第92話 アドニスは心を奪われそうになる

 アドニスは挨拶をするために一歩前に出た。


(この者が冥王。ぱっと見人間にしか見えないが頭に角がある。やはり人ではないか…そして横に居るのが————!)


 アドニスはルーを見た瞬間に固まった。事前に昨日の話を聞いていたが、ルーの容姿については全く語られていない。ただこの国の誰よりも強いだろうと教えられた。昨日関わった者の中でスラム一番の勢力を束ねるアッザムや高レベル開拓者のナナの事は前から知っている。だがその2人では足元にも及ばないほどの実力の持ち主だと聞いた。アドニスはそこからルーの容姿を男にも引けを取らない屈強な女だと勝手に決めつけていた。


(美しい…)


 しかし目の前に佇む女は自分の想像とはかけ離れている容姿をしている。

 黒の鎧を身に纏うその素肌は対極するように白くきめ細やかだ。そしてやはり目が行くのはルーの顔立ち。薄く控えめな薄ピンク色の唇は水分をたっぷりと含み、それは雫のようにみずみずしい。スッとした鼻の先には花開くように大きな瞳がこちらを覗いている。その澄んだ瞳は見れば見る程吸い込まれてしまいそうだ。また短くはなってしまったが、風でなびく金糸の髪はまるで自らの光を放つように煌びやかである。アドニスはブロンドヘアで、自身の髪をきれいな髪だと幾度も褒められた事があるが、ルーの髪を前にしてそれは霞んでしまう。

 誰が見てもそして何度見てもこの女を美しいと答えるであろう。このような容姿を持つ女がこの国の誰よりも強いと言われても疑いを持たざるを得ない。


(誰よりも美しいの間違いでは?)


「…アドニス?」


 ウルベニスタの声で我に返る。


「お、お初にお目にかかります、冥王様。それとルーさん。今回一緒に随行させて頂きますアドニスと申します」


 深々と頭を下げる。


「私は人間たちの中で冥王と言われているが、本来の姿はブラックドラゴンだ」

「存じております。あのアルフォニア騎士団を一掃したと」


 アドニスはアルフォニア騎士団の強さを知っている。それは数年前にレオナルドがナルスニアに訪れた際に一度手合わせをしたからだ。結果は惨敗。己の未熟さとレオナルドの強さを痛感した。本当に同じ人間なのかと疑うほどに。しかし、そのレオナルドが率いたアルフォニア騎士団が一匹のドラゴンに成す術無くやられたと報告を聞いた時は信じる事が出来なかった。


「そなたが付いて来る事で間違いないか?」


 冥王の声は抑揚が無く、自分に興味が無い事はすぐに分かった。


「はい」

「ならば…」


 アドニスは場の空気が一瞬で変化したのを感じる。


(…何だ…これは…)


 周囲が禍々しい空気に包まれ、自身の体もひどく重く感じる。この場にいる事が苦痛に感じるほどに。現に隣にいたマスクは冥王のオーラに打ち負かされ今にも逃げ出しそうだ。同様にキルギス、ウルベニスタも同じように苦々しい顔をしており、この3人は結局この場から逃れるように後ずさんでしまった。

 だがアドニスは違った。レオナルドに傲慢であった鼻をへし折られた後、自省し、稽古に励んだのだ。強くなろうと。そのおかげでアドニスは肉体的にだけでなく、精神面にも目覚ましい成長を遂げたのだ。


(ここで…引くわけにはいかない。)


