第34話 夢の続き、剣墓の誓い
正午過ぎの、晴れ晴れとした陽光が世界を包む。
光をいっぱいに浴びた湖が、空の青さを水面に映している。
雄々しく立っていた塔は基部を残して消え去り、所々に瓦礫として湖の中から顔を出していた。
そのかつての大聖堂近くの場所に、灰色がかった
その石と剣の前で、一人の女騎士がしゃがみ込んでいた。真新しい騎士専用の軍服がまだ馴染まないのか、屈む動作がややぎこちない。
女騎士は、手に持っていた花束を石の前にそっと供えると、そのまましばらく目を瞑る。
「もうあんまり、ここにも来れなくなるのかな?」
若き女騎士の、独白にも似た言葉の向かう先には、貴族風の服装をした女性がいた。
フリル付きのブラウスに飾りボタンのついたジャケットを合わせ、どちらかと言えば外出向きの装いだ。その女性的な柔らかい物腰は、つい最近まで男装していたのが嘘のようだった。
「そうなると思います。王位継承や議会のこと。騎士団再編や、復興事業も。やっとそれらの事後処理に、手が回るよう落ち着いてきたところですし」
血染めの戴冠式から一月。
一連の騒動によって生まれた諸問題を片付けるには、まだ時間が足りていなかった。
最近になってようやくことが落ち着いてきて、国家的な復旧に着手し始めたばかり。
アディとアーネはそれまでの間、事件の当事者としての後始末をこなしつつ、こまめにこの場所に足を運んでいた。あの事件で、唯一失われてしまった人間の墓標に。
アルノーの遺体は結局見つからなかった。深い水底に眠っているのか、それとも川を伝いいずこかへ流されたのか、或いは
たった一人の人間を捜すのには、この湖は大きすぎた。
捜索は完全に打ち切られた訳では無いものの、この件はアルノーの死亡という形で幕を閉じていた。
大聖堂の中にいた以上、到底助かる状況では無い。仮に崩壊をやり過ごしたとしても、あの出血で湖に放り出されては、どのみち助かるまいとの見解だった。
「何であんなことしたかなあ」
独り言のようにアーネが呟く。その答えは、もう彼女自身知っているはずだと、アディは思う。
未だに整理がついていないことは、重々察していた。彼女がアルノーと運営していた道場の門下生達も同じようで、特にアルノーの一番弟子だったデュオは、毎夜床に伏して泣き続けているそうだ。
アルノーを止めた者達でさえ、傷付き悲しんでいる。この傷は、容易に癒えることはないだろう。
「アルノーのしたことは間違いだったの?」
結局、アルノーが成そうとした一般市民への選挙権交付をはじめとする政策は、廃案となった。当人の罪と、推進した理念は別物として捉えるべきとアディは進言したものの、貴族たちからの猛反発に遭い引かざるを得なかった。
庶民院の設立そのものも、より一層の検討が必要ということで、保留になっている。
それら新法案廃絶の動きの中で、本来利益を享受する側だった市民達からは、不思議なほど反対意見は出なかった。
無情なことに。アルノーが守ろうとした者達は、彼が何故そのような主張をしていたのか、誰もその真意を理解していなかった。
「彼のしたことは、民を想ってのことです。その意味では、彼は正しかったかもしれません。しかし一方で、彼の立身出世に邪魔な人々が、無惨に葬られていったのも事実です。それは一般には、悪といわれる行為です」
アーネが屈んだまま、居心地悪そうに縮こまる。
正しいことのために悪を為せば、それは一纏めに悪となってしまう。正義の味方とは難しいものだ。
だが、だからこそ。
「でも。だからこそ貴女は、彼が間違っていなかったと信じても良いんです」
伏し目がちだったアーネの顔が僅かに上がる。
その目を真っ直ぐ見て、アディはなおも続けた。
「真に悪ということではないのなら、彼を支持する者がいても良いんです。彼の野望の全てが、潰えたわけではないのだから。夢の続きを見るのに、誰の許可がいるというのでしょう」
何も変えられなかったのだとしても。
誰も救えなかったのだとしても。
彼の理想は、生き残った者が継いでも良いのだ。
今度こそ間違いの無い、正しい方法で。
その言葉にアーネははっとする。アディが言わんとすることが伝わったようだった。
「駄目だよ、アディは女王様になるんでしょ? アルノーの政策を引き継ぐなんていったら、他の人がついてこなくなる」
「おや、甘く見られたものです。国王派は割と生き残りが多いので、人気だけはあるんですよ私。それに頼りになる親友も、叙勲を果たしましたしね」
女王と騎士。
それが二人の新たな肩書きだった。
正式な着任は明日以降となっていたが、既に内示は出ていて、軍服も専用のものに一新している。
王室の遺児であるアディは後継として文句無しであったし、アーネも戴冠式における功が評価されていた。
「アディは見てくれるの? アルノーの夢の続き。あたしと一緒に?」
アーネは恐々とした様子だった。
無理は無いと、アディは思う。
アルノーはジェラールの仇だ。兄を手にかけた男の願いなど、継承する心情になるはずがない。道理を言えば、そうなるだろう。
