四人目

「うっ!?」


「っっ!?」


 部屋に一歩踏み入った途端、顔面を殴られたような錯覚に襲われる。

 突然のことにアンナとメリエも思わず苦悶の声を漏らす。

 だがこの感覚に、自分は覚えがあった。


「……これでもまだマシになった方だ。エシー、今日も頼むぜ」


「はい。すぐに取ってきます」


 部屋の外にいたエシリースと付き添いのおばさんが一言残し、離れていく。

 簡素なつくりの部屋だった。

 角部屋のため窓の数が多い以外はさっき商談していた部屋と同じくらい。

 違うのは商談に使う大き目のテーブルやソファーではなく、宿屋のようにベッドと小さめのテーブルが置かれていること。

 そのベッドに、人にしては小さな影が横たわっている。


「……彼女が四人目、名はスティカ・ミラーズ」


 ベッドの隣に立ち、リヒターは静かに言った。

 それを見たアンナとメリエが思わず息を飲み、身を凍り付かせる。


「(……だから言ったろう)」


 ライカだけは動じず、溜め息を吐くように零した。


「……彼女はワドナからヴェルタの王立学院に入学した学生だった。しかしある貴族に目をつけられてな……嵌められて、一緒にヴェルタに移り住んでいた両親は死亡。金が無くなり学院は退学、身売り奴隷としてこの店にやってきた」


 あまりの衝撃で、リヒターの説明が耳に入ってこない。

 リヒターの視線の先に横たわる〝彼女〟は、人の形をしていなかった。

 両足が大腿部から無くなっており、包帯で覆われている。

 左腕も肩口から先が無く、右腕はあったが掌には指が一本も無かった。

 その異常な姿を一言で表すなら、衣類品店の店先に並ぶトルソーだろうか。


 腹部や胸部には隙間なく包帯が巻かれていてわからないが、出ている顔半分には斬り付けられたような痕が痛々しく覗く。

 右目部分の充て布には血が滲み、左目だけがうっすらと開いて、何もない木の天井を見詰めたまま凍っている。

 そして顔面を殴打するかのような衝撃を伴って襲ってくる、凄まじい悪臭。

 死臭にも似た、鼻を衝く臭い。


「その後すぐに、その嵌めた貴族が彼女を買い取りに来た。だがこいつがどうしようもねぇクズ貴族でよ。夜伽にってんならまだしも、相手を痛めつけて悦に浸る厄介な性癖だった。

 要するに、発覚するまでの数か月間、死なねぇくらいに拷問され続けてたってことだ。逃げないように両足を切り落とされ、そのままずっと地下室に閉じ込められていたそうだ。

 左目は辛うじて無事だから読むことはできるが、この手じゃもう書くことはできねぇ」


 リヒターは淡々と彼女の境遇を語った。

 しかしその抑揚の無い静かな声の裏にある怒りを抑えきれていない。


「……嵌めたのも彼女の容姿が気に入ったから自分のものにしようとして、最初からそのつもりだったらしい。周到にやったのか犯罪としては立証できなかったそうだ。

 が、そっちは隠せても、これは当然奴隷管理法違反だな。奴隷が所有者の権利を脅かすことを企てたりすれば別だが、理由もなく奴隷の命を脅かすような行為は厳しく罰せられる決まりだ。

 見兼ねた使用人の密告で発覚し、事を重大に捉えた奴隷商連盟はギルドの執行部にも要請を出して徹底的に叩いた。

 結果、派遣された執行部の手練れ一人に野郎の私兵は皆殺し。奴自身も半殺しで騎士団に身柄を引き渡され、奴隷の所有権利は剥奪……貴族籍も返上させられて、見せしめに首を刎ねられた」


 アンナは臭いと凄惨な彼女の容姿に、吐き気を堪えるように口元を手で押さえつつ、既に泣いていた。

 メリエも顔に憤怒が張り付いている。

 リヒターの話を聞いた自分も、気持ちは同じだった。


 以前母上と暮らしていた森で見た腐乱死体のような悪臭の中、入ってきた自分達にもリヒターの声にも反応せずに、何もない空間をただ見詰める〝彼女〟を見て、臭いによる吐き気よりも煮えたぎるような怒りが胸を満たした。

