第42話 背国の魔王と、女王に遣わされし十人の勇士

 アルノーとロベールが争った内乱において、最大の激戦地となったのがリデフォール城である。

 ロベールが籠城を決め込んだことで国王派に半包囲され、リデフォール人同士が白亜の城を互いの血で染め合った。

 その惨劇から半年足らず。

 城の補修改装は急ピッチで進められたものの、崩れた城壁、割れた窓硝子、無数の軍靴の跡等、戦いの傷痕と呼べる箇所はあちこちで見られた。

 しかしその日のセレモニーが開かれる式場、饗応きょうおうの間に関してだけは、復元が完璧に成されていた。

 汚れや傷だらけだった床は、真新しい大理石に生まれ変わっている。

 吹き抜けになった高い天井はそのままに、壁掛けの燭台が増設されていた。

 奥は広い檀が設置されており、歌や劇等が開そうだ。今は大きな緞帳どんちょうが張られているが、鼻が利く人間ならば、油絵具の気配を感知していることだろう。広間で列を成すチーク材のテーブルには純白のクロスが敷かれ、その上には色とりどりの料理が並んでいる。

 アーネがデュオとディアナを引き連れて会場に訪れたとき、既に他の招待客はあらかた揃っているようだった。

 大人しく椅子に座っているように見えて、場の雰囲気に呑まれ硬直し切っている若い文官、或いはここぞとばかり高級食材を胃に詰め込んでいる大柄な騎士、群がってグラス片手に優雅にお喋りを決め込む貴族の子弟など様々な顔ぶれだ。

 ただ祝勝会にも関わらず、軍務の中心となる上級騎士や上位武官がいないのは気になるところだった。


「うわ、ねーさんわたし帰っていい? もう面倒くさいんだけど。でもお料理は惜しいので、後で詰めてお土産にして貰ってね。羊と豚メインに鶏も加えて、あるなら牛も」

「肉ばっかじゃん。卵とか魚とか他の栄養も取れ」

「師範。卵や魚も同じです。全部タンパク質です」


 軍服に袖を通したデュオが、馬鹿真面目なコメントを残す。元は貴族の子息だけあってか、場慣れ感があった。

 同じく軍服姿のディアナも、若くして波瀾万丈な身の上だけあって、気後れしていない。この肝の座りようは、姉として頼もしいの一言だ。

 貸してやったお古の軍服を、特に胸まわりを窮屈そうにさせて、ボタンを開けまくっているのは非常に気に食わないが。

 若干の苛つきを感じつつも、門下生二人の物珍しい軍服姿は、独り立ちして晴れの日を迎えた我が子のように思えた。


「ていうかうちらー、なんか見られてるくない?」

「血染めの戴冠式における立役者ですからね。我ら門下生はともかく、師範代は特に」


 途中まで言いかけて、デュオが不自然に口籠くちごもる。アーネに気を遣ったというより、自分で自分の傷を踏み抜いたようだ。

 遺言の件以降、この新たな師範代は時折情緒不安定な面を覗かせる。仕方の無いことであり余人にはどうもしてやれないのだが、一身に面倒を見ているアーネとしては歯痒い気持ちにさせられる。

 とはいえアーネ自身、立ち直れたかと言えばそうでもないのだが。


「早いとこアディと合流したいけど。主催者挨拶はまだかな」

「当分は難しいっぽいねー。どうする? わたしはご飯食べるー」

「一人で動かないでくださいディアナ。我らはオマケなのですから、絡まれると面倒です」

「大丈夫大丈夫。貴族のお坊ちゃんでも衛兵のおっさんでも、楽勝楽勝。この人痴漢ですって騒ぐだけの簡単なお仕事」

「やめろバカ妹。騒ぎがデカくなるでしょ」


 本当にやりかねないから恐ろしい。

 身内が困ると分かってて、嬉々としてやるのがこの妹分の悪癖だった。何度叱っても治らないし、何なら説教も楽しそうに聞き流す。

 今は歓談タイムなのか、主催側も特に音頭を取ることはしなかった。そのせいか時間が経つにつれ、会場の喧騒も増していく。

 