それに関しては理由もあったのだが、恥ずかしくて目の前の親友に告げることは、流石に憚られた。言ってしまえば、間違いなく叱られてしまう。
「いきなり全部とはいきませんが。理解者を少しずつ増やしていくつもりです。貴方も付いてきてくれるでしょう? サー・ティファート。私の騎士」
真意が何であったとしても。アルノーが語った幼く青い夢のほとんどは、未だ夢のままである。
彼がそれを強く願う反面、民も貴族も、彼の考えにはついていけなかった。彼の理想は、語られるのには時期があまりにも早すぎた。
二院制導入。
民の政治参加。
貴族も平民も、皆が並んで歩ける世界。
それでもいつかは叶えてみせたいと、アディは考え始めている。それらは皮肉にも、混乱収拾のためアディが女王に即位して王制が継続したため、未だ成されてはいない。
しかし、アルノーの見た夢は続いている。彼の願いに触発され、同じ夢を見る者がまだ生きているのだから。
「手伝って貰わないと、私が困ります。何せ王宮は人材不足何ですから。騎士といえど、山ほど事務仕事を回させて頂きますからね」
そもそもアディとしては、自分が王に成ろうがアルノーが王に成ろうが、どちらでもよかった。
自分が勝つならそれもよし。
そうならなかったときは。
(本音を言えば、連れて行って欲しかった、のでしょうかね。私は。
だがもうそれは終わったこと。結局は誰の願いも叶うことはなく、現実は続く。
それでも生きていけば、何らかの形で誰かの願いは叶うかもしれない。
自分達の命は続いていくのだから。
「だから彼が見た夢を、夢で終わらせないよう、私達は紡いでいきましょう。いつかそれを現実に出来る日まで」
「……うん。ありがとう、アディ」
飾り気のない、とびきりの純真な笑顔でアーネは首肯する。その顔は、アルノーでさえ惚れた理由がよく判る、眩しく輝いた笑顔だった。
仕事忘れてたと、アーネが先に戻っていく。来たときに漂わせていた暗さは、既にどこかへ吹き飛んでいた。
一応、アディは明日の叙勲式に遅れないよう釘を刺しておいたが、返事がないところを見るとあまり期待できそうになかった。
その場に一人取り残されたアディは、改めて石碑に向き直る。石を墓標と見るのか、折れた剣を墓標と見るのかいまいち判断が付かない。もちろん剣を地面に刺したのはアーネだった。
剣の
どうせ元に戻らないのならば、持ち主と一緒にいた方が剣も幸せだと言ったのはアーネだった。たとえそれが仮初めの墓だとしても。
遺体のない墓標。それがアディにある一つの考えを浮かばせる。
アルノーが死の際に発動させた
そして通常、水使いは血液操作による止血と代謝促進、即ち治癒の能力も持ち合わせる。
もしもあのとき同時に、治癒の力も発動していたのなら。大聖堂が沈んだのは湖。
「なーんて。私もたいがい未練がましいですね」
頭に浮かんだ妄想を振り払い、アディはアーネの行った道を歩き出す。
湖からゆるやかな風が吹く。
その風を浴びて、花や木の葉がさわさわと
いつかの日より、少しだけ暖かくなっているような気がした。
ベルサはその頃、湖近くの森の一角にいた。
目的はもちろん、アルノーの遺体若しくは
とはいえ事件が起きてから、それなりに時間が経っている。結果はなしのつぶてのままだった。王国騎士団からも人が派遣されており、更には民間でも、堰の工事や瓦礫撤去が始められようとしていた。
人目がつきすぎれば、それだけ成果を持ち去るのが困難となる。タイムリミットを意識し出した、そんな頃だった。
彼女のとある特殊な地術師としての嗅覚が、それと引き合わせた。
「何ですか、これ」
未知との遭遇に対する畏怖を隠さず、彼女がひとりごちる。
幸か不幸か、今は単独行動の最中。捜索の成果を持ち去るには、またとないシチュエーションだ。もっとも、彼女が欲していたものとそれは、少々様相が異なるのだが。
オオォ、オォ。オオオォ。
声とは言えない音を発しつつ、それは
強風の夜に外から聞こえる葉擦れのような、聞く者を不安に落としめる音だった。
大人の男一人分ほどの大きさであろうか。それが
近いというのは、それが人ではなかったからだ。少なくとも、人間は液状では存在し得ない。人体の六割が水分だとかそういう問題ではなく、それは明確に何かの液体だった。
体積の割にはやけに黒っぽく見えるので、純粋に「水」だということも無いのだろうが。どのみちただの水が、凍ってもいないのに
オ、オオオォ。オオオオオオゥ。
それは、近付くベルサに反応を示すでもなく。
呻き声を残し、その場に在り続ける。
そこに在ることこそが、存在理由であるかのように。
産まれ落ち、生きることだけを、目的にしているかのように。
見た目からは、その異形の正体を類推できる材料はほとんど無い。
唯一分かるのは、それをこの世界に持ち込んだであろう人間は、もうこの世にはいないこと。
「プリシス卿。貴方いったい、最期に何やらかしたんですか」
オオオオオオオォ、オオオオオオオオオオッ!
それは、意味ある言語は何も語らない。
荒々しい木々の
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