【07】現地調査


 ――ソレイユ黒狛四〇四号室内にて。


 襖が開けられて、暗い押入れの中に蛍光灯の光が射し込んだ。

 両手両足を縛られて監禁されていた水城真澄は、眩しさに顔をしかめて、おびえた表情で視線をあげる。

 すると、押入れの戸口に立つ人影が瞳に映り込む。逆光で表情はうかがえない。

 水城は歯をガチガチと鳴らし、両目一杯に涙を溜める。当初はどうにか必死に脱出しようと抵抗を試みていたが、既に逆らう気力は欠片も残っていなかった。

 度重なる“お仕置き”の苦痛が、すっかり肉体に刷り込まれ、精神と肉体を萎縮いしゅくさせているのだ。

 その怯え震える頬に右手が添えられる。

「何を泣いているの? ご飯の時間だよ?」

 そうして、水城の両手にかかったロープがほどかれる。

「ご飯の後は、お風呂だよ? 今日は、お漏らししていないみたいだね。偉いね……」

 クンクンと鼻を鳴らす音。その人物の口角がニヤリと釣りあがり邪悪な笑みを形作る。

 そして水城の両足を拘束していたロープがほどかれようとした瞬間だった。

 水城の瞳がぱちり、ぱちり、と瞬く。すると、その長いまつげの尖端に小さな水滴がまとわりつき、溢れた涙が頬をゆったりと伝う。

「ああぁ……泣かないで……泣かないで、真澄……真澄……」

 まるで夜泣きする赤子に言い聞かせるような声音だった。

 その人物は水城に向かって優しく語りかけながら、頬を伝った涙を親指ですくい、口にふくんでちゅばちゅばとしゃぶり始める。

「ひひっ、真澄の味……。いひひっ……」

 水城の頬に蛞蝓なめくじのような舌が這う。

「ひぃっ」というかすれた悲鳴があがった直後だった。

 玄関からインターフォンが鳴り響く。

「真澄ぃ……真澄ぃ……」

 しかし、その人物は無視して水城にのしかかりながら鼻息荒く、その涙をベロベロと舐め回し続ける。

 再びインターフォンが鳴った。

 そこでようやく、顔をあげて「ちっ」と舌打ちをした。

 そして、水城の涙を乱暴にぬぐうと細いあごを掴みあげる。

「余計な事をしたり……助けを求めたりしたら……」

 ポケットから取り出したそれを恐怖にまみれた水城の両目の間近に突き出し、低い声で凄む。

「てめぇ、また、お仕置きだからな?」

 バチリ、と青白い光が瞬いた。


 ……それは、スタンガンだった。




「ええっと、この度、上の部屋に引っ越してきた北野と申します。ご挨拶に窺いました」

 茅野の言葉の直後に扉がわずかに開く。

 その向こうから顔を覗かせたのは二十代前後の若い女だった。

 目の下に酷いくまがあり、顔色は青ざめて見えた。

「……どうも」

 蚊の鳴くような声でそう言って、オドオドと視線をさ迷わせる。まるで叱られる事を恐れた子供のようだった。

 茅野は開いた扉の隙間から、素早く室内を観察する。

「これ、つまらない物ですが……」

 と、粗品を差し出すと、女は引ったくるようにそれを奪い取った。

 そして、扉がバタリと閉まる。

「循、どうだった?」

「男物の靴があったわね。多分、今の女性が水城真澄さんなんだろうけど、彼女以外にも、この部屋には誰かがいるのは確実よ」

 桜井と茅野は再び四階のエレベーターホールへと向かって歩き始める。

「……じゃあ、その誰かが宇佐美孝司に成り済ました人?」

「……か、どうかはまだ何とも言えないわね。後、気になったのは玄関から延びた廊下の奥の壁にギターケースが立てかけてあったわ」

「ギターが趣味? ……でも、相田センセの話だと、婚活パーティのプロフィールには、趣味はアニメと漫画って……宇佐美さんの偽者の方じゃなくて、水城真澄さんの方がギターを弾くのかな……」

 桜井が首を傾げる。

「まだ何とも言えないわね。……次は駐車場へ行ってみましょう」

 二人はエレベーターに乗り、地下にある駐車場へと向かった。

 しかし、宇佐美孝司の物らしき、赤のシボレーコルベットは見つからなかった。

「……ないね。ツンデレの蛙」

「そうね。ここに赤のシボレーコルベットがあれば、四〇四号室の靴が仮称宇佐美孝司の物で、ほぼ間違いないと考えてもよかったんだろうけど」

「あんな派手な車を乗り回している人なんて、早々いないだろうしね」

「取り合えず、今日はここまでにして帰りましょう」

「りょうかーい。ご飯だー」

 二人はソレイユ黒狛を後にした。




 桜井と茅野は黒狛駅前の中華料理屋『礼龍軒らいりゅうけん』の暖簾のれんを潜り抜けた。

 二人はカウンターに並んで座ると、桜井は麻婆ラーメンと炒飯のセットを、茅野は普通のラーメンとピータンを頼んだ。

「……んで、結局、どゆことなんだろうね?」

「今考えられるのは、やはり、自称宇佐美孝司は浮気相手を探す為に婚活パーティに出席して相田先生を騙そうとした。しかし、ソレイユ黒狛で同居中だった本命の交際相手の水城真澄さんにその企みが露見してしまう。仕方がないので相田先生との連絡を絶った……というところだろうけれど」

「ふうん」

 と、話を聞いていない風の返事をして、炒飯をレンゲで口の中にかきこむ桜井。

 茅野は更に話を続ける。

「でも、やはり、“なぜ、宇佐美孝司の名前を名乗ったのか”という点と“なぜわざわざ、ソレイユ黒狛の四〇四号室の所在を先生に教えたのか”という疑問は残るわね。先生を騙す目的なら、検索すれば一発でバレる偽名と、訪ねてこられるリスクがあるのに住居をわざわざ教えるのは、やっぱり、あり得ないわ」

「そもそもさぁ……」と桜井。

 麻婆ラーメンをずびずばとすすり、言葉を続ける。

「あのルックスなら、わざわざ婚活パーティなんか狙わなくても、遊び相手くらいなら簡単に見つかりそうだけど」

 これには茅野も同意する。

「そこなのよね……まあ、詐欺目的なら結婚しようと懸命な女性は、よい標的なのかもしれないけれど」

 結局、この後も、あーだこーだと意見を交換するもまともな考えは出てこなかった。

 段々、思考がふざけた方向へと片寄ってきたので、いったん考えるのはやめて、二人は帰路に着いた。

 この時、時刻は十八時三十分になったばかりだった。

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