第84話 悪臭とがんばる幼女

 磨りガラスの窓にシルエットが浮かび上がると、開錠する音の後すぐに扉は開いた。


 コンの忠告もあり、俺達は何とか横のトイレに駆け込むことで、恐らくこの空間の関係者であろう人物との鉢合わせを回避することに成功した。


 トイレに扉は無く、解放された入口から入って少し進むと二つずつ程大小用を足す為の便器が備え付けられている。


 とりあえず、俺達はトイレの壁に背を張り付けて、今しがた出てきた人物の様子を伺う事にした。


「おい、は捌けてるんだろうな?」


 ドスの効いた男の声だ。


 声の質からしてまだ若いが、それなりに貫禄がある。


「はい、今日も客は満員、の売れ行きも上々で今回のイベントも大成功かと思われます」


「ははっ、しっかしよくあんなモン食うわな!これまで色んなブツは見てきたが、あんなモン見た事ねーよ。何せ…」


 もう一つの声には聞き覚えがあった。


 俺と樹は飲み屋で聞いた声…政次さんの声だと確信していた。


「四季ちゃん、この声って…」


「ああ、間違いない、政次さんだ。というか、重要そうな事言ってるぞ…コン少しだけでいい、姿を消して何の話をしているか聞いて来て欲しい…頼めるか?」


 どうやら出てきたのは二人の様だが、声だけで判断するしかない。


 今出て行くと間違いなくご対面ということになるのだが、それは避けた方が良いだろう。


 トイレから聞き耳を立てつつ、コンに合図する。


 コンは俺の顔を見上げると、一度コクリと頷くと、すぐに姿を消した。


「頼んだぞ?」


 と、短く言うと一瞬服の裾がぎゅっと引っ張られた気がしたが、恐らく気のせいだろう。


 壁に背を付けたまま、注意深く様子を探っていると、次第に彼らの足音は遠ざかり、フロアの方へと消えて行った。


 フロアの方からは入れ違いに、他の若い二十代くらいのカーキ色のシャツを着た男が一人トイレの方へと歩いて来る。


 どうやら酒も飲んでいるのか、顔を赤らめふらふら千鳥足でこちらに向かって来る。


 俺と樹は何食わぬ顔でトイレから出ると、なるべく目を合わせない様にしてすれ違う。


「あ、すみません…」


「………」


 男は一瞬無言でこちらを一瞥すると、そのままトイレに入って行った。


 すれ違い様に確認した男の頬は痩せこけていた。


 痩せているというよりもどちらかと言えばやつれていると言った方が正しいかもしれない。


 肌はカサカサと乾燥しているのか、皮膚の表面はあれだけの熱気の中から来たというのに汗一つかいていなかった。


 そして一番特徴的だったのは、その目だった。


 眼窩は窪み、目の下には二センチはあろうかという大きな黒いクマが出来ていて、瞳孔は大きく開き充血しており、すれ違いざまに一瞥するその視線は、ギラギラと獲物を狩るハンターの様に鋭く眼を光らせていた。


 明らかに、異常者。


 街でもし見かけたらそう思うだろう。


 男の風体は正にそういった容貌だった。


 すれ違い様に男の身体から、あのフロアに満ちた煙と同じ、果実が腐った様な甘酸っぱい豊潤な香りがしたのだが、胸ポケットに電子タバコとそのカートリッジが入っていたのが見えたので、恐らく彼も例の薬を服用していたのだろう。


「ねえ、四季ちゃん…?」


「おう、どうした?」


「コンちゃんが戻ってくるまで、ここで待つのかしら?」


 と、トイレのある異空間風な通路で立っている俺に樹はそう問いかける。


「…まあ、この奥の方も気になるが、コンが戻って来るまではここに居よう。どのみちフロアだとコンはきついだろうからな…」


「分かったわ。まあ、さっきの彼、随分とやつれていたけど…薬の副作用とかなのかしらね?」


 俺がそう言うと、樹は頷き、次いで小声で問いかけてきた。


「…ああ、もしかしたらそうかもしれないな。詳しい事は分からないが、きっとそういう副作用もあるのかもしれない。俺達もなるべくはフロアに居ない方が良いかもしれないな。煙を吸うと頭がくらくらするからな…」


「それもそうね…。確かにここはまだ煙が届かないみたいだからまだましかもしれないけど、フロアに居た時は私も少し気分が悪かったけど、今は幾分かはマシになったかも」


 紫煙燻ぶるダンスフロアには極力滞在したくないというのは俺達皆共通見解だったみたいだ。


 樹が俺の意見に同意すると、一度腕を組み通路の壁にもたれかかる。


 俺も反対側の壁にもたれかかり、腕を組むと煙の影響について少し考えてみる事にする。


 俺の場合は多少不快なくらいで、煙の影響も普通のタバコの煙を吸った時くらいの影響しかないのだが、樹は先程より明らかに顔色が良くなっている所を見ると、体質なのか俺にはそこまで影響はないのかは分からないが、樹は結構影響を受けやすいらしい。


 後忘れていたが、門倉さんは大丈夫だろうか?


