第9話 母は強し、夜は暗し(1)

 コンに張り手を貰ってその場に崩れ落ちた俺は、何とか脱衣所の籠を掴んで立ち上がり、熱を帯びて腫れている頬を撫でて悪態を吐く。


「いや…あの…俺何か悪い事したか?」


 確かにタイミングは最悪だったかもしれない。


 しかし、それは不可抗力であるといえよう。


「っててて…コンのやつ、思いっ切り引っぱたきやがって…」


 洗面台に備え付けの鏡で顔を確認すると、冷水を出して手で掬い取り、ほんのりと赤みを帯びた紅葉型の痣が見事に浮かび上がる左の頬を冷やす。


「はぁ…」


 と、息を吐いてまだ痛むその頬をもう一度撫でる。


「痛いが…まあ、あの様子だと機嫌も直ったのか…?どうやったかは知らんが、流石熟年二人組だ…正直助かったな」


 濡れた身体をタオルで拭き、使い終わったタオルを洗濯機にぶち込む。


 着替えとして渡された半袖のTシャツに袖を通すと、ふんわりと香る柔軟剤の良い匂いがした。


 下はジャージの様な生地の短パンで、熱帯夜になりそうな今日みたいな暑い日には丁度良かった。


 着替えを終えて、スマホを持って脱衣所の電気を消し台所へ戻ると、コンはまだ警戒する様な視線をこちらに向けて、ばあちゃんの背に隠れていた。


「あのなあ…鍵かけて入ってるんだから、そっちが悪いだろうに…」


 そう言うと、母さんが「ごめんなさいね、私が頼んだの」と、謝罪してきた。


「そうなのか?」


「ええ、すっかり機嫌も良くなったみたいだから、湯冷ましに丁度いいかと思ってコンビニでアイスクリームでも買ってきてもらおうかと思ってね」


 なるほど、そういう事か。


 恐らくアイスクリームという甘味でコンの機嫌を取ったのか、はたまた熟年コンビの包容力が機嫌を取り戻したのか。


 どちらにせよ、凄まじい手腕だ。


 あの状態のコンを上手く宥める事が出来る辺り、流石子育てを経験しているだけの事はある。


 その辺のノウハウを伝授してもらう必要があるな。


 と、思案しているとばあちゃんがコンの背中を前に押し出し、ニコリと目を細めてほほ笑むと声をかける。


「ほら、コン様。四季と一緒にアイスクリームを買ってきて下さいな。あと、樹さんにもさっきの言葉をちゃんと伝えてあげるのですよ?」


 前に押し出されると、コンは最初こそもじもじとしてこちらに目線を向けようとしなかったが、ばあちゃんがダメ押しとばかりに「ほ~ら!」と、背中を押すと、こちらに近寄ってきて、自然と上目遣いになっていた。


