第5説 午前九時の太陽

 

 「青年は午前九時の太陽だ」という言葉がある。「青年の船」というもので中国に行ったとき、あちらの人が、歓迎のスピーチのなかでよく口にした言葉だ。この言葉を聞くたびに、私は面映ゆい、気恥ずかしい思いをした。午前九時の太陽と言えば、今から中天にかかろうとするそれではないか。私にはすぐ青天の一角に眩しい光を放つものが浮かんだ。それはますます輝きを増して、天央に君臨しようとしている――ウソだ、と思った。私がそんな輝かしい存在であるはずがなかった。しかし、一方で、なるほど本来はそうあるはずなんだなという思いも抱いた。青年を昇る太陽にたとえる感覚が分らないわけではなかったから。少々くすぐったい感覚ではあったが。――私はこの言葉のなかに、大陸的というか、大らかないたわりのようなものを感じていた。それが社交辞令の一つだとしても口にする人々の顔は生真面目なものだった。そこには確かに人間の息吹が感じられた。


 この言葉を私はレストランの床の上で思い出した。私は三十を過ぎており、ウェイターの白衣を着ていた。店は閑で、入口の前の床を私は行きつ戻りつしていた。その時背後でシャーという音がした。振り向くと、ウェイトレスが、全面ガラス張りになっている側面のブラインドを上げたところであった。開けた視野の中央で太陽が眩しく燃えていた。明るい陽光が室内を一時に浸した。肘に当たるとぬくかった。私はなぜブラインドを上げたのだと思った。客が入って来れば眩しがるだろう。ウェイトレスは輝く太陽に背を向けて去っていった。次の瞬間、私は了解した。この太陽は間もなく沈むのだ。そして、例の言葉を思い出したのだ。

 この陽の光には、客に席を変えさせるような力はない。たとえば道を歩いている人を日陰に追いやる力は既にない。光が押す――光が一つの物理的な力として、人の頭を圧さえつけ、人の体をはねのける――そのようなことはまさに頂点にむかう、または頂点にある太陽のみに起こり得ることではないか。午後五時の太陽は、それがいかに眩しく輝いても、沈みゆく陽であることを人々に見抜かれている。青年は午前九時の太陽、これは酷な言葉だと私は思った。中天を過ぎた者には。人事を自然現象にたとえた言葉は、多くの場合抗弁できない的確さをもつが、その的確さが無慈悲さとして貫徹する場合がある。

 三十分も経たぬうちに陽光は光と熱の大半を失っていた。太陽は最後の力をふりしぼるように赤く大きく膨らんだ。しかし今では目を細めずにはっきりその輪郭を見ることができた。やがて、山の稜線に呑みこまれるように沈んでいった。

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