第三十七話 最強の陰陽師、魔族領を後にする
夜の明けきらない中、荷物を背負って静かに離れを出る。
家主のラズールムには、昨晩のうちに事情を伝えていた。
万一にも代表たちには伝わってほしくなかったため、出立の時期はぼかしたのだが、なんとなく察してくれたようだった。
世話になった礼として差しだした帝国の金を、ラズールムは首を振って断った。
そして、
『ギルベルトの子よ、君の幸運を祈っている』
という短い別れの言葉だけを、穏やかな表情でくれた。
ぼくら四人は黙って、まだ薄暗い里の道を進む。
やがて里を囲む巨石の柵と、門が見えてきた――――その時だった。
「あっ、誰かいるみたい」
イーファの声と同時に、ぼくも気づく。
門の近くに、人影があった。
リゾレラとルルムはいてもおかしくないのだが、何やら数が多い。
八人もいる。
「え……なんで?」
ぼくが動揺していると、人影の集団がこっちに気づき、大きく手を振ってきた。
「おっ、来たみたいだぜ!」
「おーいっ、魔王様ー!」
その時にはぼくもようやく、彼らが誰なのかわかった。
思わず駆け寄る。
「み……みんな、どうして……」
「どうしても何も、決まってんじゃねーか!」
ガウス王が、豪快に笑って言う。
「見送りに来たんだよ、魔王様!」
そこにはルルムとリゾレラの他に、六人の王の姿があった。
皆が口々に言う。
「水くさいんだよ、黙って出て行こうなんてさ」
「礼儀がなっとらんの。余たちにも別れくらい言わせるがよい」
「共に過ごせてうれしかったです、魔王様。またいつか、人間の国のことを聞かせてください」
「いつでも遊びに来ていいよ。フィリたち、歓迎するから。こっそりね」
「そ、それはありがたいんだが……」
ぼくは戸惑いながら言う。
「えっと、なんで知って……」
「ごめんなの、セイカ」
リゾレラが、やや申し訳なさそうに言う。
「ワタシが話しちゃったの。みんなも、きっとお別れしたいと思って」
言葉が浮かばないぼくへ、アトス王が落ち着いた声音で言う。
「大丈夫です、魔王様。誰も、他の者には言っておりません。我らだけの意思でここに来ました」
「……」
「代表団に知られれば、面倒なことになってしまいそうですから。それは魔王様もお望みではなかったでしょう」
「それは、その通りなんだが……」
「魔王様の出立を、ただ皆で見送りたかっただけなのです。少しですが、餞別も用意しました。そこに」
アトス王の示した先を見ると、門の向こうに荷物のくくりつけられた黒い馬型のモンスターが二頭あった。
シギル王が言う。
「代表団の物資から、みんなでこっそり持ち寄ったんだ。荷馬はリゾレラ様だけど、食糧とか布とか、あとちょっとした魔道具とかが荷物に入ってるぜ」
「大した物がなくてすまぬの」
「フィリの家になら、余ってる宝石とかいっぱいあったんだけど……」
「森を出たら、ダークメアたちはそのまま帰してくれればいいの」
リゾレラが言う。
「かしこい子たちだから、ここまで勝手に戻ってこられるの。荷物は、セイカががんばって持つの」
「うむ、そうじゃな。嫁御らにこれだけ持たせるのも酷じゃろう。それに魔王ならば造作もあるまい」
「……な、なあ。やっぱあそこの三人って、魔王様の嫁さんなのかな……?」
「さ、三人もか!? さすがは魔王様だぜ……!」
「僕は少しショックだよ。もっと真面目な人かと思ってたのに……」
「はああっ!? ちょっと聞こえてるんだけどっ? 誰が嫁よ! なんなのよこの色ぼけ魔族どもはっ!」
「セイカ、また変なのと仲良くなってる」
「もう慣れてきたよね……」
なんだか急に騒がしくなる中、ぼくは彼らへと向き直り、告げる。
「いや、すごく助かるよ。それと……」
ためらいがちに付け加える。
「黙って去ろうとして、すまなかった。でも……やっぱりぼくは、君たちの力にはなれないんだ」
「わかっています」
アトス王は、穏やかな表情で言う。
「魔王様が人間の国に戻りたがっていることは、実は皆、薄々勘づいていました」
「え……」
「全員が王都ではなくこの里へ来ることを望んだのも……実を言えば、魔王様を見送るためだったのです」
驚いて皆の顔を見回す。
王たちは誰もぼくを責めるでもなく、ただ仕方なさそうな表情をしていた。
「まあな……そりゃあ、生まれ育った場所の方がいいよな」
「人間の文化を教わる中で悟りました。魔王様はやはり、人間として生きてきたのだと。それならば、これからも人間として生きていくべきなのでしょう」
