第27話 幻を追って、迷い惑う
ロベールの支配から解放され、城下街は活気に
取り分けここ数年増加傾向だった税制について、王宮が見直しベースで検討を進めると声明を出したことが、民衆の歓迎ムードを後押ししている。街は新たな王を酒の
広場から離れた、今にも崩れそうなほどの古い宿屋の二階の一室。かつてアディと呼ばれていた王太子付きの若い侍従が、何をするでもなく、ぼうっと寝台に腰掛けていた。
エメラルドのような碧の瞳はどこを凝視するでもなく、ただただ濁っている。肩まで伸びた金色の髪も、手入れがされていないのかパサつきが見られ、以前のような輝きを発してはなかった。
時折木製の安っぽい寝台がぎいぎいと音を立てるだけで、その部屋からはそれ以外の音も、色も、臭いさえも無くなっているかのようだった。
「これから一体、どうすればいいんだろう」
ここに来るよりも前から、何度も投げかけた疑問だった。だが答える者はどこにもいない。だからその問いは、答えを探して何度も頭の中で繰り返されてきた。果たしてこれが何回目であるかは、彼女はもう覚えていない。
アルノーの素性や思惑は、既に知ってしまった。未だに彼を信じたい気持ちはあるものの、城に帰る気にはなれなかった。今更以前までのような関係には戻れない。
「大変な荷物も、預かってしまいましたしね」
寝台横に、布で巻かれた長物が、不用意に立て掛けられている。
別れ際にベルサから託されたものだ。ロベールの船で運ばれていた積荷の一つで、戦いの日に船と共に沈む運命にあったところを、仲間に頼んで回収していたらしい。
この場所も、宿を隠れ蓑にした情報部のセーフハウスらしく、ベルサの手引きで入り込むことができた。
「あの槍、ジェラールが持ってたと思うんだけど、いつの間に宰相が接収したんだろう。本当抜け目ないですね」
預けた当の本人は、他にも大事な荷物があったらしく、直後に別行動となった。
ちなみに他の荷物についてもゆくゆくは預けたいようで、アディは今から気が重くなる。逃げられないよう手元に置いておくために、この宿を用意したのではと勘繰りたくなる。ちらりと見えたが、とても一介の侍従にどうこうできる代物ではなかった。
だが、彼女の意図は理解できる。
「立て、ということなんでしょうね。アルノーさんの前に」
無茶を言ってくれるものだと思う。
今や一国の王となろうとしている人物を前に、どんな立ち位置で対峙しろというのだろうか。社会的立場としては最早相手にならないし、武力を持ってというなら、それこそ彼に斬りかかる前に、護衛に取り押さえられて終わる自信がある。
そう、彼はもうすぐ王に成る。
アルノーは王位を得て、何を望むのだろう。この間の演説ならば、群衆に紛れ込んで聞いていた。
平和。争いのない世界。民も貴族も騎士も、誰もが平等。
「そんなの無理に決まってるのに」
人は生まれながらに己の地位が決まってしまう。だからこそ、やらねばならないこともそれぞれ違い、それをこなすことで相互利益が生まれる。民は畑を耕し王は国を治める。何百年も変わらずにいたことだ。
「彼は変えようとしている。それは本当に、あの人を殺してまで成し遂げる必要があること?」
確かに最近までは宰相の圧政により、民の暮らしは悪化の一途だった。だが歴史的には、王と貴族院による治世が真っ当に行われていた時代も、少なくはない。現在がそこまで劇的な変化が求められているような時代だとは、アディは到底思えなかった。
しかもそのために、彼女はかけがえのない、大事な存在を彼に奪われている。
何故彼がその道を進んだのか。例え失うことに涙することになっても得たい、大事なものがあるのだろうか。
「贅沢な人。彼はもう既に一つ、大事なものを持っているというのに」
