第20話 砕け散った心
「なぁ、お前の開拓者の登録証を見せてくれよ」
先ほどまで平静を装っていたラルフの目が大きく見開く。もう表情を隠し通す事が出来なかった。
そのラルフの表情を見たロンは確信する。
(間違いない、こいつは…)
一方ラルフは、刹那の中で様々な事を考えていた。
(こいつ…俺が開拓者じゃないって気づいたのか?いや、まだそうと決まったわけじゃない。それにしても登録証って何だ?今日は持ってないって事にするか?そもそも登録証ってのは本当にあるのか?こいつが嘘ついて俺をハメようとしているだけじゃないのか?)
人と接する事がほとんどないラルフにとって心理戦など出来るはずもない。いくら平静を装おうが、揺さぶられれば簡単にボロを出すような脆いものであり、ラルフもそれを自覚していた。
そんなラルフが取った行動は隠す事を止め、正直に告げる事だった。
「俺は…まだ開拓者じゃないんだ」
「やっぱりな」
不敵な笑みはより一層激しさを増す。嫌な目つき、嫌な笑み、そして露骨なまでの見下した反応。
ラルフが今まで幾度となく向けられたものと同じだった。
「なぁ、もう回復草を返してくれ。俺はもう行かなきゃいけないんだ」
「開拓者でないお前がギルドに回復草を持って行こうとするのか?おいおいそれはダメだろう?ルール違反じゃないか。あぁドブネズミだからそんなルールも分からないのか」
その言葉に護衛の2人がわざと大きな声を出して笑う。まるで周りに賛同を求めるように。そして野次馬たちの注目はさらに集まっていた。
ラルフは周りの反応を見て、これ以上の騒ぎになるのを避けたいと判断し、回復草は諦めることにし、すぐにその場を立ち去ることにした。
しかし、それをロンたちが許すはずがない。
「おいおいおい、どこに行こうとしてるんだ?」
護衛たちがラルフの行く手を遮る。
「もう俺のことは十分貶したろう?もういいだろ?回復草もくれてやる」
ラルフの焦りは怒りとなって語気を強めた。
「開拓者と偽ってギルドに回復草を売ろうとしている犯罪者を逃がすわけにはいかないな」
「俺は犯罪者じゃない!」
ロンの犯罪者という言葉にラルフは強く反発した。なぜならラルフは母親に恥じるような生き方は一度たりとてして来なかったからだ。どれだけ貧しくとも決して人の物を盗んだり、奪ったりしなかった。
母親が強く生きたように、ラルフもまっすぐに生きたいと信念を持ち、今日まで生きて来た。それだけは自負している。だからこそロンの言葉は自分を全否定されたようで許せなかった。
だがいくらそのような信念を持とうとも、それを理解する者はほとんどいない。というよりむしろ理解しようとする者がいないのだ。
現に本能につられるように騒ぎに興味を抱いた野次馬たちはラルフに冷たい目を向けている。自分に害を与えない無関係であることをいいことに自分勝手に感情を巡らせる。ラルフのことを見た目や憶測で勝手に判断し、そして自分の中で完結させる。
「これだからスラム出身の奴は…」
「身も心も汚い奴だ」
容赦ない言葉がラルフを襲う。
一方、この時騒ぎを聞きつけていたギルド職員たちが事務所から外に出て野次馬のいる方向を見つめていた。
「ラルフ君!?」
その中にイリーナもいた。
ラルフが囲まれている状況を見て悪い予感がしていた。
(もしかして…また)
イリーナはすぐにラルフの元へ駆けて行った。
「ちょっとイリーナさん!?」
別の職員がイリーナの後を追う。
当該者のロンは、周囲がラルフに向ける視線を見て優越感に浸っていた。
先日受けたパーティでの失態を上塗りするような感覚を得ていた。
「おぉ、怖い。ドブネズミに噛みつかれちまう。お前たち、しっかり俺を守ってくれよ」