「そ、その…さっきはすまんかった…のじゃ。いきなりの事で驚いてしまったのじゃ…ごめんなさい、なのじゃ…」


 ピンと尖った両耳と、フサフサでもこもこの尻尾が垂れ下がり、不安げな瞳でこちらを覗き込んでくる。


 正直に思ったことを申し上げると、可愛すぎてこれだけで大抵の事は許してしまえそうになる。


 それくらいの破壊力が、コンの上目遣いには込められていた。


 あまりの気恥ずかしさに、瞳を直視することが出来ず、ヘタレの俺は目線を反らし、赤く張れた頬を人差し指で掻きながら答えた。


「まあ…その、俺もごめん。急に入ってくるとは思わなかったからさ…その、とりあえず、アイス買いに行くんだっけか?」


 俺がしどろもどろになりながらもそう言うと、先程まで眉を八の字にして不安げな眼差しを向けていたコンの顔がパーッと花が咲くように明るくなると、ニパッとほほ笑む。


 尻尾をブンブンと横に振り、垂れ下がっていた耳がピンと伸びて復活し、そのままの笑顔で言った。


「そうじゃ!四季、あいすくりーむを買いにこんびに?とやらに行くのじゃ!」


 コンがそう言うと、ばあちゃんは「そういう訳だから皆の分頼んだよ」と、財布から千円札を一枚手渡してくれた。


 コンはそれを不思議そうな顔をして眺めている。


「のう、四季…それはなんじゃ?」


 と、目を丸くして口元に手を当てて首を傾げると質問してくる。


 なるほど、お金を知らないのか。


 やはり久那妓さんの言った通り”経験が浅い”だな。


 コンは思った以上に人間の社会というもに、面識がないようだ。


 基礎的な事から根気良く教えていく必要があるな。


 俺は室内を見渡すと、丁度視界の中に首から下げられる手頃な小物入れを発見した。


 何かのキャラクターグッズだろう。


 毛がフサフサの白色の犬…ポメラニアンだろうか?を模した形の小物入れだ。


 それを手に取ると、中身が入っていないことを確認するために、チャックになっている部分を開く。


 外側は毛で覆われていてもこもこと膨らんでいるが、チャックの内側は白いレースの様なざらざらとした手触りの生地でできており、綿が詰まっていて半分ぬいぐるみの様なそれは、大人の手のひら位のサイズで小銭を入れるのには丁度良いサイズだった。


 深さは大体人差し指の付け根くらいまでの深さで、中身は空っぽで何も入っていなかったので都合が良い。


 俺はコンの質問を一旦遮り、母さんに尋ねてみた。


「母さん、これ使ってもいいかな?」


 俺の意図を察してか、母さんは即答で「ええ、大丈夫よ使って頂戴」と、返してくれた。


 俺は返事を受け取ると、小物入れをコンの首にかけてやる。


「ん?なんじゃ…?」


「こいつはポチ丸。名前は俺が今適当に付けた。お前の相棒だ。大事にしてやれ」


 と、頭にクエスチョンマークを浮かべているコンに、さらに渡されたお札を広げて見せた。


「んでこれは千円札って言って、人間はこういうお金を使ってコンの好きな稲荷寿司やお菓子…今から買いに行くアイスクリームなんかと交換して、生活してるんだ」


 と言ってコンに千円札を手渡すと、コンはそれを広げて眺めたり、端っこを持ってひらひらと振ってみたり、クンクンと鼻を鳴らして臭いをかいでみたり、ペロリと舐めてみたり…あらゆる感覚を使ってそれを確かめていた。


 流石に、舐めた瞬間はちょっとだけ顔をしかめていたが、結局飽きてしまったのか今は光に透かしてお札を眺めていた。


「うお!なんじゃこれ、人の顔が浮かび上がったぞ!妖術か!?」


 そんな様子に皆自然と笑顔になり、母さんが答えた。


「ふふっ…違うわ。それはとても薄いインク…墨みたいなもので、書いてるのよ。だから光に当たると浮かび上がるの」


 母さんが説明すると、コンは合点がいったかのように片方の手を握り、もう片方の手の上にポンと落とした。


「おお!なるほど!だから変な味がするのじゃな!人間とは奇妙なものじゃな…わしならこんな紙切れよりも、ハルの稲荷寿司の方が貰って嬉しいぞ?」


 コンの尺度では、やはりお金よりも食い気なのだろうか。


 その様子に思わず苦笑してしまうが、今はまあそういうものだと思って貰えればいいだろう。


「まあ、コンはそっちのがいいよな。でも、これは大事な物だからこの中に入れておくんだぞ?もし無くしたら…アイスクリームと交換ができないからな!」


 敢えてふざけてそういう言い回しをすると、コンは一瞬ピシッと石の様に硬直すると、わなわなと小刻みに体を震わせる。


「し、四季…分かったのじゃ。こ、これは大事にしまっておくのじゃ…ポチ丸ぅ~…しっかりとこれを守るのじゃぞ~…良いな?」


 余程アイスクリームに興味があるのか、大人しくコンは手にしていた千円札をぎゅっと握りしめ、しわくちゃになってしまったそれを、フサフサの小物入れの中に大事に仕舞う。


「ふ、ふん…!これで大丈夫じゃ!無くさないのじゃ!」


 と、胸元の小物入れを抱きしめて意気揚々と胸を張る。


 しかし、チャックが閉まってない事に気付いた俺は小物入れへと手を伸ばし、しっかりと閉じた。


「ほら、口が開いたままだと飛んでっちゃうだろ?ちゃんと閉めとくんだぞ?」


「はいなのじゃ!」


 両手で抱えた小物入れを握りしめ、準備万端な様子で自信満々に返事をするコン。


 その様子がおかしかったのか、かあさんとばあちゃんは終始ほほ笑んだままだった。


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