「あの失礼ですが。もしやティファート卿では」

「え? あ、はい。アーネ・ティファートはあたしです」

「おお、やはり。わたくし、内乱時の南門攻略の際に、ティファート卿に同道した者でして」


 何やら小綺麗な格好をした貴族の青年が、アーネに話しかけてくる。

 どうやら攻城戦の際に、アーネが指揮していた騎士らしい。あの時は非常時ゆえ、アルノーの代理としての権限をフル活用し、指示を飛ばしまくっていた。要らぬ恨みを買ったかもしれないと思っていたのだが、この若者はどうやら好意的にアーネを見てくれたらしい。

 そしてそれをきっかけに、付近から続々とアーネたちの元に来訪者が訪れ始める。


「失礼、サー・ティファートでいらっしゃるか」

「おお、ティファート殿、貴殿も来ておったか!」

「この度は叙任、おめでとうございます!」

「アーネ様、お久しぶりですわ!」

「お目に掛かれて光栄です、騎士様」


 次から次へ。

 入れ替わり立ち替わりアーネの元に人がやってくる。ちょっとした人だかりが、アーネの周囲に形成され始めていった。

 随伴していたデュオは、何とか人混みを整理しようと四苦八苦していたが、ディアナは早々に放棄してバックれた。いつの間にか近くのテーブルで、ローストレッグを美味しそうに頬張っている。

 後で締め落としてやろうと、アーネは強く心に決めた。

 正直言って逃げ出したい思いだったが、今日のアーネは主賓待遇である。勝手をしては、主催者のアディの名に泥を塗ってしまう。

 少なくとも今は、軽んじられかねない行動は抑えるべきだった。


「いやあ、戦時はたかだか従士の身でありながら、立派に指揮をとったものだ」

「うむ。浅学の身であっても、実戦は人を成長させるな」

無銘むめいなのに、叙勲できた秘訣は何ですか。上官がアレでは、修行中も大変でしたでしょう」

「あらあら。紳士たるもの、女性に苦労話など聞くものではなくてよ」

「ええ。どれほどその身を汚されようとも成り上がろうとする雑草魂、御伽草子のようでご立派です」


 よく聞いてみれば、褒めているようで、ろくでもないことを言われている。いったい紳士淑女の間で、自分はいったいどんなイメージになっているものやら。

 従士であった頃も、口さがないことを周囲から言われ続けていたが、出世してもそれは変わらないらしい。当然ではあるのだろうが。

 むしろ言われ慣れていないデュオの方が、仕草に苛つきが出始めている。

 怒りゲージを貯めつつあるデュオを注視しながら、アーネは鍛え上げた満面の嘘笑顔で、周囲に愛想を振り撒きまくった。


「失礼、少々宜しいでしょうか」


 一方的な会話が繰り広げられていた中、やけに澄んだ、耳障りの良い声が通る。

 雑踏の一角が、不自然に左右に割れていく。その人物を見た群衆が、驚きと羨望が混ざり合った嬉面を浮かべる。


「すみません。打ち合わせに手間取ってしまって。楽しめていらっしゃいますか、アーネさん」

「……お声掛け頂き欣喜きんきの念にえません、アーデイリーナ女王陛下。ご機嫌麗しいようで、何よりでございます」


 言った途端、アーネは可笑しくてつい吹き出してしまった。同じタイミングで、堪えきれない様子でアディも笑いを溢す。

 実際のところ、仲良く笑ってばかりもいられないのだが。慣れない言葉使いをしなくてはならないケースが、これからも出てくるだろう。

 気付けば人混みも、さっきから若干遠巻きになっている。密談のために場所を移すには、またとない機会だった。

 アディが別室を指差し、合図してくる。意味を悟ったアーネは、ディアナの子守をデュオに託しつつ、周囲の目を掻い潜るように、別室に移動した。


 南側の入場口と北側のスタッフルームの他、饗応の間には東西に二ヶ所、別室があった。

 別室にはドレッサーが備え付けられてる他、テーブルや椅子等が並べられており、主に客室として使われている。都合の良いことに、今は誰も使用していないようだった。


「ふう、何だろね。今まで歯牙にもかけられなかったのに、この急な持ち上げられよう。気味が悪い」

「私もです。正体を明かした途端、お久しぶりですだの憶えてますかだの、古い知人がわらわらと」


 最近になって名が売れた二人には、共通の困りごとだった。擦り寄ってくる相手が貴人公人なだけに、雑な応対もできないのが歯痒い。


「そういえば公爵家の件、大分きな臭くなってきたけど。騎士や兵士の招集は間に合いそう?」


 箝口令が敷かれてはいるものの、公爵家の侵攻については、情報通であれば知り得ている状況となっている。町中に話が流れるのは、時間の問題だ。


「騎士団と王宮兵は、頭数もそうですが、統制できていないのが一番の悩みです。軍再編より復興を優先させたツケですね。一応、クラオン領付近に駐留させた部隊も戻している最中です」