「お任せくださいロン様。こんなドブネズミ、俺たち、いや俺1人でねじ伏せてやりますよ」
「ははは、頼もしいな」
ロンと護衛たちは勝ち誇った表情でラルフを見る。
「とりあえずその汚い袋は没収だな。現物を抑えないといけない」
ラルフの怒りの表情が一変し、狼狽を顔に漂わせる。
最悪の展開だった。このままでは開拓者になるための金が没収されてしまう。
「どけ!」
ラルフはすぐさまその場を離れようとする。しかし護衛たちによって取り押さえられてしまった。
「何をする!?離せ!」
ラルフの華奢な体では護衛をはねのけることは出来なかった。
「おい、俺はその汚い袋は触りたくない。お前が持て」
ロンは手が空いている護衛2に指示を出した。
護衛2はボロ袋を持ち上げる。
「ん?回復草しか入ってない割にはずいぶんと重たいな。ん?別に何か入っているな」
護衛2はボロ袋の中に手を入れる。
「やめろ!返せ!」
しかし護衛2はラルフの声を無視し、ボロ袋から金の入ったビンを取り出した。
「なんだこれ?ロン様、ビンの中に金が入っています」
ロンは護衛からビンを受け取る。
「なんでこんなドブネズミが金なんか持っているんだ?それにしても細かい金ばかりだな」
自然とラルフの方へ視線が向く。
「その金は…開拓者登録するための金だ。その金で開拓者登録して、回復草を売るんだ。だから俺は何も悪い事など企んでいない!」
ラルフは身動きが取れない状況でロンを睨みながら言い放った。
そのラルフの主張に反応したのは野次馬たちであった。ラルフの真剣そのものの表情はとても嘘を言っているとは思えない。
野次馬の変化にまたロンも反応する。雲行きが怪しくなってきたと感じていた。
確かに開拓者登録をすればギルドで回復草を売っても何も問題ない。そもそもの話、開拓者登録証を持たない者は決して買取りなどしてもらえない。犯罪者にこじつける時点で無理があるのだ。
そして今ここに開拓者になるための金がここにあるのならラルフは何一つ問題行動を起こしていないことになる。
「なぁ、もういいだろう?放してくれ。そして金と荷物を返してくれ!」
イリーナは野次馬の元にたどり着く。すぐさまラルフを助けるために動こうとするが、後を追って来た別の女性ギルド職員に止められる。
「ダメです、イリーナさん」
「どうして?放して!」
「いいえ、放しません!相手は貴族ですよ?しかもあまり良い噂を聞かないメディーナ家で、ロン様はそのご子息です。ここであの少年を庇えば次の矛先はイリーナさんになってしまいます」
女性職員はイリーナの事を本気で心配していた。仕事が出来、人望も厚いイリーナに尊敬の念を抱いていた。そんな彼女が質の悪い貴族に目を付けられることは何としても避けたかった。
(ラルフというはぐれ者もきっと因縁を付けられたのね。でも、申し訳ないけれど私はイリーナさんの方が大事なの。それにはぐれ者のあなたは少なからず悪い事をして来たはず。因果応報と言われても仕方のないはずよ)
女性ギルド職員はラルフに同情はしていた。しかし、助ける気にはなれなかった。彼女もまたはぐれ者に対し、どこか差別的な目を向けていたのだ。
「イリーナさん、とにかくもう少し様子を見ましょう。状況を見るに、そこまでまずくありません」
確かにその職員の言う通りだった。
なぜラルフを取り押さえているのか?今の野次馬たちはそんな目をロンに向けている。
護衛も周りの反応を見て、自分の立場が悪くなっているのを感じていた。どうしたらいいか確認するように雇い主であるロンの方へ顔を向ける。
しかし、ロンはまた嫌な笑みを浮かべていた。
「この金は本当にお前の金なのか?誰かから奪ったんじゃないのか?」
ここで引き下がろうという思いは毛頭なかった。
