百八十三話目 逃亡者
男は茂みの中で腰を抜かしていた。
空にうちあがった魔法の数は常軌を逸していた。
もし自分がこれを見ることなく彼らの寝込みを襲ったりしていたら、一体どんな目にあっていたかを想像して、背筋を凍らせた。
男は生まれも育ちも王国で、その国の貴族に仕える兵士をしていた。
うだつの上がらない毎日を過ごしていたが、そんな男にも妻ができ、子ができ、幸せな日々を過ごしていた。
そんな日常が突然壊れたのはほんの一月ほど前のことだ。
ただ忠実に命令を守って生きてたはずの男に、強盗殺人の疑いがかけられているというのだ。男は確かに裕福ではなかったが、だからと言って、他人を害して物を奪うような卑劣なことは考えたことすらなかった。
直属の上司がこっそりとそれを罪に問われる前の男に教えてくれた。
男は自分はそんなことをしていない、ちゃんと調べて貰えばわかると主張した。
しかし上司は、言う。
『この件はもうお前を逮捕処刑することがほぼ決まっている。もしそうなればお前の妻子にも被害が及ぶ。お前が今までまじめに働いてきたことを俺は知っている。だから、今のうちに逃げろ』
妻と子の話をされて、男は唇を噛みながら、上司に礼を述べて、その日のうちに持てるだけの家財をまとめてその地を離れた。
以前同じような話で捕まった同僚がいて、その男が最後まで無罪を主張しながら処刑されたことを思い出したのだ。当時は悪いことをしたのなら仕方がないと思っていたが、今思えばもっとその彼の為にしてやれたことがあったのではないかと、寒空を足早に歩きながら後悔をした。
男は追手と冬の寒さから逃げるように南下する。
妻と子を連れているから、一日のうちにたくさんの距離を稼ぐことはできなかったが、なんとか捕まることもなく国境を越え、この山までたどり着いたのだ。
独立商業都市国家プレイヌは自由な国だと聞く。兵士として多少腕に覚えがあった男は、そこで冒険者にさえなればなんとか暮らしていけるのではないかと期待していた。
山中を進むうちに、一人娘が高熱を出した。
続く寒さと低栄養が体に負担をかけたに違いない。早く街にたどり着いて仕事を探したかったが、その熱はどんどん高くなり、娘は見る見るうちに弱っていく。
茂みの中のほんの少し開けた場所で、夫婦そろってただ娘に声をかけ続けているうちに日が暮れ、あたりはさらに冷え込んでくる。三人寄り添って夜を越そうとしていると、少し遠くに明かりが見えた。
何者かが火を起こしている。
もしこれが旅人なら、ほんの少しでも栄養のあるものを分けてもらえるかもしれない。とはいえ、それの代わりに差しだすものもない。
最悪奪い取ることすら考えに入れながら、男はこっそりと立ち上がった。
妻に様子を見ると告げてそろりとあかりへ向けて近づいていく。
茂みから顔をのぞかせると、その瞬間に空に向けて無数の火の矢が放たれた。
空が真昼の様に明るくなり、それが爆ぜる音が男の鼓膜を震わせた。
貴族に仕える魔法使いのそれを見たことがあって、大したものだと思っていたが、そんなものとは比べ物にならない。その数も、爆発音も、人が起こした現象とすら思えなかった。
ぺたんと座り込んで、空を見上げていたが、声をかける勇気もなくなり視線を下ろす。一体どんな大魔法使いが何の意味を持ってはなった魔法だったのか。見た目は若い冒険者にしか見えないグループなのに、恐ろしくて体が震えた。
ゆっくり立ち上がり逃げ出そうとしたときに、ふと男は気づく。
グループの中でも特に背の小さい一人の獣人が、じっと自分の方を見ていた。
まさかと思い、ゆっくり横に動くとその少年は首を横に動かして男の位置を追っている。
隠れていたのがばれている。
逃げる?いや、こちらに気付けるような斥候相手に、子供を抱えて逃げ切れるわけがない。
襲い掛かる?勝てるわけがない。
出て行って事情を説明する?なぜ今まで隠れていたのかと疑われるのでは。
一瞬のうちに考えを巡らせて、自分でそれを否定して、それから結局男はよろよろと、茂みから出て行くことにした。下手なことをせずに相手に許しを請うことしか自分にはできないと思ったからだった。
みすぼらしい見た目の男が茂みから突然現れたとき、ハルカはドキッとして謝るべきか考えた。自分が大騒ぎしたせいで近所の人が、と思ってから、場所柄そんなことはないはずだと思い直す。
男は両手を上げて敵意がないことをアピールしながら、十歩ほど離れた場所で歩みを止めた。その男が何かを語り始める前に、モンタナが口を開く。
「ちょっと前からあそこでこっちを見てたです」
汚れた格好とはいえ帯剣している。
人の好さそうな顔をした男は慌てて、モンタナの言葉を否定した。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。誤解だ、助けを借りたくてやってきたところで、とんでもない魔法を見て驚いてしまっただけなんだ」
「おやぁ……?」
男がなんとか見逃してもらおうと言い訳をしていると、ハルカの隣から顔をのぞかせたノクトが、その顔を見て首をかしげる。
男もそのもう一人の獣人をみて、何処かで見たことがあるような気がして、記憶の糸をたぐった。
「お久しぶりですねぇ」
間の抜けた声を聞いて男は思い出す。いつだか自分の主人の元へ招かれて閉じ込められていた少年だ。
人の好さそうな可愛らしい少年なのに、なぜ閉じ込められているのだろうと首をかしげたの覚えている。こんなところに一人でいては心細かろうと、男は鉄格子の外から話かけたのだ。
近所の美味しい食べ物屋の話。可愛らしい妻のこと。上司となかなかうまくいかないという笑い話。子が生まれそうなのに仕事を休めないこと。妻が心配であること。
少年の気を紛らわすつもりで話していたのに、危機感のない態度とのんびりした声に、やがて本当に男は悩み相談をしていた。そんな穏やかで変わった少年に「早く誤解がとけて外へ出られるといいね」と話したのを覚えている。
結局少年は男が非番の間にいなくなっていたので、誤解が解けて、外へ出られたのだろうと男は思っていた。
「お子さんもそろそろ三歳くらいですかねぇ、元気ですかぁ?」
「いや、娘はもう五歳になるんだよ……」
男の目からぽろりと涙がこぼれる。
毎日緊張の連続で、いよいよ進退窮まって人を襲うことすら考えていたのだ。それなのにこんな山の中で、以前と同じ間の抜けた優しい声を聞いて気が抜けてしまった。
「娘が、娘が熱を出して……」
男は膝をついて顔を押さえる。すがるような気持で、情けない声で、自分より小さなその少年に懇願する。
「助けて、助けてほしいんだ。頼む、頼みます、お願いです、何だってするから……」
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