第6説 歌

  

 彼は歌がすきだった。機会も時間も立場もなかったので、人前で歌うことはなかったが、ひとりの時、彼の唇からはしばしばリズムがこぼれ、メロディーが流れだした。

 自分には絵の才能があると彼は考えていたので、仕事の合間の乏しい時間を絵の研鑽にあてていた。しかし、ラジオから流れる歌を一度聞けば口ずさめたし、手に箸でも鉛筆でも持てば自然にリズムをとっていた。

 たまに出かける酒場で歌うと、見知らぬ客が水割りのグラスをおくってよこした。

 ある時、ふと彼は気づいた。それは予感だった。歌に打ちこめばものになるかも知れないと。

 しかし、彼に何ができたろう。時間は切りつめられていた。絵のための時間すら生活から盗んできているのだ。

 この欲求は暮しに合わない。彼はそう結論づけた。

 この世ではたった一つの事に打ちこんでこそ成功するのだ。一将功成って万骨枯る。端折った多くのものの果てに、たった一つの花が咲く。彼はそんな話を幼い頃からよく聞かされてきた。そしてそれは現在も真実だと思われた。つまり、あれもこれもは、世の人の納得しないぜいたくな欲求なのだ。

 酒場のカラオケが、彼が歌のために用意できたすべてだった。月に一度か二度出かける酒場。その時だけ葬られた彼の一部は彼となって甦った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る