「違う!それは俺が必死に貯めた金だ!」
「スラム街でその日暮らしの泥をすすって生きているドブネズミがどうやって1000Jの金を貯めるんだ?」
これに周りの野次馬たちも反応する。
10J程度なら分かる。しかし、1000Jはやはりちょっとやそっとの事で集めるなど到底出来るものではない。
はぐれ者がそんな額のお金を持っているなどやはりおかしい。疑念の目がラルフに向けられる。
これまで幾度も幾度も向けられてきた冷たい視線。
悔しさで歯を思い切り噛みしめる。
(なんで…なんでそんな目を向けるんだ)
ラルフは歯を噛みしめるのを止めた。
そして払拭するように大きな声で反論する。
「毎日魔界へ行って、素材を回収して貯めたんだ。毎日少しずつ。少しずつ。たとえお前たちにドブネズミと言われようと。俺は我慢して必死に貯め続けて来たんだ!何も知らないお前たちに何が分かる!」
ラルフは初めて自分の気持ちを吐き出した。
飢えに耐えながら、寂しさに耐えながら、体と心を酷使する、言わば命を削りながら必死に貯め続けて来た金なのだ。ビンに詰まった金はラルフの汗と涙と命、そして想いが形となった結晶のようなものであった。
それを何も知らない、知ろうともしない者たちに疑いの目を掛けられるのはもう我慢の限界であった。
だがこの行動は野次馬たちに逆効果であり、ラルフの印象をさらに悪くした。それはラルフが平民からも差別の対象となるはぐれ者であるからだ。
なぜ自分より下の者にそのような暴言を吐かれなければならないのか?
スラム街の意地汚いはぐれ者にそんな事を言われる筋合いはない。
ラルフを取り囲む野次馬たちはそんな思いを抱いていた。
ラルフに無自覚な悪意が向けられる度にイリーナの心はひどく痛む。
野次馬の中に埋もれたイリーナは我慢の限界だった。見過ごす事など出来なかった。声を張り上げ、今すぐにでもラルフの無罪を主張したかった。
しかし、それは同僚のギルド職員によって阻まれる。ギルド職員はギルド長を呼んでいたのだ。
「イリーナ君、彼を助けようとするのはよしたまえ」
イリーナは上長の発言に絶句する。
「なぜです?彼は何も悪い事などしていません!」
「…だろうな。私にもそう見える。だが相手が悪い」
「相手が悪いから黙って見過ごせと?諦めろと?ギルド長はそうおっしゃりたいのですか?」
「…そうだ」
「——なっ!」
イリーナは言葉を失った。自分の上司の発言が信じられなかった。
ギルド長は問題事を起こしたくない事なかれ主義であった。
開拓者の運営をしているのはやはり権力者である。どの国も王族から任命された貴族が仕切っている。ギルド長といっても所詮は事務所の責任者の立場に過ぎないのだ。
ギルド長がイリーナを止めたのは、メディーナ家がどこで権力者と繋がっているか分からないと判断しての事だった。
「君の正義感が強いのは知っているし、私も評価している。だが、今ここで動くことは賢明な判断とは思えない。後でどのような仕打ちを受けるか分かったものではない」
「…それならば私はギルドを去ります」
「そんなイリーナさん」
心配する同僚を他所にイリーナは覚悟を持って答えた。このまま黙っている自分を許せるはずがなかった。
(ここで私が見て見ぬふりをすれば、私は私じゃ無くなる)
しかし、そんな思いもギルド長に言葉に揺らいでしまう。
「君1人が辞めて済む問題ではないのだよ。君と一緒に働く者たちへの迷惑も考えたまえ」
「————!」
イリーナを心配そうに見つめる同僚と目が合う。
これから自分の取ろうとする行動で周りに迷惑を掛けてしまう。自分では償いきれないものを背負わせてしまうかもしれない。
「貴族の力を侮ってはいけない」