 その言い様の無い激しい感情に、背筋が強張る。


「おい、スティ、スティ」


「……う……う」


 リヒターがしゃがみ込んで顔を近づけ、横たわる彼女に呼びかける。

 しかし彼女は不明瞭な呻きを僅かに上げるだけで、視線も動かさず、反応は乏しい。


「……まぁ見ての通りの状態でよ、クソ野郎が死んだところで彼女が元に戻るわけじゃねぇ。

 この臭いは褥瘡じょくそうのせいだ。なんせ自分では這いずることもままならない。一応治療はしてるんだがここまでの重症となるとな……今は治療に加えて苦痛を抑えるために魔法と鎮静剤を使ってる。起きてはいるが意識が朦朧としちまってるのはそのせいだな。

 ここは角部屋で風通しがいいし、普段は誰もいないからよ。この臭いも気にせず治療してやることができる。宿舎に置いたら他の奴隷達がまともに生活できなくなっちまう」


 リヒターはそこまで言ってからフゥと一呼吸入れる。

 そして言うことを躊躇するかのように一度彼女から視線を逸らし、天井を仰いだ。


「先に言っておく。スティカはもう長くねぇ。ギルドが無償でお抱えの高位治癒術師を派遣してくれたんだが、首を横に振られて終わりだった。治療を続けても苦痛を伸ばすだけになるってよ。もう殆どメシも食えてないんで、弱る一方さ。

 だが、クソ野郎に買い取られるまで学院で3年間学んだだけはあって知識は豊富だ。おめぇさんらが望むようなことも知っているだろう」


「……」


「もしも買うなら、一時的にだが苦痛を忘れさせる薬をやる。この部屋もそのまま使ってくれていいぜ。それで知りたいことを聞き出すといい。同じ残り少ない時間なら、こんな場所でただ朽ちるのを待つよりは、誰かと関わっている方が彼女にとって良いことじゃねぇかと思ってる。

 ……こりゃあ独り言だがよ、その後に返品してくれても構わねぇ。特例で代金もそっくりそのまま返す。彼女が少しでも誰かの役に立てるなら、俺はそれでいい」


 置物のように微動だにせず、生きているのかも怪しく思える彼女に目が釘付けとなり、リヒターの声がまるでどこか遠くで鳴っている雑音のようだった。

 リヒターが説明を終えても黙って佇んでいたところ、背後から声がかけられる。


「あの、持ってきました。すぐに取り替えますね」


「ああ、頼む」


 背後の扉から、エシリースが包帯や薬の入ったカゴと湯の張られた桶を抱えて入ってきた。

 臭いにも動じず、そのままスティカのベッドまで歩み寄るとすぐに包帯を替え始める。

 優しく体を動かし、骨が露出する程に酷い床ずれから滲み出た体液で変色した包帯を丁寧に取り、薬を塗った新しい包帯を巻く。


 床ずれだけではなく、拷問の痛々しい傷跡が包帯の下のそこここに見て取れる。

 それを見てもエシリースは動じることもなく、淡々と手を動かし続けた。

 おそらくもう何度もこうやって手当てをしてきたのだろう。

 手つきは慣れたものだった。

 その間にどれだけの葛藤があったのかを想像するだけで胸が潰されるようだ。


「……エシーはスティカがここに身売りに来た当初からの世話役だった。宿舎でも相部屋で、ここでのルールやなんかも教えてくれていた。それもあってこんな状態になっちまっても世話を続けてくれている」


「……スティちゃんは……いつもドジばかりのダメな私に初めて任された新人さんでしたから……いい子で……両親が亡くなったばかりなのに……健気に笑っていて……」


 それまで黙々と手を動かしていたエシリースだったが、人形のようになってしまった彼女のことを語り出すと堪え切れなくなったのか、包帯を巻く手と声が震える。

 エシリースの涙声と時折嗚咽が混じるのを聞き、アンナも嗚咽を漏らして泣き崩れた。


 エシリースは普段からこの悪臭の中で彼女の世話をしてきた。

 ライカはエシリースに残った僅かな臭いを嗅ぎ取り、予見したのだ。

 目を覆いたくなるスティカの姿に、鼻の奥に残る腐乱死体のような床ずれの臭い……確かにただ事ではない。

 トラウマにもなりかねない凄惨な姿。

 ライカがアンナを気遣いたくなる気持ちもわかる。

 もし知っていたら自分もアンナを止めただろう。


 そのまま暫く、エシリースが悲しみと怒りで目を潤ませながら、震える手で彼女の手当てを続けるのを見続けた。

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