第48話 天国でも、地獄でもない場所
大穴に落とされたはずのアーネは、気付けばどこかの屋外で一人立ち尽くしていた。
眼前では、緩やかに波打つ大海が見渡せる。
首を上に傾ければ、澄み渡るような青空が眼下に広がる。優しい風が頬を撫でつつ、潮の薫りを運んでくれた。崖上から見える海は太陽の光を浴び、優しげに照り返している。
春を思わせる、とても穏やかな陽気の中だった。
「ここ、は? あたし、地下に落ちたはずじゃあ」
思い出せるのは、落下直前の冷たい岩肌だ。途中で気を失ってしまったようだが、それにしても目の前の光景には、違和感しか感じられない。
少なくとも王都近郊には、思い当たるような崖は無かった。
「地下世界ってわけでも無いだろうし。もしかして、あたし死んじゃった?」
そう考えれば、この異常事態も納得できるのだが。言われてみれば、夢の中にいるような、独特な夢遊感が身体を包んでいた。
「アルノーも、もしかしたらいるのかな」
あの幼馴染は、きっと先に辿り着いただろうから。何となく、待ってくれてるような気がした。
大した期待もせず、改めて周囲を見渡す。
海の反対側では、短い多年草の草原の真ん中、小さな集落が見える。
今まさに祭りでも開かれているのか、遠くからでも人混みが確認できた。こうしている間も、団体客が村の門を
見たところ働き盛りらしき男性が多いが、女性や老人、子供の姿もちらほら映る。どこかで見たような顔も、それなりにいた。
あの村に聞き込みにでも行こうか。
そんなことを考え始めたときだった。
「え、嘘っ?」
それは崖の直上、アーネから離れた場所で、ひっそりと佇んでいた。
最初に周囲を確認したとき、見つけられなかったのが不思議なくらい近くで、隠れもせず堂々と座り込んでいる。
見つけた瞬間、弾けるようにアーネは駆けた。
全速力で、それの傍まで走り抜けて。
膝を抱えて座るその人に、迷わず飛び込んだ。
「アルノー、アルノー! いた、本当に!」
力の限り、座ったままのアルノーを抱きしめる。
水人形などでは断じて無い、生身の人間の温かさと感触が返ってくる。
それに対して、アルノーは何の反応も示さない。ただずっと、崖から海を眺め続けていた。
「また逢えた! アルノー、あたしずっと!」
喜色溢れるアーネに対し、アルノーはそちらを見ようとしない。気付いてない、というより関心が無いようだった。
とはいえ死んでる訳でも、精巧な置物という訳でも無い。
目は虚ろで、身体は弛緩し切って。
波が打ち寄せ引いていく様を、只々眺めているようだった。
「どうしたの、アルノー。あたしのこと分かる? アーネだよ。幼馴染で従士の。ねえって!」
「……分かる、分かるよ。分かってるんだ」
ようやく言葉が返る。傍にいなければ聞こえないほどの、か細い声で。
「どうしたの、何があったの? 何でこんなところに」
状況が状況なら、負傷や病を疑うほどの弱々しさだった。しかし見たところ、傷は無いし苦しんでいるような様子もない。
「戴冠式の後、探したけど見つからなくて。心配したんだよ。……街を守ってた水使いの騎士は、やっぱりアルノーだったの?」
「あれは、もう俺じゃない。俺から剥がれ落ちたのは、間違いないけど。だけどあれは、一個の意思をもう獲得しかけている」
「……よく分かんないよ。じゃあアルノーは、ずっとここに隠れていたの?」
「ここは。生あるものが命を終えたとき、等しく還る場所。穏やかに、静かに、包むように。還った者を迎い入れ、一つに
それは、地脈とも龍脈とも呼ばれるもの。
地球の奥深くで巡るエネルギーの奔流。
その正体は燃えたぎるマグマの池とも、地下を流れる光輝く川とも言われている。
何を隠そう、魔石はレイラインから吹き出して溢れたエネルギーが、凝縮して結晶化したものと伝えられていた。
「ここがレイライン?」
「正確には、その入口に過ぎない。死んだ人間はここを通り、母なる海、大地の底に還る」
そういえばと、アーネが集落を見やる。