その言葉でイリーナの心は折れた。ただ黙ってラルフの無事を祈る事しか出来ない、何も出来ない自分を憎んだ。
野次馬にも敵意を向け、完全に孤立無援となったラルフ。
ロンはそんな状況を楽しんでいた。
「俺の金を返せ!」
護衛に取り押さえられた状態でラルフは語気を強めロンに放つ。
本来であるならば平民が貴族に対し、このような口を聞くことは許されない。それだけで侮辱罪になる。
しかしロンはちっとも気分が害されることは無かった。なぜなら権力にねじ伏せられるラルフを見て優越感に浸っていたからだ。貴族という身分を最大限に利用して。
ましてや相手はセクター四に住むスラムのはぐれ者。どうにでも出来る。
罪有る者を罪無き者にし、罪無き者を罪有る者にする。
それが貴族の権力であった。
そんな権力者であるロンはまたあらぬ事を考えていた。
「おい、ドブネズミ。頼み方次第では考えてやらん事もないぞ」
ロンはまた嫌な笑みを浮かべた。その笑みは貴族には到底ふさわしくない意地汚い笑みであった。
「…分かった、ちゃんと頼む。だから放してくれ」
ラルフは怒り狂う自分の心を抑えながら答えた。
「おい…」
「わかりました」
ロンに言われ、護衛1は手を離す。
ここでやっとラルフは解放された。
「じゃあドブネズミ、お前の頼み方というものを俺に見せてくれ」
解放されるや否や、ラルフはそのまま四つん這いになり、地面に頭をこすり付け、ロンに頼み込んだ。
「お願いします、金を返して下さい」
「おい、こいつ本当にやりやがった!」
ロンは響き渡るように笑い飛ばした。まるで気分を晴らすかのように。
だがラルフはそのまま頼み続けた。
「お願いします…金を返して下さい」
はぐれ者はその日暮らしである。なぜならその1日を生き延びる事で精一杯だからだ。
その日を生き延びる目途が立って、初めて明日生き延びる事を考える。
そうやって生き延びるのだ。
しかし、ラルフは違った。ラルフには野望があった。
開拓者になり、活躍するという野望が。
「お願いします……返して…下さい」
だから頭を下げた。
金を返してもらえれば開拓者に登録できる。開拓者になれるのならどれだけでも頭を下げることができた。
あと少しで悲願を達成できるのだ。
「お願い…します……返して…下さい」
「これじゃあ本当にドブネズミじゃないか」
尚も笑い続けるロンや護衛。これにつられて笑う野次馬たちもいた。
しかしそれだけではない。
さすがにやり過ぎだと怪訝な表情を浮かべる者もいた。貴族たちに権力が集まる現状を不満に思うのも事実なのだ。
でもだからと言って誰もその現状を変えることは出来ない。この構図は社会の縮図なのだ。
強い者は弱い者を支配する。そして弱い者は自分よりさらに弱い者たちを踏みにじる。
そうすることで自分たちのプライドを保とうとする。最下層にいる人間、ドブネズミと呼ばれるラルフをエサにして。
残酷な現実であり、変えられない現実であった。
「お願い……ます…返して……下さい」
イリーナは怒りに震えていた。今すぐにでも飛び出したかった。だがどうする事も出来なかった。
「お願い……ます…かえし……さい」
「お前みたいなドブネズミが開拓者になるなんておこがましいんだよ!」
その瞬間、ロンはラルフが必死に貯めた金の入ったビンを地面へと叩きつけた。
ビンは乾いた音と共に砕け散り、そして地面には金が散乱する。
「あぁ…」
ラルフは絶望に満ちた表情で、砕け散ったビンと散乱した金の場所であるロンの足元へ向かう。
(ドブネズミと呼ばれる俺は夢を抱くことさえ許されないのか?一生地面を這いつくばり、下を見て生きる事しか出来ないのか?上を見上げることさえ、許されない事なのか?)
