第69話 夜の公園

 「えっとね、まじでレコーダーはお勧めっす。物証があるのとないのとは、いざことが起こったときに立場が段違いだし、周りに対する説得力にもなるっす。あと、何か起こっても『録音してんだぞー』って自分に言い聞かせたら、結構気持ちが楽になりますよ。なんならいい感じのやつ教えましょうか?」


 「あの部署もあの部署でなあ、結構会社全体の歪みを背負ったところではあるからな。俺も今度人事に話してみるけど、確かそろそろ人事との面談あるんじゃなかったか? その時に、現状を言ってみたらいい。仮に通らなくても、何かあったときに『ほろあの時言ってたでしょ?』って説得力が増すからな」


 「私も新人時代はぼこすかに怒られたなあ。だから、大丈夫ってわけじゃないけど、しんどいよね、あれ。大丈夫、それで普通だから。何にも出来ない時にさ、出来ないことを『出来てない!』って怒られてもどうしようもないじゃんね。ちょっとずつできるようになることなんだから、ここねは悪くないよ。それは絶対だからね?」


 居酒屋でお酒を少しかたむけながら、三者三様に私に色々と喋りかけてくれています。


 何が起こっているのでしょう。


 いや、そんなの分かりきっていて。


 つまり、励ましてくれているのです。


 恐らく仕事が出来なくて、独りで自分のせいだと落ち込んでいる私のことを。


 お隣の部長さん、一応同期の遠山さん、そして何よりみそのさんが。


 わざわざ私なんかのことを、まだ入って一年ぽっちのこの私のことを。


 励まして、助言して、慰めてくれているのです。


 それは言葉にするまでもなく。


 ありがたく、暖かくて、信じられないくらい幸運な出来事のはずなのですが。


 当の私は両手いっぱいに渡される優しさとあふれた言葉たちに困惑するばかりでした。


 頭が一杯になって、慌ててしまって、自分の気持ちがどうなっているのかさえ、正直うまくつかむことができません。


 なんで、どうして、とすら口に出すこともできないままに、あわわとはわわと、音にすらなっていない生返事を繰り返すことしか出来ません。


 お礼を言わなきゃいけないのに。感謝を伝えないといけないのに。


 どうしてか、私はどこか戸惑ったまま、みんなの話を聞いていました。


 どうしようもなくて、所在もなくて、困ったらどこを見ていいかすら分からなくて。


 結局、みそのさんのことを何かから逃げる様に見ていました。


 私と眼が合うたびに、あなたは優しく笑顔を向けてくれているけれど。


 私はその笑顔にすら、どう返したらいいのかわからないまま。


 ただ吹きすさぶ風の流れを、洞窟の中で黙って見上げるみたいに。


 通り過ぎるいろんな言葉たちを、ただじっと眺めていました。


 どうして?


 時折浮かんでくる疑問が何処に向けられているのかすら、何もつかめないままに。







 ※






 

 「なんて答えたらいいかわからなかった?」


 帰り道、私の些細なぼやきに、みそのさんは少しだけ不思議そうに首を捻りました。


 「はい、えーと、みそのさんのところの部長さんも遠山さんも、気を遣っていただいてるのはわかるんですけど、なんでか、その上手く応えられなくて……」


 まだまだ寒い、そろそろ二月も一週目を過ぎた、そんな夜の街を二人で白い息を吐きながら帰ります。お酒で火照った身体は、もくもくと白い息を吐きだして、私が出した白い息に、みそのさんが細めた口で自分の息を混ぜて遊んでいました。


 他の二人がいるときは、あんなに重かった口が、みそのさんと二人きりになってしまった帰り道では、簡単に開いてしまいます。


 我ながら、現金だなあっていうか、これは女の子同士の集団ならよくいじめられる奴です。好きな人の前でだけ饒舌になって、あとはさっぱり喋れないなんて、そんな些細なことで、いじめられている子を何人も見たことがありました。


 「二人とも話したいから話してるだけで、そんな気を遣わなくても大丈夫だけどねー。…………まあ、でもあれだね。仕方ないかな」


 「仕方ない……ですか?」


 私が漏らした言葉にみそのさんは、やれやれと肩をすくめます。ちょっと呆れているようなやり取りなのに、みそのさんがすると優しく見えてしまうのは、まあ元の性格でしょうね。


 「うん、ここねって人に頼るの下手じゃない? 自分は散々、私とかまなかさんに言ってたけど。だから、助けられかたが多分、いまいちわかってないんじゃないかな。いざ手を差し伸べられたら、それを取っていいのかわかんなくて、おろおろしちゃうっていうか、気を遣っちゃうっていうか」


 「あー…………」


 みそのさんの言葉に、こうグサッとくるわけではないのだけど、思わず納得してしまっていました。多分、端から見た私はみそのさんがいう、そのままの姿だったんじゃないかなって。


