぐに準備を」
トリスタンが近衛部隊に合図を送る。
騎士達は騎乗したまま、一旦その場に止まった。
兵士でさえないトリスタン達の指示に従うのは、それが王命だからに他ならない。胸に何を抱えるかまでは預かり知らないものの、近衛だけあって勅命の意味は深く心に刻んでいるようだった。
大柄なイクスと痩身のエクトルのみが下乗して、巨大な弩の準備を始める。
弩には、矢の代わりに球体がセットされていた。
先ほどベルサが前線で発動させた
「っと。弦を引き、弾を取り付けて。面倒だのう、ディアナめ、作った当人が同道せずどうするのだ」
「ディアナとデュオめに関しては、さっきの大砲担当だ。あちらが本命な以上、仕方無かろう」
巨大竜巻を排除することができなければ、多くの犠牲が出ていたのだ。そちらに主力を据えるのは、当然の配置である。
トリスタン達はあくまで、アーネ達が上手くいった前提の波状攻撃要員だ。
「その二人はともかく、臆病ノルンに、守銭奴のオクタビオ、それにメイドのティトも来てねえぜ。年長組が聞いて呆れる」
侍従であるティトの名前が出て、トリスタンがピクリと反応を示す。何かを言いたげな表情だったが、結局はそのまま飲み込んだ。
「……ノルンとオクタビオは砲弾製作班。ティトは門下生達の統制、教導役。役割が異なる」
代わりとばかりに口を開いたのは、デュオの手足役、エクトルだった。
今回彼は、別々の動きを取る門下生の中において、繋ぎ役を務めるために、全体の動きを把握している。
「でも、この弩よう。ディアナが『余った材料で作っといたからー』って去り際言ってたぜ。ちゃんと飛ぶのか?」
「疑う必要は無いだろう。アーネ師範との合作だぞ。そうそう誤作動はしないはずだ」
「本当かのう。ワシ、こいつの試作品がテスト中に爆発して、防爆ケースを粉砕するところを見てしまったんじゃが」
急に全員が黙る。
後ろに控えた近衛部隊が、黙って後ろに下がって距離を取った。あくまで、射撃の邪魔をしないためにだと思いたい。
不安が広がる中、エクトルがテキパキと弩の設置を進める。
「バインダー展開完了。安全装置解除。風術による第一層への真空形成開始。イクス、そちらも火術の準備を」
エクトルが特製の三脚を設置し、そこに巨大弩を取り付ける。すぐに調整も終わったようで、引き継ぎを求めるようにイクスに視線を合わせた。
何とも言えない表情をしつつも、地面に固定された弩を、イクスは改めて眺める。
「ウケる。骨は拾ってやるよ」
「ば、馬鹿もん! アーネ殿のやることに、間違いがあるはずなかろう!」
「……イクス、腰が引けてる。もっと前傾姿勢」
ベンが吹き出すのを見て、イクスが顔を赤くする。見ておれと呟きつつ、イクスはスコープを合わせ、構え直す。
足を肩幅に開き、右手を引き金に、左手を銃把上部のレバーに添える。
「む、イクス! 本陣の守備隊が動き出したぞ!」
「急かすな! ぬう、本当に大丈夫なのか?」
「今更ビビんなや。エクトルが風術でサポートしてくれてるから、お前は撃つだけだろうが」
「最初のレバーを忘れぬよう。下げ忘れると、中心部にある火の魔石屑が起動しない」
分かっておるわと大声で反論し、イクスが意を決する。
狙うは敵本陣、そのど真ん中だ。
大きく息を吐き、目を見開いて。
手順通りにレバーを引き、弾に火の力が染み渡っていくのを感じながら。
イクスは引き金を引いた。
それは、細かな改造は施されていたもの、基本的な構造は弩そのものだった。
そして装填してあるのが矢ではない以上、風術による補正込みでも上手く真っ直ぐには飛ばない。
だが効果範囲を鑑みれば、精密射撃である必要性は無く、大体の方角さえ合っていればいいというのが、ディアナ率いる開発陣の見解だった。
故に射出されたそれは、望ましい射線こそは取れなかったものの。本陣内のやや手前側、ミリー領の兵士達がまさに飛び出してきていた場所に着弾し。爆風を伴いながら炎を周囲に吹き散らしていった。
本陣が燃え上がり、暴風がトリスタン達にも返ってくる。
風に煽られ転びそうになりつつも、トリスタンは作戦の成功を確信した。だが。
「っ、吹き飛ばしては、首が取れんだろうがぁ!」
巨大な爆発音に被さって、悲鳴にも近いその叫びは、近くにいた仲間達にさえ届かなかった。
*
王都の西の森、クラオン公爵軍の陣地で、それは起こっていた。
烏合の衆に過ぎなかった二大公爵の連合軍は、エルの巨大竜巻で、恐慌を起こした。
特に総大将を開幕で失っていたクラオン公爵軍でそれは顕著で、後続は進行方向を翻し、元いた本陣へと退却していた。
そのクラオン軍が、本陣で壊滅していた。
湖が望める美しいビューイングの中、兵士達の無惨な遺体の群れが、森の景観を汚している。
竜巻を見てパニックに陥っていたであろう退却部隊を、容赦無く膾斬りにした者達が、同じ場所にいた。甲冑に身を包んで、死屍累々の戦場に立ち尽くしている。
総勢で、五十騎ほどであろうか。
その軍勢と呼ぶには余りにも僅かな連中が、五百ほどいたクラオン残党を壊滅させたというのは、やや現実離れした事実ではあった。
そんな騎士然とした集団の中にあって、一人異彩を放つ者がいた。