ラルフはいつの間にか涙をこぼしていた。その涙は地面にと滴り落ちる。だがそのラルフの涙も、悲しみに満ちた表情も下を向いているため他の誰かに届くことはない。
皮肉にも上を見上げる事が許されず、下を見る事しか許されないはぐれ者の立場と同じであった。
しかしそれでもラルフは必死になって金をかき集めていた…まるで砕かれた自分の心をかき集めるように。
「ドブネズミが俺に近寄るな!」
するとロンは地面に這いつくばるラルフの顔や体を踏みつけ始めた。
ビンの破片がラルフの肉に突き刺さる。苦悶に満ちた表情と共に、肉からは血が溢れ出る。
それでもラルフは死に物狂いで稼いだ金を守り続けた。この金をロンから守りたかった。触れられたくなかった。
「はぁはぁ…無様だなぁ、ドブネズミ」
ロンはラルフを踏みつけるのに疲れ、足を止める。
そこで冷静になったロンは自分のした事が少しやり過ぎたのではないかと頭によぎった。
少し冷静になった頭で下を見下ろすと、自分の足元にいる金を守り続けたラルフはピクリとも動こうとしていない。
「おい、ドブネズミ…」
すると傷だらけのラルフがゆっくりと顔を上げる。
「————!」
ロンはラルフを見て驚いていた。しかしこれはラルフの傷を見て驚いているのではない。ラルフの表情を見て驚いていたのだ。
その時のラルフは全てを諦めたような目をしていた。無感情で真っ黒な瞳はどす黒く包まれたラルフの心を表すかのようだった。
「な、なんだよ」
ロンは後ろに一歩下がる。
目の前にいるラルフを先ほどとは別人のように感じていた。
(もういい…)
ラルフの心は瓦解していたのだ。
どれだけ罵られようとも決して折れる事のなかった信念。
母親に託された「生きて」という言葉を胸に秘め、今日まで必死に生き抜いてきた。
しかし、幾度となくラルフに向けられた、敵意よりもずっと醜い人間の感情がラルフを塗り潰してしまった。ラルフは遂にそれに屈服してしまったのだ。
どこまでも暗く、どす黒い感情がラルフの心を塗り潰す。
ラルフはいつの間にか右手にビンの破片を握りしめていた。
そして人生を終える選択を取ることにした。ただ、目の前にいるロンを道連れにして。
ラルフは、ロンを見定め、ゆっくりと笑った。
ロンに襲い掛かるつもりだった。しかし、立ち上がろうとしても上手く立ち上がれない。
一方、イリーナはギルド職員の制止を振り払い、ラルフの元へ駆けつけようとしていた。
後でどれだけ周りに迷惑が掛かるか分からない。それでも自分を止められる事が出来なかった。
…しかし、そのイリーナよりも先に動いた者がいた。
その者は………シンシアだった。
シンシアはラルフとロンの間に挟むように入り込み、ラルフに背を向け、ロンの正面を向いていた。
ロンが驚きの反応をする。
「これはこれはシンシア様。今ちょうどドブネズミという犯罪…シンシア様?」
シンシアは怒りに震え、涙を流していた。
そして次の瞬間…シンシアは自分の拳で力の限りロンを思いっきり殴り飛ばした。
「ぶはっ!」
殴り飛ばされたロンは大きく吹っ飛ぶ。
弧を描くように宙を舞った。まるでそこだけスローモーションが流れるように。
それほどシンシアは加減というものを忘れていた。
目の前の光景にラルフは唖然とする。
いきなりシンシアが現れたと思ったらロンが殴り飛ばされたのだ。
思考が現実の出来事に追いつかなかった。だがその状態もシンシアの一喝によって引き戻される。
「ラルフ立って下さい!」
我に返ったラルフはシンシアを見つめる。
そしてシンシアもラルフを見つめる。流れる涙を止めようとせずただまっすぐに。
「あなたは開拓者になるのでしょう!?こんなところで立ち止まってはなりません!」