確か先程集落を訪れていた人達は、リデフォールの兵士達だった。時折混ざっているのは、恐らく城下町の市民だ。道理で見たことがあるはずだった。
アーネが覚えている範囲では、まだ本格的な市街戦には移行していなかったはずだが。気を失っている間も、事態は良くない方に推移していたらしい。
「でもそっか。あたしもやっぱり、穴に落ちて」
死んでしまった、のだろう。
陰鬱な気持ちが鎌首もたげてくる。
剣を手に取った以上、いつでもそうなる覚悟はしていたが。いざその時を迎えると、落ち着かない気持ちになった。
「えっと、じゃあ。よくは分からないけど、あたし達もあの村の門を潜れば、めでたく天国に到着ってことかな」
正確にはレイラインに還ることになるので、天国というのはニュアンスが違うのだろうが。
どちらにせよ、「死」という人生における終端の前では、それらの違いなど些末事に過ぎない。
それに元より、そうしようと決めていたのだ。
あの戴冠式の日に、血塗れのアルノーを見て。
一人では逝かせないと。
それをやり直すだけだと思えば、恐怖も和らぐ。
そう覚悟を決めたのに。
「アルノーどうしたの。ずっと様子が変だよ?」
「俺は、行けない」
アルノーの方は、終始浮かない顔をしていた。この場所で再会してからずっと、表情に変化がない。
「行けないんだよ。気が付いたらここに居て。村を目指して歩いても、崖に戻される。どれだけ歩いても、何故か近付けない。ヤケになって海に落ちてやったら、やっぱりいつの間にか浜辺に戻っている」
そんなことが起こりうるのだろうか。
とはいえ、確かにこの場所は、
その景色は、リデフォールの城下町だった。
ただし記憶に残る風景よりも、かなり破壊が進んでいる。家々は崩れ、城壁は消失し、地面が抉れている。
火を放たれたのだとしても、こうはならない。何か尋常ではないことが、起きたに違いなかった。
「たまに、現世で何かが起こると、見えるんだ。全部じゃないけど、それでも大きなことなら、海を伝って垣間見れる」
「じゃああの映像って、本当に起きたこと? 信じられない。確かに戦闘は始まっていたけど」
「エルだ。あいつが
エルの素性についても、ここにいながら既に知っている。どうやら本当に、現世の様子を知ることができるらしい。
幼馴染が大量破壊、大量殺戮を行ったというのに、その
かつてのアルノーならば考えられない。
果たしてこの覇気のない青年は、本当にアルノーなのだろうか。
そううっかり言葉に出そうとして、アーネはギリギリで口を噤んだ。
どの口がそんな薄情なことを言えるのだろう。
彼を斬ったのは、自分なのだ。
道場に残された水人形の記録が思い出される。彼は本当に、幼馴染や弟子達を大事に思っていたし、そのために手を汚していた。彼からすれば、裏切ったのは自分達の方なのだ。
大きく息を吐いて、考えをまとめる。
もう、その手の話題はよそう。
手前勝手な言い分ではあるが、
自分達は、既に死んでいるのだ。その話に触れるのは、もう少し落ち着いてからでも構わないはず。
「えっと、さ。村に近付けないって話だけど、取り敢えず試してみない? あたしと一緒なら大丈夫かもだし。ほら」
アーネがアルノーの腕を取り、村へ向かって歩き出す。最初は重かったアルノーの体も、やがて諦めたのか、次第に自然と動き出す。アーネに引っ張られる形で、そのまま歩き始めた。
暖かな日差しの中、緩やかな風を受けつつ、二人が村を目指す。あたかも散歩でもしているかのような気分だった。
「こうして歩くの何だか懐かしいね。故郷にいた頃は、よくこうして川に水汲みに行ってたっけ」
昔話を切り出そうとするも、アルノーは乗ってこない。それでも繰り返し、アーネは話題を切り出し続けた。
故郷のこと。親達のこと。王都に移り住んだ後のこと。仕官した後のこと。関わった事件や、知り合った人達との思い出。
いつの間にか、喋っているアーネの方が泣き出しそうになっていた。
その間もずっと歩みは止めず、進み続けて。
それでも一向に、村には着かなかった。
それどころか、歩いても歩いても、遠くに見える集落は遠いままで。