 気を強く持ち、目に力を込めて冥王を見返した。


「…このぐらいは対応できるか、よし」


 その言葉と共に場の空気が変化する。重々しい空気はどこかへと消え失せ、通常の空気へと戻る。

 アドニスは大きく息を吐くと共に警戒を緩めた。全身に疲労感が襲うと共に汗が噴き出る。


「一体何をされたんですか?」


 アドニスは冥王に尋ねる。


「これから魔界へ向かうのだ。少々そなたの力を測らせてもらった」

「テスト…もしかして魔法を使われたとか?」


 ウルベニスタから冥王が魔法を使うという事を聞いていた。魔力を巧みに利用し、自然の力に姿を変えてそれを放つことが出来る魔法。人間は魔力を利用し身体能力を向上させる事が出来るが魔法を使える者は未だ現れていない。アドニスはこの場の空気が変わったのが魔法によるものだと思っていた。


「冥王さんは魔法を使っておりません。単に威圧しただけでしょう」


 透き通るようなきれいな声がアドニスの耳に届く。その声の持ち主は眉を少し吊り上げ、不満を含ませた声で冥王に詰め寄る。


「冥王さん、いきなり威圧するなんて失礼ですよ」

「しょうがないじゃないか。この者がどれほどの実力の持ち主なのか測る必要があった。そうしないといざという時に守れない」

「だとしてもです!初対面の方にするものではありません!」

「…分かった」


 冥王は少し不満そうな顔をし、頭を下げる。


「急に申し訳なかった」

「申し訳ありません」


 冥王に続いてルーもアドニスに謝罪する。2人の謝罪にアドニスは驚く。


「顔を上げて下さい。大丈夫ですから」

「本当に大丈夫ですか?なんともありませんか?」


 自身の心を奪いかけた女が心配しながら大きな瞳でこちらを覗き込むように近づいて来る。アドニスの胸の鼓動は急に早くなる。


「だ、大丈夫です」


 冥王の威圧に後ずさる事がなかったアドニスであったが、ルーの美貌に負け、恥ずかしさのあまり後ずさんでしまった。それを見た冥王が笑う。


「違う意味で大丈夫そうではないな」


 冥王は人の色恋に興味があるのかこのような変化に敏感であった。それに対しルーは何を言っているんだと冷ややかな表情を送った。ラルフの足を早く治療したいのとナナがラルフに何かしないか心配であり、一刻も早く出発したかったのだ。


「アドニスさん、準備の方は?」

「僕はいつでも行けます」

「では行きましょう」


 ルーはすぐに出発を促すが、キルギスが止めに入る。


「待ってくれ。未知の場所へ行くのだ。もう少し準備を」

「心配ない。基本的に私がいる。魔物が襲って来る事はない。環境も人間にとってそれほど苦しいものではないから問題ない。行って帰って来る、それだけの事だ」


 冥王はいい加減面倒に感じていた。さっさとこの場を離れたかった。


「そうは言うが——」

「——却下だ」


 冥王は少し強めの口調で答えた。


「お前たちは今回私に案内してもらう事で次は自分たちでも行けるようにと考えているのだろう?だがひ弱なお前たちでは無理だ。だから今回も随行者を1名と限定させてもらった。もしお前たちだけで竜血樹を手に入れようとするなら多大な犠牲を払う事になるぞ」

「私たちで向かう事は無理なのか?」


 ウルベニスタが確認のためにもう一度訊く。


「無理だ」


 冥王ははっきりと答えた。それを聞いてウルベニスタたちは竜血樹を自分たちだけで取りに行く考えをようやく諦めた。


「分かった。なら準備はもう大丈夫だ。アドニス、忘れものはないか?回復薬などは大丈夫か?」

「えぇ、大丈夫です。旅に出る際の最低限の物は取り揃えています」

「あっ」


 ルーは声を出した。ウルベニスタの言葉で気づいたのだ。自身は旅道具を何一つ持っていないことに。魔界に早く向かう事ばかり考えていたために自分の準備を失念していた。今のこの状況ではそれは非常に告げにくい。

 冥王が守ってくれる事を考慮するとポーションは必要ないかもしれない。だが水と食料は必要だ。冥王はどこかで水を飲むかもしれないが、それが自分たちに飲めるかどうかは別だ。食事に関しても今まで用意された物を口にしていたためにやはり採集して口にするのはどこか抵抗がある。その点に関して、ルーはまだまだお姫様な状態だ。

