【02】逆さまの幽霊
掃き出し窓の向こうでは小雨がぱらつき始める。
その県営団地の一室は薄暗く、重苦しい空気が漂っていた。
「……こんな、ご時世にわざわざお邪魔して、本当に申し訳ありません」
リビングのソファーに腰を落ち着けた茅野循は他所行きの声音で言った。
御堂静香は「いえ」と首を横に振り、ダイニングの方からお盆をたずさえて戻ってくる。
一方、桜井梨沙はすでにローテーブルの上にあった菓子箱の中の米菓を手に取り、パクついていた。
それを尻目に茅野が再び質問を発する。
「それで、息子さんの動画をご覧になられた事は?」
静香は苦笑しながら、お盆の上のティーカップをテーブルに並べてゆく。
「それが、私、そういうのはさっぱりでして……。お手紙でも書いた通り、インターネットとかパソコンとか……全然で」
そして、
「あの……息子は、どうなんでしょう……」
「どう、とは?」
茅野が首を傾げる。
「私、さっきも言いましたが、こういうのはさっぱりで……うまくやっているのでしょうか?」
「話題にはなっていますね」と、茅野が答えると静香は、ほっとした様子で微笑み、ソファーに腰をおろした。
「そうですか……よかった。うまくやっているんですね」
そこで、桜井と茅野が何とも言えない表情で顔を見合わせた。
静香は
「何か?」
「いえ……」
茅野が首を横に振り、桜井はそ知らぬ顔で再び米菓に手を伸ばした。
「……それで、お話というのは?」
静香が本題を切り出す。
すると茅野は落ち着いた所作でティーカップに口をつけてから、話を始めた。
「そうですね。まずは御堂さんに我々は謝罪しなければなりません」
「謝罪?」
眉をひそめる静香。
「ええ。実は私たち、あの黒猫坂の家へと無断で立ち入りました。まずは、その事についてお詫びしたいと思います」
「ごめんなさい……」と桜井も菓子を頬張る手を止めて頭をさげる。
「えっ……立ち入ったって……どうして?」
「実は知り合いの飼い猫が行方不明になりまして……それで、黒猫坂のあの家の庭先で似た毛並みの猫を見たという目撃証言があったので、やむを得ず……お許しください」
「まあ……」
よい気はしなかった。背筋がざわりとした。何か大切な事を忘れているような気がした。
しかし、それが何なのか思い出せない。
「……そんな謝罪のためにわざわざここへ?」
と、問いながら静香は疑問に思った。
二人の少女は、この団地の住所をどこで知ったのか。
そう訊こうとする前に、茅野が先に声をあげる。
「そうですね……強いて言うならば、単なる
「答え合わせ……?」
何が言いたいのか解らない。静香は眉をひそめる。
しかし、茅野は
「そう。答え合わせ……
その瞬間、静香の心臓の鼓動が跳ねあがる。
そして茅野は悪魔のように微笑み、言葉を続けた。
「私たちは、猫を探してあの家に入り込み、そして、知ってしまったのです。過去にあの家で何があったのかを……」
「あなたは何の事を言って……」
息苦しさを覚え、静香は言葉を詰まらせた。
対する茅野は、まるで世間話でも始めるかのような軽い口調で問う。
「聞いていただけますか?」
静香は曖昧に頷き、その話に耳を傾ける事にした――
茅野循は、黒猫坂の家に立ち入った理由を“行方不明になった知り合いの飼い猫を探すため”などと宣ったが、当然ながら嘘であった。
心霊スポット探訪である。
事の発端は二〇二〇年五月十八日。
あの牛頭町の幽霊騒動の熱も冷めやらぬ、その日の深夜であった。
桜井梨沙は食後の豆大福とほうじ茶をいただきながら、自室のちゃぶ台に置かれたノートパソコンと向き合っていた。
その画面のビデオ会議アプリでは茅野循と、魔女じみた女が不気味にほくそ笑んでいる。
近藤由貴菜であった。
彼女とは、例の八女洞の一件以降も、ときおりオンラインでやり取りしていた。
そして、この日は更にもう一人。
眠そうな目をしたショートボブの女が緊張した面持ちで、ぺこりと頭をさげた。
『……
『ゼミの後輩でね。彼女があんたら好みの話をしてくれるってさぁ……』
いつもの調子で、いひひひ……と笑う近藤。その背後には見た事のある和モダンな空間が広がっていた。
グリーンハウスの一〇三号室らしい。
そして野添の方も、雰囲気はずいぶんと異なるが、その部屋の間取りや広さは近藤の自室と同じだった。
どうやら、彼女もグリーンハウスの住人らしい。
『……先輩から、貴女たちに是非とも話して欲しいって』
何でもゼミのオンライン飲みで、ふと小さい頃の体験談を話したところ、近藤に“そういった話に興味のある友人がいるから是非とも話を聞かせてやって欲しい”と、しつこく
『まあ、別にいいんだけど……貴女たち、ウチの大学の生徒じゃないよね? 高校生?』
『ええ』と茅野。桜井も「そだよ」と気軽に答え、豆大福をもぐもぐとやる。
『近藤先輩と、どういう知り合いなの?』
『それを説明すると長いのだけれど、小松さんを介して、近藤さんとは知り合ったわ』
と、茅野が嘘とも本当とも言えない説明をすると、野添は『ああー』と視線をあげて得心した様子で頷く。
『小松って、小松梓さん? バンドやってる……』
「そう」と桜井。ほうじ茶をくびりとやり、口の中に残った甘味を押し流した。
『まあ、よく解らないけど、近藤先輩、変わってるから面倒臭いでしょ?』
近藤の知り合いは全員これを言うな……と、桜井は苦笑して「おはぎをくれるし、いい人だよ」と一応はフォローしておいた。
そして、茅野が話を本題に戻す。
『それで、えっと、私たちの興味を持ちそうな話というのは?』
『ああ、そうそう。中学生のときに見た幽霊の話なんだけどね……』
「幽霊……」と呟き、桜井は茅野と画面越しに視線を合わせた。
野添は話を先に進める。
『私の実家の近くに“黒猫坂”っていう坂道があってね。その
「黒猫坂屋敷……何か割りとインパクトのある名前だけど聞いた事ある? 循」
桜井が問うと、茅野は首を横に振る。
『そもそも、そんな地名すら初耳ね』
すると、野添が小さく笑う。
『ああ、本当は“
『なるほど。その黒猫坂屋敷で、貴女は幽霊を見たと。それは何年前の話ですか?』
茅野が問うと、野添は視線を上にあげて記憶を手繰る。
『えっと、確か小五の頃だから八年前かな? 夏休みの終わり頃』
『では、幽霊はどんな姿をしていましたか? 出現時の状況などを詳しく』
『んー……』
野添は少し考え込んで言葉を選んでからぽつりとその言葉を口にする。
『逆さまの幽霊』
『はい?』と茅野が聞き返すと、野添は言い直す。
『その幽霊は天井に立って、逆さまになってたの』
「逆さま……」
これは今までにない
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