百八十五話目 大黒柱
空が白み始めた頃に、ハルカは目を覚ました。
ぼーっとする頭をすっきりさせようと、体を起こして欠伸交じりにウォーターボールを浮かべて、顔を申し訳程度にぬらした。意識して出せば、温度も調整できるのだが、ただ何となく出したウォーターボールは、季節に応じた冷たさをしていた。
立ち上がって、草むらのほうまで歩く。ウォーターボールはふよふよと顔の横を漂ってついてきた。
長い髪を全て後ろへかき上げて、おりてこないように一つに結ぶ。冷たい水で顔を洗うのには勇気が要ったが、息を止めて顔を付けて、わしわしと洗った。
森の中にウォーターボールを投げ捨て、布で顔を拭いて、眠っていたところへ戻る。コリンが気持ちよさそうに眠っているので、声をかけた。
「コリン、朝ですよ」
声をかけて揺さぶると、小さなうめき声をあげて目を薄く開けた。
もう少し寝かせてあげたい気持ちもあるのだが、以前そうして出発が遅れたときに、ちゃんと起こしてほしいと言われたので仕方がない。
コリンはぼーっとした薄目のまま上半身を起こし、よろよろと昨日作った竈へ歩き出した。火力を調整してから顔を洗うつもりなのかもしれない。躓きそうで心配だったので、黙ってそれについて行っていると、広場の端に連れ添って歩いていくノクトと男の姿が見えた。
モンタナは竈の方へ薪を運んでおり、アルベルトは素振りをやめて、ノクトの様子を見ている。
ハルカは少し考えて、ノクトの傍へ歩み寄った。昨日の様子を見る限り、妙なことをするとは思えないが、そうであっても警戒はしたほうがいいのだろう。
「私が一緒に話を聞いてきます」
「おう」
アルベルトは横を通ったハルカにそう告げられると、返事をして訓練を再開した。
「おはようございます、ハルカさん」
「おはようございます。同席してもいいですか?」
ノクトに挨拶を返して尋ねると、男が困ったような顔をしている。
「大丈夫ですよ。私の弟子ですし、彼女は王国の関係者ではありません」
「弟子……、かい?そうか……。いや、そうですか。恩人に以前のような話はできないね」
「前と一緒で構いませんよぉ?」
「いいえ、そういうわけにもいかないでしょう。それに角と尻尾を生やした獣人で、治癒魔法が得意と言えば、あなたは【月の神子】ノクト様でしょう?以前は知らぬとはいえ失礼しました。どうして気づかなかったのでしょうか」
ノクトは笑顔のまま、パタンと尻尾で地面を軽くたたいた。そのまま地面に腰を下ろして、男にも座るように促す。ハルカにはノクトが少し寂しそうな顔をしているように見えた。
男が腰を下ろしたのを見て、ノクトは尋ねる。
「どうしてこんな国外の山奥に?」
「……お恥ずかしい話です。強盗殺人を疑われて、国を追われました。もちろん、そんなことはしていないのですが!……ですが、上役に逃げるべきだと勧められ、こんな所まで逃げてきました」
「なるほど、それで冒険者になろうと。プレイヌでは王国の罪は適用されませんからね」
「はい、しかしもう限界を感じていました。娘の体調は悪くなるばかりですし、私たちもろくに食事もできずにいましたから。あなた達にここで会えたことが本当に幸運でした。……ただ感謝することしかできないのが申し訳ないです」
「事情は分かりました。いくらかの金子と食料さえあれば、街までたどり着けますね?一番近くの大きな町はアシュドゥルでしょう。あそこには遺跡がありますし、贅沢をしなければ暮らしていくこともできるでしょう。ハルカさん、彼らに食料を分けることはできますか?」
「はい、こちらでも余裕をもって準備していますので」
「あ、いや、そこまでしてもらうわけには……」
断ろうとした男を見て、ハルカが口をはさむ。
「私もいつかアシュドゥルの遺跡に入ってみたいと思っていました。そのうち立ち寄ると思いますので、その時に情報をいただけると嬉しいです。その為の前払いだと思って受け取ってください。そうですね、私は食べ歩きが趣味なので、アシュドゥルの美味しいお店なんかを調べておいてもらえると、なお嬉しいです」
出来るだけ穏やかな表情を、安心させられるような笑顔を。
ただ善良であるように見えるその男に、過去の自分を重ねたハルカは、彼にこれ以上の不安を与えたくなかった。身に覚えのないことで追われて、家族を守りながらここまで逃げてきたのだとしたら、実に立派だ。家庭すら持つことのなかったハルカからすれば、尊敬すべき人物に違いなかった。
「……必ず、そうします。アシュドゥルにきたら、きっと私を訪ねてください。私の名前はオレーク=レフコヴァです。……美味しいご飯の店を探して待っています」
「はい、楽しみにしていますね」
朝食をレフコヴァ一家と一緒に食べて、必要な物資を渡し、山中で反対側へ向けて出発する。最後まで申し訳なさそうに頭を下げ続けたオレークだったが、妻と娘を連れて山を下っていく背中は広く見えた。
朝食の後、元気になった女の子に、モンタナが追いかけられて、逃げ回っていたのが印象的だった。一度尻尾を掴まれてから、ギリギリ追いつかれないくらいの速さで、モンタナがととと、と広場を駆け回り、女の子がそれを一生懸命追いかける姿はかわいらしかった。
あの子は随分とモンタナの耳と尻尾にご執心だったから、もしかしたら大きくなってモンタナを探しにくるかもしれない。別れる前に、随分ぐずっていたので、案外あり得る未来にも思える。
「あの子、モンタナがお気に入りでしたね」
「尻尾触られるのやです」
ペタンと耳を伏せたモンタナは、困り顔でそう答えた。
ハルカもたまに尻尾や耳を触ることがある。その情けない顔に、嫌だったのだろうかとひどく申し訳ない気持ちになった。
「あの、たまに触ってたの嫌でしたか?」
「ハルカはいいですよ、触り方が優しいですから。ギュっとされると痛いです」
許可されてほっとしたが、モンタナを気に入っていたあの娘さんは少しかわいそうだ。大きくなるころには触り方を心得てくれるといいのだけどと、ハルカはもう見えなくなった一家との再会に思いをはせた。
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