ふと、雲で隠れていた日光が漏れて、部屋の窓から室内に飛び込んでくる。その日の光で、少しだけ室内が明るく、暖かくなった。
「もしかして逆なの? 彼は大事な人のために王位を得ようとしている? 彼があそこまでして得ようとしているものを、彼女は素直に喜べるの?」
明るくなった室内で、寝台のアディの目に光が宿っていく。色褪せたような金髪も、陽を浴びてみるみると輝きを増していった。
「彼は気付いてないんだ。大事なものを守ろうとして、その大事なものを逆に壊そうとしていることに。目的はともかく、彼はその手段を致命的に間違えている。何て悲しいんだろう」
腰掛けていた寝台から、勢い良く立ち上がる。部屋に蔓延していた
「それにあの賢い娘に限って、何も勘付いてないなんてことは考えられない。誰かが彼を止めないと。近い将来彼は、それこそ絶対に踏み越えてはならない一線を越えてしまうことになる」
だが、誰が暴走する彼を止めるというのか。この国に英雄はもういない。故に、彼女のすべきことは一つだった。
掛けてあったコートを羽織り、軽く身支度を済ませる。そのまま力強い足取りで部屋のドアを開けて、歩いてすぐに止まった。
原因は、廊下の先から聞こえ漏れてくる声だった。このまま進めば食堂があるはずだが、そこからよく知った声が聞こえてくる。
「なるほど。ではクラオン領軍との戦線は停滞しているのですね、司令官殿」
「うむ、誠に申し訳ない。アルノー卿の晴れの舞台までには片付けたいところだが。おっと、もう迂闊に卿だのと呼べませんな閣下」
「戴冠前ですし、騎士の身分も返上してませんので、いつも通りで構いませんよ。では引き続き、第一騎士団はお預けします」
アルノーがいる。
その事実に、足が痙攣したように震え出して動かなくなる。上手く空気が吸えず、過呼吸のように息が切れ切れになる。
何故情報部のセーフハウスを兼ねるここにいるのか。秘密を知った自分を消しに来たのか。
不安で心臓が止まりそうになるのを、アディは必死に胸を押さえ、気を落ち着ける。大きく息を吸って吐いて。三度ほど繰り返し、アディはようやく恐慌を脱した。
ここにいる理由は、落ち着けばすぐ思い至った。
ベルサの裏切りは、今のところ考えづらい。多方面に人脈を作りたがっている彼女が、自分、引いては王室とのパイプを捨てるとは考えにくい。アルノーとの取引によって切り捨てることはあるかもしれないが、それならばアルノーの地位が盤石になるのを待つ気がする。
であれば、考えられるのは内密の話をするため、ベルサとは別口で情報部に部屋を用意してもらったというところだ。今の彼らの会話がその裏付けとなる。身内には聞かれても構わないが、敵対勢力は排除したい程度であれば、確かにありうる。
城でもいいようなものだが、現在城は戦後復興のため、瓦礫撤去や補修作業の人足が多数出入りしている。アルノーは探知系の術も会得しているはずだが、そもそも密談可能な場所を自由に使えるのなら、確かに情報部のセーフハウスで打ち合わせというのはある線だ。
「気付かれた様子はありません、よね?」
ならばつまり、情報部の人間と誤認されているか、そもそも探知術式を切っているかのどちらかだろう。あれこれ考え込んでいるうちにも、会話は進んでいく。
「ミリー領軍が動き次第、手筈通り我らも動く。上手くいったあかつきには、くれぐれも」
「ええ、是非とも騎士団の要職をお願いします。貴方ならば安心してお任せできます」
歯の浮くようなおべっかだったが、宮廷にいる以上は必要な技能だ。たとえ王位を得ようとも、社交スキルが不要になることはない。
食堂からは、椅子が引かれて木板の床が擦れる音が聞こえてくる。どうやら二人は食堂を立つらしい。アディは廊下の陰に急いで身を隠した。