 「助けられるのも意外と難しいからね。何を助けて欲しいか、どれくらい助けて欲しいか。誰にならどこまで助けてもらえるか。逆に助け方が間違えてた時に、ちゃんとそれは違うって伝えることができるかとか。意外とさじ加減が難しいよね。助けられるのにも、経験が重要なのだね」


 そう言ってころころ笑いながら、みそのさんはふと思いついたように小走りで道をかけ始めました。私は最初、どうしたのだろうと首を傾げていたけれど、しばらくして小さな公園がみそのさんの走る先にあるのに気が付きます。


 「こっちこっちー」


 と、みそのさんに呼ばれるままにその公園の中へと足を踏み入れました。


 深夜の公園は少しの街灯があるだけで、人っ子一人いない静かな場所でした。


 その真ん中にある砂場に辿り着くと、みそのさんはこっちを振り返って軽く腕を開いてにっと笑いかけてきました。


 朗らかで、何か遊び道具を見つけた子どもみたいな笑顔を私に向けてくれていました。


 呼ばれるままに、砂場に入ってみそのさんの目の前に立ってみます。夜の砂場は凸凹していて、ちゃんと目を凝らさないとすぐに足を取られてしまいそうです。


 ちょっとおっかなびっくりながら、私はどうにかみそのさんの眼のまえに立ちました。


 「よし、じゃあ、後ろ向いて」


 子どもみたいに笑ったまま、みそのさんは楽し気に私にそう告げます。


 私はよくわからないままに、言われるがままにみそのさんに背中を向けました。何が始まるんだろう、と首を傾げていると。耳元でそっと声がしました。


 「よし、そのまま、こっちに倒れられる?」


 思ったより耳の近くで響く声にドキッとしながら、私はえっとみそのさんを振り向きました。


 相も変わらずの笑顔を浮かべたみそのさんは、何かを受け止めるのを待っているみたいに、大きく腕を広げていました。


 「倒れるんですか……?」


 思わず声が上ずって、酔いが醒めてしまいそうになるのを感じながら、私はみそのさんの顔を見ます。


 「そ、子どもの頃やらなかった? 大人が後ろにいてさ、そこに体重を預けて後ろ向きに倒れるの。絶対受け止めてくれるんだけど、いざ後ろに倒れるってなると、これがなかなか怖いんだよねー。眼で見えないからさ、変にブレーキかけてうまく転べない子とか、怖がって倒れられない子とかも結構いてさ。信じて倒れる、ただそれだけだけど、意外と難しいもんだよ?」


 「で、でも私、大人ですし。重いですし、もしうまく倒れなかったら、みそのさん怪我しちゃいます」


 「そんなに後ろにいないから大丈夫。それにね、これ、人に助けてもらう練習にもなるからさ。誰かを信じて体重を預ける、ただそんだけだよ。ほら練習、練習」


 あなたは気楽にそうやって楽しそうに笑うけど、私はそれでも躊躇してしまう。


 暗いから足場が悪い。いざこけても大丈夫なように砂場にしてあるんだろうけど、石とかがあったらやっぱり怪我をしてしまう。それにもし私が思ったより重かったら、それはそれでなんだか別のところで傷を負ってしまいそうだ。


 私なんかの練習のために、みそのさんがそんなリスクを負ってしまうのはどう考えたっておかしいことだ。


 おかしいこと、のはずなのに。


 あなたは、ほらほらと楽し気にわらっているばかりだ。


 私のことを初めてわかってくれた人だ。


 私が初めて自分の言いたいことを言えた人だ。


 私が初めて、本気で誰かの幸せを願えた人だ。


 だから、怖い。


 倒れることも、それで迷惑をかけてしまうかもしれないことも。


 怖いけど。


 倒れていいよと、あなたは言う。


 どのみち、このままここで立ってても仕方がないのか。


 諦めて、意を決して、どうにか震えるままに後ろ向きに倒れてみようとした。


 「ほらー、顔がこっちに向いてるぞ? 前見て前見て、身体も固い、それじゃあ逆に怪我しちゃうよ」


 みそのさんが笑いながらそういうけど、私は怖くてたまらない。固くなった足が、ゆらりと動く体重を引っ張り直そうとして前に伸びる。


 

