第二章 荒れ狂う孤島、大海蛇の行方

間章 美しい景色、風が運ぶ火種

 幼い頃は、目を瞑ればいつでも思い出せたのに。

 心に、永遠に焼き付けたつもりだったのに。

 今では霞がかって、途切れ途切れにぼやけてしまう。

 あの美しい光景を。母との思い出の花畑を。

 


 あれは確か、島国リデフォールに移り住むことになる数日前の出来事だった。

 滅多なことでは外出を許可されないはずの母が、いきなり散歩に出かけようと言い出した。

 子供から見た当時の母は、不条理に家に閉じ込められていたように思えたので、嬉しくなって快諾したものだった。

 それなりに歩いて、山道にも入っていって。着いた先は、草原に広がる色とりどりの花畑だった。花の種類など分からなかったが、その鮮やかな景色に、一瞬で心を奪われた。


「ははうえ。こんな広い花畑、私は初めてです」

「そう、良かった。ここは父上が若い頃、私に教えてくださったのよ。気に入ってくれて良かった」

「ちちうえが、ですか?」


 思えば、父抜きでどこかに出かけるなど、あの時が初めてだった気がする。生来から出不精のがある父で、風光明媚な場所へ連れて行って貰うことなど、ついぞ無かった。


「そんな嫌そうな顔をしないで、エル。今でこそあの人は、あんな神経質になってしまったけど。若い頃は優しい方だったの」


 昨晩も父は、皇帝から勅命を受けたらしい。気に入らない仕事だったのか、家で母や使用人相手に当たり散らしていた。

 怒号の中には、亡くなった初代当主の名前が出ていたから、大方また風使いであることの嫌味を言われたのだろう。

 風術師の家系であることで、陛下やよその貴族からそしりを受けるのは、これが初めてでは無い。ただそれを、術の系統を決めた初代様のせいにするあたり、父の狭量が推し量れる。


「でも大丈夫ですか、ははうえ。ちちうえに内緒で、こんな遠くまで来てしまって。またお叱りを受けるのでは」

「そうですね、機嫌を損ねてしまうでしょうね。でも恐らく、これが最後ですから」


 当時は、言葉の意味は分からなかったけど。母がやけに寂しそうに、目の前の花畑を見つめていたことは、よく覚えている。

 その意味が分かったのは、だいぶ後になってからのことだったが。


「心配しないで。叱責は私が聞きます。エルは戻ったら、お部屋に隠れていなさい」

「そのようなことを女性に押し付けるのは、貴族の名折れです。ちちうえから守って差し上げることはできないかもしれませんが、共に責めを受けるくらいのことはできます」

「あらあら。エルったら、いつの間にか立派な紳士になっていたのね。では、そうね。もう少しだけ見たら、一緒に帰りましょうか」

「はい、ははうえ。お供致します」


 幼い頃の、母と一緒に見たあの花畑。

 あんなに美しかったのに。

 あんなに輝いていたのに。

 胸を温かくする風雅な光景は、いつの間にか風化し始めていて。記憶の中にすら、留め置くことができないでいる。

 最早現実のどこにも、あんな美しいものは存在しないというのに。それがはっきりと、分かってしまったというのに。

 優しかった母は、もういない。

 異国の地に流れ着いた後、父は任務に失敗した。ある魔石の探索のため、辺境の集落へ潜入する任務だったのだが、囚われに近い身の上に陥り、祖国に帰る芽も無くなった。

 標的の住まう集落で、一家丸々、いい様に扱われ続けて。落ちぶれた父からの八つ当たりを、文句も言わず母は一身に受け続けた。どれだけ心配しても、大丈夫だからと言って聞かなかった。

