こころにやどるもの
「……メリエ、大丈夫? 怪我してない?」
「私は大丈夫だ。攻撃が直接当たった訳でもない。クロのアーティファクトが無かったらと思うと少し寒気がしたがな。ランカーの相手は、私ではまだ無理だ」
「(私も問題ありません。相手の攻撃が当たる前にクロ殿が迎撃してくれましたからね)」
メリエは転んで服が汚れた以外に特に怪我は見受けられない。
一人で立ち上がると、剣についた水滴をヒュンと振って払い、鞘に収めた。
ポロの方も問題無さそうだ。
問題はアンナの方か。
「アンナ、アンナ、大丈夫?」
首を下げてメリエの後ろで座り込んでいるアンナに顔を近づける。
水に濡れ、放心したように呆然としていたアンナだったが、声をかけるとビクリと肩を振るわせ潤んだ目でこちらを見上げた。
その顔には様々なものが入り混じった表情が浮かんでいる。
「あ……クロさん、あの……私……当たるとは思わなくて……邪魔をしたらいけないって……でもクロさんが危ないって思ったら、手を離しちゃってて……どうしてか、自分でもよくわからなくて……」
言いたいことがまとまらないのか、まだ気が動転しているからなのか、アンナは心の中に蟠ったものを吐き出すように、取り留めなく言葉を紡ぐ。
そんなアンナの言葉を遮ることなく、最後まで聞き続けた。
「……それで、その……ごめんなさい……クロさんにもメリエさんにもポロにも迷惑をかけて……」
そこまで言うとキュッと唇を噛み、悔しそうに涙で頬を濡らした。
「……気にしないで。アンナの気持ち、少しは僕にもわかるからさ」
「……え?」
確かにアンナがバーダミラの気を引いてしまったことでメリエやポロが矢面に立つことになったのは事実。
他人を危機に晒してしまったことを悪いと思ってしまうのは当然なのかもしれない。
しかし自分には、アンナを衝き動かした心の内にあるものが判るような気がする。
それを思うと、叱責する事ができなかった。
なぜなら自分もかつて、それを体験した事があったから。
あれは……言葉では説明しづらいものだった。
何かが内に込み上げてきたと思った時には、もう理性では止められず、恥や見聞すらも意に介さずに、体が動いている。
あの時に生まれて初めて知った、自分の心の奥底に在った、不思議なもの……。
自分が人間だった最後の時。
自分を冷たい水の中に飛び込ませた、あの衝動。
親友の病死の知らせを聞いても、その葬儀に参列して死に顔を見ても、何も湧いてこなかった自分の心。
自分を取り巻いていた灰色の世界と同じように、錆び付いてしまっていた自分に、そんなものがあるとは思ってもいなかった。
特に泳ぎが得意でもなかった自分が、服を着たまま深い水に飛び込めばどうなるか。
子供でもわかるようなことが、あの時は考えることができなかった。
そしてその結果が……。
きっとアンナの心の内に湧き上がったのも、同じようなものだったのだろう。
自分の立場や相手との力の差も忘れ、それを行う事で何が起こるのかを考えることさえも忘れて、無我夢中で体が衝き動かされる。
あの時の、自分のように……。
「僕もね、さっきのアンナみたいに、思うよりも考えるよりも先に体が勝手に動いたことがあったんだ。
あの時は自分では止めることも、止めようと考えることすらもできなかった。だから、少しわかるよ」
思い出すように少し空を見上げ、そしてアンナに視線を戻す。
アンナは涙で濡れた頬のまま、こちらを見上げていた。
「……クロさんにも……命を賭して守りたい……な相手が……いたんですか?」
「え?」
アンナはさっきよりも悲しそうな顔になって俯き、小さな声で言った。
「私、たぶんクロさんじゃなかったら……あんなことはしなかったと思います。クロさんだったから、危ないって思った時に体が動いたんだと思います……だから私……クロさんが私と同じ気持ちを向ける相手がいたと思うと……」
「……」
人間だった自分の最後の時の衝動と同じ理由でアンナが危険に身を晒したのかと思ったのだが、アンナの言葉を聞くと少し違うようだった。
自分の時は、助けようとしたのは知人でもなければ人間でもなかった。
ただ偶然、その現場を見かけた小さな命。
しかしアンナは、自分じゃなければあんな無謀な行動は取らなかっただろうと、自分だったからあんな行動に出たのだと言った。
同じように危険に身を晒す行為だとしても、見ず知らずの相手に対してと特定の誰かだったからというのでは、似ているようで違うのかもしれない。
けれど、今の自分にはその二つが『違う』ということ以外は何もわからなかった。
それを……アンナと同じ特別な誰かのために、自分を省みず衝き動かす衝動を、自分も抱く時がくるのだろうか……。
「……僕の時は、アンナの時みたいに相手を知っているってわけじゃなかった。だから似ているかもしれないけどアンナの想いとは少し違うのかもね」
「え?」
「だって僕、生まれて半年ちょっとだし、あの森で身内以外に親しくなったのはアンナが初めてだよ。狼親子はご近所付き合いみたいな感じでアンナほど親しくは無かったと思うし……。母上はたぶん僕より強いから助ける場面なんてないしさ。
それからはずっと一緒にいたじゃない? 危ないことは何度かあったけど、アンナと一緒にいる時だったでしょ?