 つまり開戦準備は、まだということだ。呼び戻している部隊も、今からでは間に合わないだろう。

 そもそもどうして、駐留軍がクラオン軍を素通りさせてしまったのかと言う問題もあるのだが。当初は裏切りも予想されたが、率いていたのは古参の親王主義の騎士だ。離反は考えにくい。


「早馬で戻った者から聞いた限りでは、クラオン領の不審な動きには勘付いていたそうなのです。鎮圧に備えて動きをとっていた中で、急に忽然こつぜんと姿を消したそうで」

「それでいて後ろから奇襲するでもなく、気付いたら王都の目と鼻の先、か。駐留軍の全容と行軍計画を知らなきゃ不可能だけど」


 敵を見失った後の駐留軍が、まず本拠地クラオン領の占領を図ったのも、結果的には悪手になった。空城を奪おうとも、主力をこちらの心臓に差し向けられては意味がない。


「交渉はどうなっているの? 兵を退かせられないまでも、時間稼ぎくらいはできない?」

「あくまで行軍演習と言い張っています。使者を送ったのですが、追って回答すると返されました」


 完全に舐められている。軍がまともに機能していないことが、見透かされているのだろう。

 拙速をたっとんだ故の優勢なのだから、相手としては時間稼ぎに乗る必要はない。


「軍師達の予測では、湖に集結中の両公爵家が王都攻略を始めるまで、あと五日ほど。残存兵で凌いで、各地からの救援待ちになりそうです」

「中央の武官系がいないのはそれが原因か。ほんと、パーティーしてる場合じゃないね」

「そう提言したのですが。この程度で王都は揺るがないと、アピールする必要があると。結束と士気向上のためにもと、議会に押され已む無く」

「理由がごちゃついてるなあ。単に招待済みで準備済みだから、今更止められなかっただけじゃ」

「恥ずかしながら、本当にそうだと思います」


 今頃、湖に陣取った公爵軍からは、危機感が無いと鼻で笑われていることだろう。

 悔しいが、敵方のスカウティングは見事と言わざるを得ない。優秀な頭脳と腕利きの密偵を飼っているに違いない。


「不手際が重なり恐縮ですが、明日からは開戦モードになると思いますので、せめて今日だけは栄養を付けていって貰えれば」

「そうだね。騎士団の上役からも、明日からはいつでも出られるよう言われてるし」


 不手際という意味では、結局道場の立ち退きに関する犯人は見つけられなかった。

 アーネとしては立ち退く方向で門下生達とも合意が取れているものの、自分達を嵌めた相手を見逃すつもりはない。ただこうも尻尾を見せないということは、或いは複数で隠蔽しているのかもしれない。

 その場合は事件解明が更に手間取ることになる。少なくとも今の状況では、そちらにかかずらう暇はない。

 そうして、取るべき行動について二人が意見を交わしていた時だった。部屋の扉が二回、丁寧にノックされる。

 アディが入室の許可を告げると、燕尾服姿のしっかりした身なりの男が、扉を開けて入ってきた。


「陛下、ティファート卿。ご挨拶をお願いしても宜しいでしょうか。お客様方は既に壇上前へご参集頂いております」

「もうそんな時間でしたか。分かりました。すぐ向かいます」


 燕尾服の男が、無駄のない所作で部屋を出ていく。今回のパーティの責任者だろう。アーネは名前こそ覚えていなかったが、どこぞの貴族に連なる上位の文官だったと記憶している。