その直後、食堂内から何かがぶつかるような大きな音が響いた。アディは驚くものの、陰から飛び出すことは控える。
「大丈夫ですかアルノー卿!」
「すみません。少し
「急に倒れられて驚きましたぞ。あちこち働きかけていると聞き及んでおりますが、休養はとれているのですか?」
「今が大事なときですから。とはいえ疲れが溜まってしまったかもしれません。恥ずかしいところをお見せしました」
どうやら、アルノーが倒れて卓にぶつかったようだった。その後も騎士団の人間が心配した様子を見せていたが、結局休むことなく移動するらしい。
食堂から出た二人は、アディに気付くことなくそのまま宿を後にする。潜んでいたアディは反射的にその後を追った。
途中で騎士団の人間が、別れを告げて別方向へ歩いていく。アルノーはそのまま城に戻るようで、アディも引き続き付いて行き。
「って、私は一体何を!」
自分を狙っているかもしれない人間をつけ回すなど、危険が大きすぎる。意図せず行なってしまったのは、やはり彼を恨む気持ちが少なからずあるからだろうか。とはいえ武器もなしに、闇討ちも何もない。部屋に荷物を置き忘れてしまったことを、アディは今更ながら思い出す。
そうこうしているうちに、気付けば路地に入り込んでいた。町人ならばあまり入り込まない、人通りの少ない場所だ。
途端にアディの鼓動が再び強まっていく。追跡という馬鹿げた行為のせいで、アルノーに気取られたのかもしれない。
「うおおぉ! いい加減に、してください! いつまでも、どこまでも付きまとって!」
すぐ先の曲がり角を曲がったところで、アルノーが大声を上げる。
やはり、バレた。
アディが急いで逃げようと
だが慌てていたため、近くに置かれた木箱に思い切り蹴つまずいてしまった。
「ま、まずい。このままじゃあ」
急いでいるときに限って脚がもつれる。向こうからら剣を抜く音が聞こえる。もはや逃げられないと悟ったアディは、思わずぎゅっと目を瞑った。
だがいつまで経っても、自分の元にアルノーは現れなかった。
アディは瞑った目を開ける。恐る恐る、何があったか確かめようと、意を決して曲がり角の先を覗き込んだ。
そこでは。誰もいない虚空に向かって、一心不乱に剣を振るうアルノーの姿があった。
「貴方はもう死んだ、俺が殺したはずでしょう! いつまで師匠面で、俺の前に立ちはだかるつもりですか!」
まるで自分に纏わり付く悪霊でも追い払う様に。
血走った目で、型も何もなく力任せに。
「貴方がやらなかったからです! 貴方ならできたはずなのに、でもいつまで経っても立ってくれなくて! だから俺がやるしかなくなった、貴方が邪魔になったんです!」
何故だろう。
その光景を目に焼き付けながら、気付けばアディは泣いていた。
それは
それは
「あいつは、アーネは今年で二十だ。どこぞに嫁ぐのでもなく、出世できるわけでもなく。このままじゃあ飼い殺しです。あれほど才に溢れているのに。何とかしてやりたいじゃないですか」
アルノーが、自分の振るう剣に振り回されて、投げ飛ばされるようにその場に倒れ込む。
いつしか、彼から嗚咽の様な声が漏れ出した。
「俺を恨むのは、分かります。でも今は、邪魔しないで。後少しなんだ。もう少しで世界は変わる」
アディは逃げる様にその場を後にした。来た道など憶えておらず。曲がり角を幾つも曲がって、より袋小路の深い場所へと迷い込んでいく。
何もかもぐちゃぐちゃだった。
ジェラールのこと。アルノーのこと。アーネのこと。国のこと。王室のこと。民のこと。
どうにかしないといけないのに、何も考えられない。少なくとも、今は。
「私は一体、どうしたいんだろう」
その問いかけに答える者は、やはりいない。
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