第92話


「走る事教えなくていいの? 清香ちゃんにメールで送れば、すぐに済むでしょ?」


「タイムイズマネー。時は金なりってね」


「全く世話が焼ける子ね。じゃあ、お母さんが言っておくわよ」


 陸雄は着替え終わり、チェーン付きの財布と中に入っている鍵をジャージのポケットに取りつける。


「んじゃ、二十五分くらいで戻って来るから―――」


 母親にそう言って、そのまま玄関に向かう。

 そしてドアを開けて、飛び出していった。



 陸雄が走り出し始めた時間帯。

 灰田のアパートでは星川と九衞が私服で映画を見ている。

 星川は一歩前に出て、液晶テレビで野球映画を夢中で見ている。


「おい、星川。ウチのアパートの部屋は三人はちょっと狭いから、テレビから下がってくれよ」


「うわぁ! カッコいい! やっぱラストはあのメジャーリーガーとの決着なのかな!?」


「あー……」


 疲れたような顔をした灰田が、映画にはしゃぐ星川に声をかけるのをもう諦める。


(ありゃ、完全に星川ワールド入ってんな。確かに面白れぇ映画だけど、人の話くらい聞けつーの)


 九衞は灰田の隣でくつろぎながら、遠目で映画を見ている。

 灰田が二人が帰った後で映画を見れば良いと思い、九衞に話しかける。


「強面野郎。試合と練習の後なのに疲れもなさそうだな?」


「コールド勝ちだったからな。まぁ、チンピラ野郎もザコなりに健闘してたんじゃねぇの?」


「へいへい、今日のバスでの坂崎に免じてキレるのは止めときますよっと」


 灰田が野球雑誌を読み始める。

 九衞がカルピスを飲んで、今日の試合を振りかえったのか話を続ける。


「主に錦先輩と俺様のおかげだな。チェリーと金髪のバッテリーがちょっとアレだったけど―――」


(アレって、こいつ。ほんっとに素直じゃねーのか。口が悪いのか。実力あっけど、ムカつく奴だな)


 ため息をついた灰田が野球雑誌をパラパラとめくる。


「そういや、お前。あの天才球児様を追って、この学校に来たんだっけか?」


 灰田が雑誌のスイングスピードコラムを読みながら、隣で話す。


「当然だ。錦先輩はやっぱスゲ―人だった。入部して正解だな」


「兵庫不遇の天才球児様がどんなもんかしらねーけどよ。あの人、そんなにスゲーのか?」


「チンピラ野郎。お前は今日の一回戦の何を見てたんだ? 監督とマネージャーの体か?」


 映画を見たまま九衞が話す。


「アホタレ。んなゲスい事すっかよ。お前やハインも打ってたけど、錦は全打席本塁打だろ?」


 九衞が灰田の頭に力の入ったげんこつをかます。

 その痛みに思わず雑誌を落として、頭を手で抑える。


「いってぇ! 何すんだよ! タイマンか、こらぁ!」


 頭を摩って、涙ぐんでキレる灰田に、九衞はため息をつく。


「リスペクトを込めて、錦先輩って呼べ。あの人の凄さを教えてやるから、映画に夢中で聞こえてない星川の後ろで、今日の凄さを説明してやる」


「単に野球の天才だ、とだけ評さない分析で頼むぜ。あー、痛ってぇ……コブが出来たらどうすんだよ、馬鹿」


 灰田が頭を摩る。

 九衞は胡坐をかいたまま説明する。 


「練習も含めた錦先輩のスイングスピードがどれほどの数値か知っているか?」


「あーさっき、読んでた雑誌に書いてあったな。最近の高校球児なら確か平均120キロだっけか?」


「そうだ。ちなみにプロ野球選手のスイングスピードは平均140キロだ」


「んで、錦……先輩はどんくらいあんだよ?」


「錦先輩は……俺の見た通りではおそらく最大で150キロのスピードを誇る」


「―――は?」


 九衞の淡々とした説明に灰田は言葉を失う。

 あり得ない数値だった。

 灰田は非現実感さえ覚える。

 九衞は驚く灰田を横目で見て、黙る。


「なんだ、それ? めちゃくちゃじゃねーか……だが、確かに今日の試合はちょっと遅い位のスイングスピードだったけど、投げる球に合わせてたような。でも150キロクラスを出せる高校球児なんて……」


 錦の異常さを知った灰田を知って、説明を続ける。


「加えてあの力だ。本塁打が多いのはどんな球にも即座に対応できるスイングがあるからだ」


 灰田の顔から汗が流れる。

 危険を感知した人間が出す汗だった。


「錦先輩は直感だけでなく、理論も兼ねそろえた上で打席で強打を打つことを理解している」


「そんなの……高校生が、簡単に、出来る訳……」


 何かを言おうとして、言葉を詰まらせる。

 単に長い練習を重ねただけでは手に入らない力。

 錦にはそれが出来てしまう。

 灰田はその異常さを認めたくない怖さに襲われていた。 

 その灰田の顔を見て、九衞はそっぽを向く。

 映画に夢中になっている星川を背中に説明を続ける。


「俺様もシニアの頃に最初テレビで見た時は、信じたくも無かった。自分より優れた打者なんて、そうそういてたまるかとも思ったさ」


 九衞も最初は灰田に近い感情だったのだろう。

 自分以上の打者を認めたくないという気持ち。

 それが現実では存在する。 


「分析していって―――だんだんその凄さの正体が解り始めてきた時には、俺様も最初は言葉を失った」


「…………」


 灰田が黙り出す。

 絶望さえ覚えていた。

 投手の自分が錦に勝てるビジョンが映らない。

 もし敵であったなら―――。

 灰田はゾッとする。

 九衞の説明は無慈悲に続く。


「録画もしてたし、ネットの試合動画も何度も見た。実際の練習と今日の試合を見て、本塁打勝負では俺は後れを取るとさえ思ったさ」


 九衞が灰田の肩に手をポンっと置く。

 灰田がビクッとする。

 そのまま九衞に恐る恐る顔を向ける。

 その灰田の表情は、信じたくもないっといった表情だった。

 九衞が真っ直ぐと灰田を見て、最後の言葉を告げる。


「あの人には投げる球の配球さえロジックで解って来るだろうな。他にも色々あるが―――これだけは確かだ、あの人は打者として強力であり、天才だ。兵庫県においてはな」


 その時だった。

 カキ―ンと言う金属音がテレビで流れる。

 星川が野球映画の名シーンを見て、喜ぶ。


「灰田君、九衞君! 今のメジャーリーガーのアーチ見ました? 映画とは言え、凄いですよ。まさに天才、天才だ!」


 天才。

 灰田はこの日ばかりはこの言葉で片付けられる錦の異常性に体が震えた。

 そんな言葉で片付けられない、片付けるしかない怖さ。

 投手として挑んでも勝てない絶望感をヒシヒシと感じていた。

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