僕がそれを感じたのはアンナと出会う前……だから僕が感じたのはアンナみたいに親しい相手に対してじゃないんだ」
生まれる前の話をしても仕方が無いし、意味は無い。
今後も自分の持っている生まれる前の記憶のことを、人間だった時の記憶のことを、誰かに言うことは無いだろうと思う。
少なくとも、今は誰かに言う気にはなれなかった。
全てを諦め、ただ無為に生きるだけだった無色に染まった自分よりも、今の自分を見て欲しいと思ったから。
「……私……クロさん、あの……」
こちらの話を聞いて少し気が紛れたのか、少し明るい表情になったアンナが何か言いかけた。
しかしその先は口には出さず、柔らかく微笑んだだけだった。
しかし微笑んだのも少しだけで、また申し訳なさそうな表情に戻ると、黙って話を聞いていたメリエの方に向き直った。
「……すみません。メリエさん。私のせいで……ポロも……」
「……正直に言えば思うところはある。だが、失敗は誰にでもあるものだ。今後、同じ轍を踏まないようにすればいい。私も何度か同じようなことをして師匠に叱られた経験があるしな。
それに、あの時アンナが弓を射らねばクロが怪我を負っていたかもしれない。仲間や大切な者を助けようとする意志は戦いに身を置く者にとって重要だ。誰かの為に戦うというのは、自分が力に溺れる事を防いでくれる。
だからアンナの取った行動が絶対に悪いというわけではない。しかし未熟な人間がそれをすれば、その分だけ仲間や自分を危険に晒すかもしれないということを肝に銘じておかなければならん」
「……すみません。次は、しっかり考えます」
「それでいい。時には危険を顧みずに動くことも必要になる。守られているばかりでは成長など望めない。
だが無闇に危険に身を投じては命がいくつ在っても足りないし、助けに入ろうとしたことで無用な犠牲を生んでしまう事だって在る。
さっきは私やクロが助けに入る余地があった。しかし次はどうかわからん。今回のことを教訓にして、そこは考えて行動できるようにしていくことだ」
「……はい、わかりました」
メリエはアンナに手を差し伸べ、アンナを引き起こした。
アンナは手にしていた弓に目を向けて握り直すと、先程までの不安そうな表情ではなく、凛とした表情で顔を上げたのだった。
「そうだ。アンナ、忘れてたよ」
「はい?」
「僕のために、ありがとうね」
「! ……はい!」
アンナに、また笑顔が戻った。
言おうと思った「嬉しかった」の一言は、気恥ずかしいので飲み込むことにした。
「……じゃあ」
(……あ……あ……)
今後のことを話し合おうか。
そう言おうとしたところで、何かが聞こえた気がした。
「……? アンナ何か言った?」
「え? いいえ」
「メリエ、何か言わなかった?」
「いや?」
「今何か……」
(……お……れ……)
「!?」
何か聞こえる。
何か……声?
(……よ…………も)
「みんな!」
何かいる!
そう言いかけた瞬間、背筋を這い上がるものがあった。
……殺気だ。
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