 そんな父相手にも、慈愛と奉仕を持って接し続けたあの人は。病に苦しみながら、最後まで父と自分を慮って、この世を去った。


「ふん、埋葬はお前がやっておけ! 高い薬を恵んでやったのに、呆気なく逝きおって」


 酒をあおりながらそう言い放って、弔いの時にも父は姿を見せなかった。その様子を遠巻きに見て嘲笑いながら、集落の大人達も手を貸さなかった。

 自分と仲の良い幼馴染二人だけが、亡骸を山の北部まで運ぶのを手伝ってくれた。

 北の大陸、母の故郷に、迷わず帰れるように。

 母の献身を、弱者の生き方だと冷笑を浴びせた、薄汚い大人達の目が届かないように。

 ろくでなしの父から、少しでも離れられるように。

 昼過ぎから、陽が落ちるまで。幼馴染二人が心配そうに見つめているのを知りながら、沢山のことを祈り続けていた。

 その願いは、今も胸の内で燃え続けている。

 その後、何年も経って。

 集落が滅びようとも。父が死のうとも。

 己の中で吹きすさぶ狂風が、種火を絶やすことを許さず、全てを巻き込む焔に昇華させていく。

 故郷の花畑を知る人間は、もうどこにもいない。

 自分一人では、決して辿り着くことができない。

 だけど。

 美しいものを、もう一度だけ見たかった。




「おい、情報屋。いつまで呆けている。道は合っているんだろうな」


 鼻息の荒い声で、褐色の青年は現実に引き戻される。いつの間にか、思い出に浸っていたらしい。

 後ろには武装した集団が列をなして、自分の後を付いてきている。その中のリーダー格の男が、彼をめ付けていた。


「工程は順調だ。あと三半刻ほどで目的地といったところだろう」


 実際彼は、心ここに在らずだったのだが、術はきちんと機能している。風術による移動補助、そして敵方の索敵及び偽装は、完璧な出来だった。

 総勢で千を超える軍団を先導するのは、彼の風術師の技量を持ってしても、骨の折れる作業だったが。

 折よく手に入れていた、同盟相手からの報酬が大いに役に立った。その報酬である武装の補助もあり、大規模風術を用いた行軍を、褐色の青年は何とかこなすことができていた。


「全く。今回の行軍には公爵閣下も帯同しているんだ。気を抜かれるようでは困る」

「心配するな。既に何回もやっていることだ。下調べもできているし、しくじらんよ」


 そうして闇夜に紛れて、武装した一団は森を進み続ける。松明は最小限に。足音も可能な限り、小さく。潜みながら前進は続く。


「風使いは楽でいいな。道案内程度で大金を得られるんだ。俺たちのように前線で切った張ったをしなくてもいいんだから、いい商売だ」


 聞こえてくる嫌味に、青年は耳を貸さない。

 この場で無くても、色々な場所で耳にタコができるほど聞いた誹謗中傷だ。

 風術は誰でもできる、初心者向けの術式。

 戦闘では、風を起こすだけの役立たず。

 補助くらいにしか使い道がない。

 誰にでも言われるということは、それが普遍的な印象として世間に認知されている証左だ。

 斥候や間諜を軽視した、近視眼的な意見だとは思う。しかし青年は、今更指摘する気にもなれなかった。あくまで無視して、淡々と歩を進める。

 前を行く褐色の青年の胸には、術の稼働を知らせる淡い七色の光が灯っていた。


「しかしまあ、戴冠式であれだけの事件がありながら、よくもバレないものだ」

「あん、当たり前だろ。隠密に動くための風使いなんだから、バレたらお前がいる意味がない。万が一王都の兵と遭遇しようものなら、敵よりも先にお前の首を落としてやる」

「そっちじゃあ無いんだが、まあいい」


 青年は独り言のつもりで零したが、他の隊員に拾われてしまう。とはいえ、意としたところが伝わっていないので、どのみち問題の無い話ではあるが。

 例え、言葉の裏が知られたとしてとも。

 そこから、自分の正体が把握されても。

 更に何が目的なのかを、察せられても。

 何も支障は無い。それだけの準備をしてきたし、そのための備えが青年にはあった。

 何よりも前提として、部隊の一つや二つ、或いは魔石使いの一人や二人、敵ではない。

 警戒すべき相手のうち一人は、同盟相手として味方に引き込んだ。だから厄介なのは、はじめから残るもう一人だけ。その者でさえ、つい先日、思わぬ形で亡くなった。

 彼が生きていれば、やはり立ちはだかる道を選んだだろうか。その末に、剣を交えることになっただろうか。

 なったんだろうなと、青年は思う。そう教え込んできたのは、青年自身なのだ。

 身分制度や社会制度、そこに蔓延る利権と差別。

 剣術や戦術論に至るまで色々なことを教え、人や国がどうあるべきなのか、幾晩にも渡って話し合った。

 不平等は正さなければならないと、それこそが力持つ者の責務なのだと、口酸っぱく擦り込んだものだ。結果として彼は亡くなったが、彼が灯した火は確かに残された。

 それを思えば、自分は彼よりも遥かに短絡的で、どうしようもなく感情的で。

 呆気ないほど直接的過ぎる手段を選んだ自分を、彼はきっと許さないだろう。


「それでいいと、そう思っていたんだがな」


 ままならないものだと溜息をついて、青年は歩を進める。

 疑問の答えを知る術は、もう無い。

 彼は、永遠に失われてしまったのだから。

 故にこの後、王国は間違いなく滅びる。

 

 国中を震撼させた「血染めの戴冠式」から、僅か半年足らず。

 闇に紛れて新たなる火種が、リデフォールに持ち込まれようとしていた。

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