 あの人の事だからきっとうまくやっているのは間違いないのだが、やはり一緒に来た仲間である以上少し心配にはなってきた。


 コンが戻ってきたら樹に預けて門倉さんの様子も見に行かないといけないな。


 と、そんなことを考えていると、俺の服の裾をグイグイと引っ張る様な感触と共に、先程までそこには存在していなかった狐耳の幼女ことコンがしかめっ面で立っていた。


「えほっ、えほっ…うえ…気分最悪なのじゃ…さっき食べたメープル味が逆流しそうなのじゃ…えほっ!」


 コンはオッサンみたいな咳をして、涙目になりながら目を擦っている。


 オッサンみたいな咳のせいで、せっかくの可愛い顔が台無しだが、きっとそれ程きつかったのだろう。


 俺はそんな環境に行かせてしまった申し訳なさと、はやる気持ちを抑えつつ、一仕事終えたコンを労う。


「よくやったコン、話は聞けたか?」


 と、頑張ったコンの頭を乱暴にわしゃわしゃと撫でてやると、コンは最初こそ少し抵抗する素振りを見せたのだが、嫌がってはおらず、やがて目を細めて身を委ねてくる。


「うぅ…その、髪が乱れるぅ…えほっ…じゃが、何を言っているかはよく分からんかったが、例のアレとやらの話をしておったぞ?」


 コンは人差し指をピンと立てて、俺達の間に立つと、樹と俺の顔を交互に見渡して、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「その、例のアレ…とやらを多量に摂取すると、次第に意識が無くなり、酔っぱらっているような状態になるとか…」


「それだけか?」


 そこまでは知っている。


 事前に調べたニュース記事にはそう書いていた。


 俺は焦りから、コンの肩を両手でがしっと掴むと、コンはビクンと一瞬身震いする。


「…そ、その…まだ続きはあるのじゃが…四季、その痛いのじゃ…」


「あ…すまん…」


 思った以上に力が入っていたみたいで、コンは一歩後退り一度胸に手を当てると、瞳を閉じて呼吸を整える。


「その、続けるぞ?」


「ああ、すまん頼む…」


 再びコンが話始めると、樹と俺は静かにコンの話に耳を傾ける。


「えと、使い続けると最終的に自分の意識がなくなって、リモコンで動くゾンビ?になるのに馬鹿な奴らだ…と言っておったのじゃが…どういう意味じゃ?」


 と、コンは首を傾げて俺達に問う。


「リモコンで動く…ゾンビ…そう言っていたのか?」


「うむ、音がうるさくて聞き取りづらかったのじゃが、間違いないぞ」


 コンはそう言うと、腕を組みまた首を傾げる。


「のう、樹よ…ぞんび…とはいったいなんじゃ?」


 と、無邪気に樹にそう問いかけるコンだったが、樹は樹で眉間に皺を寄せて何かを考え込んでいる様だった。


「…樹?」


「あ、ああ…ごめんなさい、少し考え事をしていたの。ゾンビって言うのはね?」


 コンが樹の側に近寄って下から覗き込む様に樹を見上げると、漸く樹はコンに気が付いたのか、しゃがみ込んで視線を合わせる。


 ポケットからスマホを取り出し、ゾンビという言葉を検索すると画像を表示させてそれをコンに見せていた。


「ゲームや映画の世界では、人間が病原菌に感染するとこんな感じになる…っていうのがお約束ね。でもそれは映画やゲームの話であって、現実にこうなってしまう事は無いわ」


 と、樹が表示させた画面を興味深そうに覗き込むコンだったが、画像が表示された途端露骨に顔を顰め、視線を反らす。


 その際に僅かに震えていたのを俺は見逃さなかった。


「そ、その…に、人間はこんなになってまで動き回るのか…?お、恐ろしい…」


 と、何とも言えないボケをかましてくれたコンだったが、あくまでお話の中だけだと、しっかり説明してやると、納得したのかいつの間にか震えは治まっていた。


「ま、まあ、神じゃし全然怖くはないがの?その…しかし、ゾンビになる…とは、やつらは一体何を考えておるのじゃろうか…?」


 と、コンが改めて俺の方を向き直ると、そう問いかける。


「ああ、まあ薬を使ってリモコン…人を操って…何か悪事を働こうとしてるってとこだろうけど…実際そう上手くいくのか…?」


 俺がそう言うと、コンは俯き腕を組み、少しその場で考え込む。


「…できなくは、ない」


 やがてゆっくりと口を開いたコンは、確かにそう言ったのだった。


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お狐様の御使いー神様幼女と冴えない俺のほのぼの生活のはずが!?ー 八雲ややや @yayaya8901

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