 名目上は主催者であるアディは、これから舞台の上でスピーチと言う段取りなのだろう。忙しいことこの上ない。

 アーネは小さく手を振って見送るが、当のアディは極めて不思議そうな顔をして見せた。


「挨拶はアーネさんもですよ? 一緒に行きましょう」

「何であたしも⁉︎ 聞いてないよ!」


 アーネが素っ頓狂な声を上げる。

 言ってなかったかしらとばかりに、アディは頰に手の平を当て、首を傾げて見せる。

 可愛らしくも上品さも感じるその仕草は、彼女が紛うことなき上流階級の出だという表れに思えた。


「今日の主役はアーネさんです。せめて一言、何か頂けないと」

「でもスピーチなんて、考えてないし」

「場の空気を察しつつ、差し障りないことを喋って頂ければ大丈夫です。そういうのお得意でしょう?」


 何だか、悪口を言われた気もする。

 ただ、主賓待遇で呼ばれたのに、こうなる可能性を考えていなかったのはアーネの落ち度だ。仮初の主役と認識していたので、すっかり油断していた。

 今更文句を言っても仕方ないので、それっぽい口上を頭の中で組み立てていく。上位の役人や貴族は出席していないので、そこまで堅苦しくなくて良いのが救いだった。


「ああもう。尺どのくらい? 短め長め?」

「短くて構いません。でもアーネさんのスピーチ前に記念絵画のお披露目もありますので、絡めて貰うと良いかもです。私もまだ見てないんですけど」


 記念の絵まで用意されているとは、何から何まで初耳だった。

 聞けば、今後は饗応きょうおうの間に長く飾られるらしい。国内の有名な画家にかなり前から書かせていたらしく、絵の具が乾いたのもつい最近とのことだった。

 広間に戻ると、なるほど確かに壇上には、先程まであった筈の緞帳どんちょうが端に寄せられている。

 奥の壁際で、細工の入った額縁に飾られたそれは、更に白布を被せられていて、お披露目の時を今か今かと待っている。

 大の大人が両手を広げても、まだ有り余る幅の大作だ。油絵具の匂いから察するに、恐らくあれが記念の絵画なのだろう。

 先ほどの燕尾服の男に案内され、二人は壇上に上がっていく。

 注目を浴びて気恥ずかしさを感じるアーネをよそに、アディは慣れたものだと言わんばかりに、すらすらと式辞を述べ始める。


「此度はお忙しい中、祝勝会にご臨席頂き誠に有難うございます。皆の御尽力が無くば、今なお王国は混沌の渦中にあったことでしょう。その忠節に、王家を代表して謹んで感謝致します。戦勝のよろこびを分かち合えればと用意した此度の祝宴しゅくえん、楽しんで頂ければ幸いです。今後とも皆様の力添えを頂き、王国の秩序をともに涵養かんようはぐくんでいきましょう。リデフォール王国の今後益々の繁栄を願いまして、挨拶に代えさせて頂きます」


 王室としてのブランクを感じさせない、柔らかな口調ながら威厳を感じさせる、見事なスピーチだった。子連れの来場者も会場にいたが、年端のいかない子供でさえ黙って耳を傾ける有様だ。

 高貴さは血に表れると言えば、アルノーは怒るだろうか。そんなことまでアーネは考えてしまう。

 舞台袖にアディが戻り、会場のスタッフが何人か登場して、隠された絵の前に集まる。

 絵のお披露目が終われば、いよいよ次はアーネの番だ。


「やだなあ、こんなはずじゃあ」

「はいはい、考え過ぎない。いざその時になれば、何とかなるものです」

 

 自分の出番が終わったからか、軽快な口調でアディが慰める。

 正直、こういうかしこまった場で挨拶するような身分ではない。大手柄を挙げたとはいえ、アーネはまだまだ新米騎士でしかないのだから。

 アルノーならばこんな時どうしただろうか。大きな演説も経験していた彼は、やはり直前で緊張したりしていたのだろうか。

 はたから見ていた分には、問題なく出来ていたような気もする。

 

「ま、なるようにしかならないか」


 チラリと来場者席を見れば、デュオとディアナも壇上に視線を向けている。門下生達の前で恥ずかしい姿を見せるわけにはいかない。

 そうやって、アーネが気合を入れ直したときだった。


「それでは、今回の祝勝会のために作成された記念絵画をお披露目します。皆様ご注目ください」


 司会のよく通る声が聞こえる。

 それに合わせて、スタッフ達が慎重に掛けられた布を取り外す。

 中から、一枚の大きな油絵が現れた。

 テレピン油の独特な匂いが辺りに漂う。

 それを見た誰もが、息を呑んだ。

 

