七十六話 片桐の覚悟

 ラーテルたちが飲んでいたミツツボアリを見る。よく見ると、神矢たちが見たものよりも色が青かった。

「林さん、あのミツツボアリから蜜酒がとれるってことでいいんですよね」

「……あ、ああ、そうだ」

 蟻が体内で酒を生成するなど聞いたことがない。毎度のことながら、この地底世界は色々と常識を覆してくる。

 ミツツボアリに蜜を運んでいる働き蟻たちの行進をみる。幾つかの列が出来ていて、その一つが樹上になっている黄緑色の果物に群がっていた。地面にも幾つかの実が落ちていて転がっている。

 その実に見覚えがあった。アフリカにあるマルーラという果実に似ていた。

 以前、バラエティ番組で、マルーラは天然アルコール果実であることが紹介されていた。現在日本では、寄生虫がいるとして輸入禁止となっている果物だ。

 マルーラは、樹上で、もしくは地面に落ちた後に発酵し、アルコールを生成する果物である。動物たちはこれを食べて酩酊になったりすると説明があった。

 ミツツボアリがこのマルーラの果肉を体内に取り込むことで、蜜酒という特殊なものが生成されたのだろう。そして、それをラーテルが飲んで、酩酊状態になったということか。

 などと、状況を分析してしている場合ではない。

 ラーテルベアたちが、酔ってふらついているこの隙に逃げなければ。声をみんなにかけようとしたその時。

 突然、友坂の悲鳴が聞こえた。彼女は後ろの方で離れて見ていたのだが、その近くにもう一頭のラーテルベアがいた。

「と、友坂! 早くそこから逃げろ!」林が声をあげた。

 ラーテルベアは彼女の直ぐ前にいる。とても逃げられる距離ではないし、彼女も足が竦んで動けないようだった。

「や、やだ……。た、助けて」

 ラーテルの顔が友坂の顔に近づき、そして、彼女の顔をベロリと舐めた。

「ひいぃ。や、やめて、あたしなんか食べても美味しくないわよ……」

 腰が抜けたのか、その場にへたり込んでしまった。

 ラーテルベアは友坂の顔を舐め、そして、身体の匂いを嗅いでジャージの上からベロベロと舐めまわし始めた。

 ……そう言えば、先程友坂はジャージに蟻の蜜をこぼしていた。それを舐めているのだろうか。

「ちょ、ちょっと、く、くすぐったいってば……。あ、そこはダメ!」

 胸の辺りを舐められて、友坂の胸の膨らみが大きく動く。

「……おお」林と片桐が、舐め回されている友坂に見入った。

「アンタたち! 見てないで助けてよ!」

「そ、そうは言ってもどうしたらいいんだよ!」

 泣きそうな友坂に、戸惑う林。

 片桐が何やら決意したかのような顔つきになり、先程蜜を入れたペットボトルを取り出して、全身に塗りつけた。

「おい、お前、何してんだよ! そんなことしたら!」

 蜜の香りが漂い、友坂を襲っていたラーテルベアが片桐を見た。

「俺があいつを引きつける! その間にお前らは逃げるんだ!」

「か、片桐、お前……。よし、わかった。お前の死は無駄にしない! 俺たちは生きて戻るぞ!」

 林が涙を拭う仕草をしてそんなことを言ったが、神矢と九条は彼を犠牲にするつもりはない。

「片桐くん、自己犠牲の精神は、俺たちが後味悪くなるし迷惑なだけだからな」

「そうですよ。それに、別に身体に蜜を塗りたくる必要もないでしょう。蓋の空いたペットボトルを投げれば、勝手にこぼれて匂いも広がるし」

 言われた片桐は目をパチパチさせて、口もパクパクさせて言葉を無くしていた。

「お前らは鬼か! 片桐がせっかく覚悟を決めて身を張ろうとしてくれたのによ! つーか、もう身体に蜜を塗ってしまったんだからどうしようもないだろ!」

 林がフォローしてくるのを、神矢は冷めた目で見てため息をついた。

「片桐さん、ジャージを脱いでラーテルベアに投げてください。それで、とりあえずは時間が稼げます」

「お、おう」

 片桐は言われた通りにジャージを脱いで、ラーテルベアに投げた。ラーテルベアはジャージに歩み寄って、ベロベロと舐め始めた。

 その間に涙目の友坂がこちらへと這い寄ってきた。

 県大会にも出た足が自慢らしいが、腰が抜けてはどうしようもない。

「うう、ごめんなさい」

 九条が友坂に肩を貸して立ち上がらせた。

「今のうちに逃げるぞ」と、九条は周囲を見回して言葉を失った。

 いつの間にか、酔いどれラーテルベアたちに囲まれていた。

「……はは、今度こそ詰んだな」林が泣き笑いの顔になった。

「くそ、短い人生だった……」片桐も肩を落としている。

「……ゴメン。結局、わたしが足引っ張っちゃった。あの世で会ったらこの身体好きにしちゃって」

 三人は既に諦めていたが、神矢は諦めるのはまだ早いと思っていた。

 一応警戒しつつ、ラーテルたちの様子を伺う。

 ラーテルたちは威嚇するわけでもなく、ただ興味深そうに神矢たちを見ているだけだ。やはり、敵意は感じられない。

 前回もそうだったが、やはり、地上のライオンだろうが象だろうが喧嘩をふっかける凶暴なラーテルとは違うようだ。

 やがて一頭だけが神矢たちに背を向けて、歩き出した。

 周りのラーテルたちは、神矢たちを追い立てるように動き出す。

 神矢たちは自然と、ラーテルたちに囲まれて移動する形になった。

「え? え? え?」

「何だよ? どこに連れて行くんだよぉ?」

 怯えた声で戸惑う友坂と片桐。

「……またこのパターンかよ。いい加減にしてくれよ」

 林が諦めたように呟いた。

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