六十話目 身元(※残酷な描写があります)
既に五十を越えた皇帝には若い側室がいる。
その女が、初めての子を孕んだ。
彼女は皇帝に街で見初められ、強引に攫われて側室とされ、無理やりに孕ませた。自分の子よりも若い年齢の女性に執着する皇帝を、周囲は気味悪がっていた。女性に同情する者もいたし、若い色香で取り入ったのだと嫌悪する者もいた。
しかし彼女が皇帝の子を孕むと、そうとばかり言っていられなくなった。
「生まれてきた子供が男であれば、それを次代の皇帝にする」
皇帝がそう側近に漏らしたと噂が広がったからだ。
元々この皇帝は戦に強く独裁的な男であった。帝国の版図を南へ大きく広げたのはこの男の功績だ。多少の勝手は許されるだけの力を持っていた。
しかしそれにしてもこれはやりすぎだった。
多くの臣が、貴族が、生まれてくる子が女の子であってくれと願う中、生まれた子の性別は、男だった。
本来の第一継承者である正室の長子は、既に年は三十を数えている。戦に出れば未だに負けなしで、南方への遠征を続けていた。
また若いころは、広い視野を持ちたいと、現皇帝の反対を押し切って、レジオン総学院に入学し、成績優秀者として僅か三年でそこを卒業している。
かつての皇帝を思わせる果断な人柄をしており、政治にも軍事にも明るく、学生時代に築いた人脈のおかげで各国重鎮へも広く顔が利く。
彼が皇帝となれば、国は増々栄えるに違いないと誰もが思い、楽しみにしていた。
そんな中での噂だった。
二年ぶりに首都へ凱旋した皇子は、噂を聞きつけるや否やすぐに皇帝のもとを訪れた。
皇位継承の話は一切出さずに、様子を伺っていたが、どうも父の様子がおかしい。まだ若いというのにまるで呆けてしまった老人のように、同じことを何度も繰り返したり、夢物語のような話をして見せる。
父は狂った。そう確信した皇子は決意を固め、その場を穏便に後にした。
皇子は、二年の間最前線で一緒に戦ってきた信頼できる部下たちを集め、父が狂ったことを告げると、その足でクーデターを起こした。こんなこともあろうかと、前線から戻してきた兵士たちを解散させないで置いておいたのが功を奏した。
ほんの数日の抵抗の末、クーデターはあっさりと成功した。狂い始めていた皇帝に、多くの者が愛想を尽かせていたのが原因だった。
皇子は側室に同情もしたが、これ以上の混乱を避けるために父と共に彼女を斬って捨てた。残るは肝心のその息子だけとなったが、何故かそれが見つからない。
笑って逝った側室の女を見たとき、こいつも気が狂ったのかと思ったものだが、あれは息子を無事に脱出させることができた喜びだったのだろうと理解した。
斬ってしまった今となっては、この女が何を企んでいたのかはわからない。無理やり孕まされた息子を愛していたのか、それとも次代の皇帝につかせ何かをするつもりだったのか、はたまたやはり狂ってしまっていたのか、真実を知るすべはもうなかった。
しかし出し抜かれたことに気づいた皇子は、その息子がこの先の自らの統治の障害になる可能性を考慮し、すぐに討伐の部隊を派遣することに決めた。
狂った皇帝に見初められた不幸な女は、仲が良かったり、大切にしてきたはずの、ほとんど全ての人から見捨てられた。恐ろしい皇帝に逆らうことなど誰もできなかった。
そんな中でたった一人、ずっと可愛がってきた妹だけが城へついてきて、女の世話をしてくれていた。
彼女は勝ち気で、皇帝なんてこっそり殺してしまえばいい、なんてことまで言いだすようなとんでもないじゃじゃ馬だった。女は顔を青くしてそれを否定しながらも、そんな妹に心を救われていた。
連れていかれたときも、狂った老人と寝所を共にした次の日も、子を孕んだ日も、産んだ日も、妹だけが女の心を支えていた。
産んだ子を憎く思うことだってあった。しかしそれを妹がかわいいかわいいと言って可愛がってくれたおかげで、息子を愛することができるようになっていた。彼女はもう一つ、心の支えを得ることができた。
ある日妹が部屋に駆け込んできて、女に早く逃げるように促した。皇子がクーデターを起こしたことは、女の耳にもすでに入ってきていた。
しかし女は逃げなかった。子供を妹に押し付けて、一緒に逃げるようにお願いする。
妹は馬鹿を言うなと断ったが、女は頑として譲らない。