アーネは自分がちゃんと歩けているのかさえ、分からなくなってきていた。
「もう、分かったろう。きっと、俺はもうどこにも行けない。天国にも地獄にも、辿り着けない」
アルノーが、諦観のこもった声を絞り出す。その覇気の欠けた声が、かつての彼のイメージと、まるで重ならない。
「色んなものを裏切ったから。どこも俺を迎え入れてくれない。死後の世界でも、生者の世界でもない狭間で。ずっと、身動きが取れないままなんだよ」
「アルノー、そんなこと言わないでよ。もうちょっと歩いてみよう。時間ならあるんだし」
「いや。お前はもう、行かなくちゃならない」
どうして。
アーネがそう聞き返す前に、答えが返る。
「お前は、まだ死んでない。現実に帰るんだ」
「ごめん。ちょっと、どういうことか分からない。ここは死んだ人が来る場所なんでしょ? じゃあ、あたしだって」
「お前の持つペンダントのせいで、俺のいる場所に惹き寄せられてしまった。恐らく地上で、四大クラスの魔石が暴れ回っていて、共鳴してしまったんだ。対抗してより大きな力を得ようとして、落ちるべき場所ではない所に降り立ってしまった」
アーネが、ハッと胸を押さえる。そこにはアルノーから贈られたペンダントがぶら下がっていた。
ペンダントは、
意識してしまったからか、ペンダントが淡く輝き始める。それに合わせて、アーネの体が蜃気楼のように、その像を
「これ、何がどうなってるの」
「心配いらない。レイラインが受け入れるのは、生命を終えた者だけだ。だから生者は異物。元の場所に戻されるだけだ」
光はどんどんと膨らみ、それに比例するようにアーネの体も薄らいでいく。
慌ててアルノーの腕を取ろうとするが、先ほどはちゃんと掴めたはずなのに、もう触れない。
「そんな、アルノー!」
「大丈夫、アーネはちゃんと帰れるから。俺のことは、いいんだ」
「良いわけないでしょ、こんな所で、ずっと一人なんて。放っておけないよ!」
確かに、手放したのは自分だけど。
あれは事故みたいなもので。好き好んで、離れ離れになりたかった訳じゃあない。
なのに、アルノーはいつまでも死んだような目をしていて。そんな顔をされたら、何を言えばいいか、分からなくなってしまう。
「いいんだ、これで。罰とはこういうものなんだろう。何も叶わず、何も成せず、何も残せなかった。でもきっと、その方が良かったんだ」
「アルノー止めて、そんなこと言わないで」
今なら分かる。彼がどんな情熱をかけて、日々を生きていたのか。
そんな自分を否定するようなこと、本人の口から聞きたくなかった。
「アーネ、お前は間違っても、俺になるな。俺の夢は、きっと呪いだったんだ。引き継いでしまえば、今度はお前の身に呪いが降りかかってしまう」
全てを諦めたような、虚ろな目で。
「呪われた者の末路は、分かっただろう。世界の狭間に吸い込まれて、どこにも行けなくなる」
穏やかな場所だけど、感情が触れるものは何も無くて。
でも世界が壊れる様だけは、水面を通じて延々と見させられて。
ここは楽園でもあり、地獄でもある。
「今なら後戻りできる。これ以上、その道を進んではいけない。さもなくば。いつか死を迎えたとき、お前もこの狭間に落ちてしまう。俺には、分かる」
何もかも削がれ落ちたような、弱々しい声で。
情熱の炎は落ちて、枯れ木のような存在感で。
「自分のことだけを、考えて生きろ。望まなければ、呪われない。せめて君だけは、幸せに生きて」
それは、大聖堂での最後のときと、同じ言葉で。
だけど、致命的に異なった意味を持っていて。
「アルノー、待って! あたしは、あたしは」
果たして自分は、彼にもう一度会って、何を伝えたかったのだろう。沢山あったはずなのに、何も出なくて。
身体が揺らぐ。伸ばした手も、見える視界も、ぐにゃりと曲がって折り畳まれて、別の何かに変わろうとする。
夢か幻か、それすら定かでは無い空間の中で。
アーネは、アルノーとの二度目の別れを迎えた。
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