シンシアはラルフから最愛の母を奪い取った。厳しい環境下の中で生きるラルフにとって唯一の光と言ってもいい存在を。
ラルフに対して途方もない罪悪感を抱いていた。そのためラルフを見つめる時はいつも負い目を感じ、弱々しい目であった。
しかし今のシンシアは目には力が籠っていた。まるでラルフを信じていると言わんばかりに。
シンシアはこの1年間でラルフを知った。
光を失ってもなお、決して闇に埋もる事のないラルフを。
母の遺志を受け継ぎ、人間らしくあろうと懸命に生きるラルフをずっと見てきた。
シンシアはその孤高の背中を自分の目と心に焼き付けていた…誰よりも誇り高く、信念を持ったラルフを。
いつの間にかシンシアはラルフを誰よりも知る人物となった。それ故にラルフを陥れる者を許すことが出来ない。
視線をラルフからロンへと戻す。
目に力が籠っているのには変わりないが、その目は怒りに満ちていた。
シンシアは倒れたロンの首元を掴み取り、持ち上げる。
たまたま貴族という権力ある立場に生まれ落ち、その者が我が物顔で平然と権力を振りかざす。
その一方で運悪く何も持たずに生まれ落ちた者は否応なしに貧しい生活を強いられる。
しかしそれでも尚、必死に這い上がろうとする者がいる。たとえどれだけ罵られようと。
そんな懸命に生きる者を権力者が自分の気分次第で踏みにじろうとしている。弱者は一生弱者であれと言わんばかりに。
そんなことが許されてしまっていいのか?
「あなたなどに彼の何が分かるのです!?彼があなたに一体何をしたというのです!?」
シンシアは今まで生きて来た人生でこれほどまでに逆上したことはなかった。怒りで我を忘れるほどに。
護衛たちはシンシアがこの国の王女であることに加え、何より鬼気迫るシンシアの様子に近づくことさえも出来なかった。
「あなたごときが…貴族という身分に生まれただけで…」
「ひっ…」
ロンは恐怖の虜になっていた。目の前のシンシアにただ恐怖するしかなかった。そしてあまりの恐怖にロンは意識を失った。
シンシアはロンを手から離す。その離し方に優しさは微塵も感じられなかった。音と共に地面に倒れ込むロン。
「さっさとその者を連れて失せなさい!」
シンシアは護衛たちを射殺すような目で言い放った。
護衛たちはロンを引き連れ逃げるようにその場を去る。
シンシアはラルフに無自覚な悪意を向けた野次馬たちを見渡す。
シンシアの迫力に怯む野次馬たち。
「懸命に生きようとする者を踏みにじるのは、誰であろうとこの私が許しません!」
その場は静寂に包まれていた。
その中心に立っているのは、いつもにこやかに優しい笑顔を振りまくシンシアではなく、王族たる風格を纏うシンシアであった。
貴族を殴り倒したかと思えば、スラム出身であるはぐれ者に檄を飛ばすシンシア。
その場にいる全ての者は息を呑んだ。
そんな時を動かしたのはイリーナだった。
「ラルフ君!」
イリーナはラルフに駆け寄る。
「大丈夫?ギルドで手当てをしましょう」
「あ…あ…」
「大丈夫。あなたに害をなす者はこの場にはもういないわ。シンシア様が追い払ってくれたから…立てる?」
イリーナはラルフに肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせる。そして別の職員に指示を出す。
「彼の持っていたお金及び所持品を丁重にギルドまで運びなさい」
「はい」
イリーナのその力強い指示に職員は否応なしに返事をした。
「シンシア様も一応ギルドに来て頂けますか?簡単な事情聴取を」
「…分かりました」
ラルフはまだ茫然とする中でギルドへと足を運び入れた。
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