「私がここで殺されれば、もしかしたらその子は見逃してもらえるかもしれないでしょ?」
女は変なところでいつも頑固だった。妹はどうしても譲らない女をさんざん罵って、怒って泣いて、それから彼女の願いを聞き入れた。
妹は金目のものと、大人しく賢そうな男の子を籠に隠して、ただ買い物に出かけるかのように、何でもない風を装って城を抜け出した。帽子を目深にかぶり、腫れぼったい目元を隠して歩いた。
少しずつ追手が近づいていることはわかっていた。神聖国レジオンに保護してもらうつもりだったが、経路がふさがれ随分と回り道をしてしまった。
鏡をのぞくと、眠れない毎日に、年齢よりめっきり年を取って見える。
今日もまた眠れない夜を過ごしていると、遠くからくぐもった様な断末魔が聞こえてきた。
追いつかれてしまった、巻き込んでしまって申し訳ない、そう思いながら慌てて準備をして窓から顔をのぞかせる。
追手はもう見えるところまで近づいてきていた。
もう逃げきれない。
こっそりと赤ん坊をクローゼットの中に隠す。
「泣いちゃだめよ?誰かが来るまでここで静かに待つの。きっと見つからないわ。あなたがこんなに聞き分けが良くて賢い子だなんて、誰も知らないもの」
じーっとこちらを見つめる赤ん坊は、こちらの話す言葉をわかっているかのようだった。
窓から飛び出して森へ向かって走る。小脇に赤ん坊を入れる籠を抱え、全力で走った。生涯最後の全力疾走になるだろうとわかっていた。肺が潰れてもいい、足がもげても構わない。もうこれきり使わないのだから。
追手がどんどん近づいてくる。
もう少し、もう少し。
服が破れるのも肌が傷つくのも気にせずに藪を走り、谷が見えたところで盛大に足を木の根に引っかけて転んだ。慌てて空の籠を谷へ放り投げる。これで子供は死んだと思われるはずだ。あとは自分が追いかけて落ちるだけ。
谷へ落ちた籠へ四つん這いのまま追いすがり、そして飛び降りようとしたところで足を掴まれ止められた。
本当はこのまま死ねたらよかったのに。楽に死ぬことはできなくなりそうだった。
彼女はヒステリックに叫ぶ。
「ああ、はなして、はなしてよ!!あの子が、あの子が谷に!!!」
彼女の様子を見ても追手の表情は変わらない。それでも彼女は一世一代の演技を続ける必要があった。
あの子が幸せになれますように。
断続的に与えられる激しい痛みと共に、赤ん坊の行方を尋ねられる。
谷に落ちてしまったとを言っても、人殺しと相手を罵っても、痛みに泣き叫んでもそれは終わることがなかった。
あの子が幸せになれますように。
そんな中でも彼女はそれだけ思って、赤ん坊の本当の居場所は口にしなかった。
あの子が幸せになれますように、かわいそうな姉の分まで。
薄れてゆく意識の中、彼女はずっとずっと、それだけを心の中で願い続けた。
「うーん、連れてこなくてよかったねえ……」
ボロボロになった裸の女性の遺体を見て、コーディは誰に言うでもなく呟いた。
村からしばらく歩いて茂みに入っていったところに、谷があった。その上の茂みに生えている木の根元に、女性の遺体が座り込むようにして放置されている。
見つけた時には肉食の動物たちが集まっていたせいで、欠損してしまっている手足の指が生きている間に失われたものなのか、死んだ後に食べられたのかはわからなかった。あと半日も遅ければ本当に骨だけになっていたかもしれない。
容姿は、もしかしたら整っていたのかもしれないが、顔の肉も食べられてしまっているせいか見る影もない。
身元を証明できるようなものは何一つとして持っていないようだったが、投げ捨てられて、崖に引っかかった衣服を上からのぞき、見つけることができた。
「南方大陸の人っぽいよね」
「こんな遺体をよく冷静に観察できますね」
デクトが遺体から目を逸らしながらコーディに言った。
「凄惨な遺体であろうと、これは彼女が生きた証さ。残された子供の為に、私たちは少しでも彼女から何かを読み取るべきではないのかい?」
「それはそうですが、私は直視に耐えかねますので、コーディさんにお任せいたします」
「私だって平気なわけじゃないんだけれどなぁ、ずるいなぁ」
コーディはぼやきながらその女性の観察を続けた。
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