 ルーは短い時間の中で現地調達は無理だと判断し、自身が何も用意していないことを正直に告げることにした。


「ルーさん!」


 告白しようとしたその時、遠くから声が聞こえた。


「イリーナ…さん?」


 イリーナが遠くから駆けて来ていた。何か袋を携えている。この時マスクはイリーナの顔を見てあからさまに不快な顔を浮かべた。謝罪はしたが昨日の一件の整理がまだ出来ていないのだろう。


「はぁはぁ…あ~よかった、間に合って。ルーさん、これ。用意してないかと思って」


 ルーはイリーナが持って来た袋の中を覗き込んだ。すると、そこにはポーションや水と食料が入っていた。食料は携帯食で販売されているもので一番高級なものにあたる。きっとルーの育ちを考慮してのものだろう。


「イリーナさん、すみません。ありがとうございます」


 ルーはイリーナに駆け寄り両手を握った。イリーナはあまりのルーの喜びように少し慌てる。


「い、いいの、いいの。気にしないで。でもその代わり私のお願いを聞いてもらえる?」

「お願…い?」

「えぇ。私のお願い、それは竜血樹を必ず持って帰って来て。それも出来るだけ早く。ラルフ君の足のために」

「はい。必ず!」


 ルーはイリーナに力強く答えると共に自分の心にも誓った。必ず持ち帰ると。


「冥王さん、そしてアドニスさんでしたか。2人もよろしくお願いします」


 アドニスは急に話しかけられたためにお辞儀をするだけになってしまったが、冥王はしっかりと答えた。


「任せてくれ。必ず竜血樹は持って帰る。安心して待っているとよい」


 と自慢げに答えた。


「それと…ルー殿。ラルフ殿の事は言わなくていいのか?」

「ん?ラルフ君の事?どういう事?」


 ルーはまた冥王に不快感のある表情を向けた。余計な事を言うなと。

 ルーはラルフが言った「これ以上イリーナさんに頼ってはいけない」という言葉を思い出し、我慢していたのだ。しかし、この横に居る冥王のいたずら心がまた働いたのだ。


「どうしたの?」

「…実は」


 ルーは事情を話した。イリーナは恥じらいながらも不安を吐露するルーを見て、微笑ましく感じていた。


(こういうところは普通の女の子と変わらないわね)


「そう言う事ね。大丈夫。私もまだここに残ってやることがあるから。ラルフ君のところへ様子を伺ってみるから安心してちょうだい」


 イリーナは自身の胸の叩き、任せておいてと答える。それを聞いてルーは笑顔になる。


「すみません、よろしくお願いします」


 ルーは幾ばくか胸のつかえが晴れて行く気がした。


「今度こそ行きましょう!」


 ルーと冥王が城の出口に向かって歩き出すところでウルベニスタが声を掛けた。


「アドニス」

「はっ!」

「戦闘が起きて、自分で対処出来ないと感じたら冥王殿やルー殿に守ってもらうといい」

「…はい」


 アドニスはなるべく平静を装って答えた。冥王に守ってもらう事に関しては納得出来る。しかし、ルーに守ってもらえという事に関しては未だに納得出来ないでいた。目の前の美女が本当に強いのか疑問を感じていた。


(本当にルーさんは私よりも強い存在なのだろうか………はっ!)


 アドニスはここで先程冥王が威圧した時のことを思い出す。自身は冥王の威圧に耐える事で精一杯だったが、ルーは何一つ表情を掛ける事無くその場に佇んでいた事を。

 ウルベニスタが言った「この国の誰よりも強い」という言葉が急に現実味を帯びて来た。ルーが超越者を倒した事も頷ける。


(ルーさん、あなたの実力。この目でしかと見届けさせてもらいます!)

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