 舞台はどこかの大聖堂。

 沢山の観客らしき人々の中央に、黒い牛頭の異形が立っている。

 異形の頭には王冠が載っており、毛むくじゃらの体躯に、金糸をあしらえた豪奢なマントを一枚羽織っている。

 がっしりとした身体には剣が十本突き立てられていて、牛頭の異形が大きく口を開けていた。断末魔の声が聞こえてきそうな、そんな圧力があった。

 剣を突き立てるは十人の勇士、うち一人は短い黒髪が特徴的な女騎士だった。

 奥には王族らしき正装を身につけた女性が、敬虔な様子で両手を握り締め、祈っている。

 その絵が放つ迫力と臨場感に、祝賀会の会場にいた誰もが息を呑んだ。

 素晴らしいと言う声が、どこからか漏れ聞こえる。それを皮切りに、歓声と拍手の音が混ざり合い会場を埋め尽くした。

 

 感動したぞ、何と見事な作品だ。

 祝勝会にこれほど相応しい絵はあるまい。

 ワタクシ分かりましたわ、このモチーフ。

 あの場にいなくても、この場面が目に浮かぶな。

 血染めの戴冠式。思い出すも怖気おぞけを催す。

 真ん中にいる牛頭、きっとあの男でしょう?

 うむ。背国者に似つかわしい醜い姿だ。

 甘言と扇動で我らを騙した、忌々しい無銘むめい者。

 殿下や宰相を手に掛けた憎むべき裏切り者。

 国の発展を十年遅らせた欲深き簒奪者。

 恐れ多くも王を名乗った身の程知らずの不届者。

 あれは人の王ではない。魔の王に違いない。

 それを討ち滅ぼす、女王陛下と十人の勇士。

 美しい。

 美しい。

 美しい。

 

「…………違う」


 賛辞が会場を満たす中、アーネがそっとこぼす。

 

「違う、違う。違う違う違う違う違う!」

「っ、アーネさん落ち着いて」


 震えるアーネを、アディが必死に宥める。

 目を見開いて脂汗を垂らして。

 怒りと悲しみがないまぜになって、身体中で渦巻く。痛みと苦しみが見えない鎖となって、心と身体を雁字搦がんじがらめにする。


「こんなことをしたかったんじゃない、こんなものを見たかったんじゃない! あたしは、あたしは」


 称賛される云われはない。

 己はただ、見過ごせなかっただけだ。

 自分の信じる英雄が、悪道に堕ちてしまうことを。

 だけど現実は残酷で。

 そうなることを避けたくて、戦ったのに。

 彼女が拒否した以上に、彼は醜悪なものとされてしまった。

 それを導いたのは誰か。

 その事実が、幾万本もの矢になってアーネに突き刺さる。


「アルノー、アルノー……」


 どれだけ名前を叫んでも、望む相手は出てこない。慰めて貰いたくても、お前のせいじゃないと言って欲しくても、もうどこにもいない。

 彼の抱いた壮大な理想も。

 殉教者のような真摯な願いも。

 全てすべて、踏み躙られ。

 貴族からも騎士からも、守りたかった民衆からさえ、忌むべき背国者と揶揄されて。

 ただ牛頭の悪魔として、絵の中で永久に断末魔を上げ続けるだけだ。


 窮時を告げる早鐘が城に響いたのは、そんなときだった。

 突然の大音量に、戦勝の祝賀会場は一気に空気が凍りつく。時を待たずして、南側の一番大きな扉が勢いよく開け放たれた。


「て、敵襲です! ミリー家の旗を掲げた軍団が西門前に現れました! 既に戦闘となっています!」


 どれだけ心が打ちひしがれようとも、戦火は情け容赦無く、火の粉を撒き散らす。

 平和を祝うはずの式典が、瞬く間に混乱と困惑に彩られる。さっきまであれほど楽しそうに、歓談していたというのに。


 にえを火にべて迎えた、幻想の平和が終わる。

 燃やし切ったつもりの残火が、再度リデフォールを焼き払わんとしていた。

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