 あ、やっちゃった。



 倒れながら思わず想った、みそのさんが言う通り。


 倒れるって意外と難しい、変に足が元の体勢に戻ろうと動いてしまったから。


 明らかに不安定な形で、後ろ側に倒れ込んでしまう。


 なのに不安定な体勢は変わらなくて。


 視界が落ちる時、心臓がひゅっと冷える様に縮こまった。


 吐いた一瞬の息が抜けていく感覚すら妙に生々しく意識にこびりついてきて。



 「わったった?!」



 「っひゃ―――」




 気が付いたら、二人して砂場に倒れ込んでいた。


 思わず顔が青ざめる、身体が痛いけど今はそれどころじゃいられない。



 「っつー……あたた」



 「みそのさんっ!? 大丈夫ですかッ!?」



 振り返ってみたあなたは、私と一緒に砂場に倒れ込んでいて、ああ、コートが砂だらけで怪我とか、大丈夫、なんだろうか。


 ただ、慌てる私をよそに、あなたは楽し気に笑っていた。




 「っはは、ね? 意外と信じて倒れるのって難しいでしょ? 私は大丈夫、尻餅突いたくらいだよ」


 そう言って、あなたはお尻を少しだけ払うと、よっこいせともう一度立ち上がった。


 とりあえず、大丈夫そうだろうか、無理してるといけないから、家に戻ったらよく様子を見ていないといけないけど。


 どうにか安堵の息を突く私をしり目に、あなたは私に手をそっと差し伸べた。それをなんとか受け取って私もようやく立ち上がる。


 「はい、じゃあ、もう一回」


 そうして、そんなことを言ってしまう。


 「だ、だめです! 今度こそ怪我しちゃうかもですよ!?」


 思わず口から漏れた声が荒ぶっていて、自分でも少しびっくりしてしまった。


 ただ、そんな私をよそにあなたは首を傾げるばかり。


 「え? でもこれに慣れないと、ここねが頼り方わかんないでしょ?」


 「ものの例えですよね?! こんなことしなくても、私ちゃんと頼れますから!?」


 「ほんとぉ……?」


 言い返した私の言葉に、みそのさんは酷く不信げに首を傾げてくる。


 「ほ、ほんとうです……」


 「いや、だめ。ここ一か月でわかったけど、ここねは人を頼るのは本当に下手だから。そこはちゃんと信頼してる」


 「うう…………」


 なんだか要らぬ信頼だけ獲得してしまっている。そんなので信頼されるくらいなら、もっとちゃんとした部分で信頼されたかった。


 「だから、ほらほら。もう一回、もう一回。慣れて覚えるの」


 何とか言い返したかったけど、どうにもこのままこの遊びを終わらせないことには納得してくれそうにない。


 私はしかたなく、もう一度みそのさんに背中を向けると、諦めてこける準備をする。


 大丈夫、うしろに倒れるだけ、それで変に立て直さないようにするだけ。ただ、それだけ。さっきの失敗はあるけれど、反射みたいなものだから、意識して無理やり抑え込めば。


 そうやって考えていた。


 そうやって必死に自分に言い聞かせていた。


 大丈夫、倒れるくらい、大丈夫。


 そう想って、自分に言い聞かせ続けていた。



 怖い。



 そんな声を必死に無視したままで。






 「大丈夫」




 縮こまっていた身体がビクンと揺れた。



 「身体の力をゆっくり抜いて」



 人に頼ることが、信じることが怖いと強張って身体が、何かに反応した。



 「私がちゃんと受け止めるから、そ、肩の力、足の力、お腹の力も全部抜いて」



 あなたの言葉が耳をなぞる。あなたの指先が、コート越しに肩を、背中を、腰を、なぞっていくのが伝わってくる。



 「何も怖がらなくて大丈夫。ゆっくりベッドに寝っ転がるみたいにさ」



 あなたの指が背中から離れると同時に、足の力、かくんと落ちるみたいに抜けていた。



 「絶対受け止めるから、ここねはゆっくり倒れる、ただそれだけ」



 荒れていたはずの息が気づけば、眠るときの前みたいに、静かにゆっくりと動いている。



 あなたの声、ただ、それだけで。



 「うん、そう大丈夫。いつでも自分のタイミングでおいで」



 ゆっくりと、足の裏が地面から離れていく。



 頭が落ちる様に後ろの方へ、視線が滑るようにそのまま上へと昇っていく。



 堕ちるように、倒れるように。


 

 何の力も込めないままに、ただそっと。



 「ほら、できた」



 あなたの腕の中に落ちていた。



 肩を支えるように私を受け止めた、あなたは私の顔を上から覗き込んで、ちょっと自慢げに笑っている。



 ほら大丈夫だったでしょって。



 おびえた子どもに、大人が向けるみたいなそんな笑顔で。



 じっと私を見つめていた。




 「あれ、なんで顔隠すの?」



 「うー……知りません」




 そしたらなんでか顔が熱くなって、眼も、耳も、何もかもが熱くなって真っ赤になって。お酒を飲んでいた時より、何倍も、何倍も、赤くなって、熱くなって。




 「こーこーね! どしたの? どっか打った?」



 「打ってません! ありがとうございます!」



 あなたの顔を、どうしても見られなかった。



 「ここねは私のこと好きすぎるなあ……。まなかさんの気持ちがちょっとわかる」



 「分かってるなら! そっとしといて! ください!」



 泣きながら、柔らかい手袋であなたの頭をぽかぽか叩いた。



 あなたの手に支えられながら、あなたに体重を預けながら。



 笑うあなたに私の重さを、全部受け止められていた。



 そんな冬の夜だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る