「終わった、
その人間、少女は顔を上げることなく、座った姿勢で何かを読み耽っていた。
そのウェーブがかった短い髪の少女は、女中服に身を包んでいた。
とは言ってもエプロンドレスもカチューシャもあくまで質素なデザインだった。かつてのアディのような宮仕えの制服ではなく、市井の屋敷に勤める者用の、既製品のそれだ。
「王都に攻め込んだのは貴方達、可哀想とは思わない。こっちの追撃までは、王都も手が回らないだろうし。ウチの仕事じゃないけど、これもついで。最後の奉公としてこれくらいは」
地面からせり出た岩に座り込み、その少女は特徴的な垂れ目で、退屈そうに古ぼけた羊皮紙の束を眺めている。足が長いため、窮屈そうに足を傾けて畳んでいるが、不思議と気品のある所作になっていた。
羊皮紙の束には、アルノーの書き残した魔石に関する技術や指導要領が記されていた。
「確かに、ティファート師範やデュオ達に見られる訳にはいかなかったけど。目を盗むのは本当、骨が折れる。でもようやく、後片付けが終わる」
アルノーの遺産とも言える指南書は、道場で発見後、門下生達を引き継いだアーネが手ずから保管していた。今もそれは道場の部屋の一角、古びた金庫に保管されている。
それと同様のものを、女中服の少女は捲り読んでいた。
だがより正確に言えば、その古びた羊皮紙の束は、指南書とは別のものだった。
アーネが預かっているものより、紙が擦り切れ汚れも多い。ページ数も多く、内容に至っては、但し書きや訂正の二重線があちこちに引かれていた。
溜息が、漏れた。
「最初は、指南書をまとめる手伝いだけって言ったのに。まあ、要らんテクを仕込んでくれましたね」
よく見れば甲冑の騎士は、兜から脚甲の先に至るまで、水でできていた。
五体一組で並ぶそれらは、指揮官役の個体にだけ、それを示す外套が形成されている。
「千近い水人形の素体作成を頼まれたときは、官憲に突き出してやろうかと思ったけど。終わってみると感慨、……深くも無いか。やっぱり腹立つ」
少女は胸元で青く光るペンダント、そこにあしらわれた
光はすぐに失われた。
まずは、指揮官役として魔石が埋め込まれた個体が、崩れるように水へと還る。
それに続くように、率いられていた水人形達が、ただの水溜まりへと姿を変えていく。
五百の敗残兵を屠った死なずの軍団が、一瞬でその場から消えた。
「
それが、
機密保持のためとは言え、作業者はもっと増やして欲しかったと、少女は思う。
つまるところ。彼女が呟いた「後片付け」とは、クラオン残党に向けられた言葉では無かった。
「これで縁切りと思えば清々する。文句は言わせませんよ。最後まで貴方は、貴方のやりたいようにしかやらなかった。……ウチは、関わる理由なんて無かったのに」
世話相手のトリスタンに従って、道場について行っただけとは言え。
退屈そうな姿を見せてしまったのは、致命的なミスだった。
最初にきっぱり、断ればよかったのに。暇潰し気分だったとは言え、「馬鹿でも分かる指南書」作成の手伝いなんて、胡散臭い厄介事を引き受ける羽目になった。
「そうですね、ええ。別にやりたいことなんてない。今も昔も、これからも。だから貴方は、ウチに声を掛けたんでしょうね。本当、いい迷惑でした」
気付けば、貴族の次男坊の付き人が、名うての道場の立派な一員となっていた。
それも年長組という、後進を教え導く、嬉しくもない役柄を押し付けられて。
同時進行で、新技の実験や準備に付き合わされた挙句、内容のメモやレポートを任されたのだから、溜まったものではない。
それも、アーネやデュオ達他の門下生に内緒で、ときたものだ。その理由がサプライズにしたいとかいう心底くだらない理由なのだから、当時は流石に不平不満をぶつけたものだ。
「一応、ティファート師範については見届けてあげます。それでもう、完全に終わり。正義なんて、ウチには知ったこっちゃ無い」
読んでいた指南書を、おもむろに千切り始める。
細かく丁寧に、紙を重ねては何度も破き続ける。
インクの滲みだらけの、走り書きの汚い文字など、二度と読めないように、千々に。
書き起こす最中の言い合い、頼み事をされたときの平身低頭ぶり、それらの際の道場主の表情など、もう思い出せなくなるように。
無駄な文章が多かったせいか、正式版よりページが嵩んだ指南書は、全てを裂かれるまでにそれなりの時間を要した。
そして少女は、何の躊躇も無く、指南書だったものを放り棄てる。
「ずっと、貴方が嫌いでした。これでお別れ。さよなら、アルノー・L・プリシス」
破かれた紙片が空を舞う。
風のまま散り散りに、導かれるように湖へと向かって。
そのまま水に浸って、ゆっくり沈んでいく。
それを確認することさえせず。
血臭漂うクラオン軍本陣を、道場の門下生年長組にしてデュノア家女中長の娘、ティト・ユメルが去って行く。
アルノーから水術の技巧と計略を受け継ぐも、その思想を受け継ぐことはせず。
何の願いも持たないまま、当ても無く彷徨い出す。
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