「魔王様、時々帰りたそうにしてたもんね」
「向こうで大事な者もおることじゃろう。魔族の陣営につき、魔王として人間との敵対を求めるなど、酷な話じゃったな」
「ああ! だから全然気にすることないぜ、魔王様!」
「……それに、こう言ってはなんですが」
アトス王が、真剣な口調で付け加える。
「魔王様が、たとえここへ残ることを望んでも……我らはそれを拒絶していたでしょう」
「え……?」
「リゾレラ様がかねてからおっしゃっていたことが、今回の一件で真に理解できました。魔王様の圧倒的なお力は――――やはり、人間との大戦をもたらすものです」
アトス王は続ける。
「あの力を知れば、魔族は誰もが狂うことでしょう。人間の国に勝てる。魔王様さえいれば、人間どもを滅ぼせる。かつての領土と栄光を、自分たちの世代で取り戻すことができるに違いない……と。この危険な思想は、きっと瞬く間に魔族領全土へと広がり、御しきれぬ恐ろしい戦乱の世を招くでしょう。魔王様が、大戦の火種となってしまうのです」
「……」
「だからこそ、ここにいてはなりません。人間の国にお帰りください、魔王様。そこで穏やかに、幸いな暮らしを送られますよう」
アトス王は、微かな笑みとともに付け加える。
「ただ人間の権力者に利用されぬ程度には、どうか狡猾に。魔王様は人がいいので、少し心配です」
「魔王様が人間側についちまうとか、マジでやべーからな……!」
「そうそう。そこら辺ほんとに気をつけてくれよ、魔王様」
「……ああ、わかったよ」
彼らの言葉に、ぼくは思わず苦笑を返す。
確かに、それはこれからも注意しなければならない。思えば今回は、力のほどを少々見せすぎてしまった。
皆がぼくを利用しようとするような者でなくて、本当によかった。
力に惑わされないこの子らが治めるならば、きっとこの先も、魔族が争いの世に突き進むようなことにはならないだろう。
ぼくは言う。
「本当にすまないが……あとのことは頼んだ。特にエーデントラーダ卿とか、だいぶめんどくさいと思うけど……」
「ええ、なんとかしましょう」
アトス王もまた、苦笑して答える。
「大荒爵には、別の役割を与えることにします。これから魔族は否応なく変わっていく。それを見届けられる地位ならば、卿もきっと満足することでしょう」
激動の目撃者となることを望んでいたあの悪魔をなだめるならば、確かにそうするのが一番いい気がした。
他にもやっかいな有力者はいくらでもいるだろうが……今のこの子たちなら、きっとなんとかすることだろう。
と、その時。
「……セイカ」
ずっと思い詰めたように口をつぐんでいたルルムが、一歩前に出て言った。
「その、本当に……帰ってしまうの? あなたがいれば、きっと人間とも……」
「引き留めちゃだめなの、ルルム。セイカは、ここにいるべきではないの」
「でもっ、リゾレラ様……」
「あなたの夢なら、大丈夫なの」
リゾレラが安心させるような笑みとともに言う。
「ワタシが――――魔族連盟の代表になるの。魔族の未来を背負って、人間の国とも交渉するの。だから心配いらないの」
「リゾレラ様が……?」
「えっ……だが、君は……」
ぼくは思わず口を挟んでしまう。
自分はただ長く生きただけの神魔に過ぎないからと、リゾレラはずっとそのような立場を固辞し続けてきたはずだった。
しかし。
「ワタシも、変わるの」
朝日の差し始めた中、リゾレラが晴れやかな顔で言う。
「この子たちに負けていられないの。五百年もかかってしまったけれど、今からだって遅くないの。長く生きてきたワタシなら、きっとみんな納得するはずなの。だからこれは、ワタシの役目なの」
「……そうか。君も、か……」
ぼくは小さく呟いて、視線をわずかに伏せた。
その勇気が、うらやましいと思った。
百数十年の時を生き、転生してもなお変わることのできなかったぼくに、果たして同じことができるだろうか。
「……ルルム!」
その時、アミュが声を上げた。
なおも何か言いたげな様子のルルムに向け、快活な笑顔で言う。
「あたしたち、行くわね」
「っ、アミュ……」
「いつまでもここで世話になってるわけにもいかないもの。あたしたちは、あたしたちで生きていかなきゃいけないんだから」
「……」
アミュの言葉に、イーファとメイベルは顔を見合わせると、ルルムへと笑って言う。
「あの……ルルムさんの探してる人、見つけたらぜったい、手紙を書きますね! ルルムさんのことも、伝えておきますから!」
「たのしかった。ありがと。ノズロにも、そう言っておいて」
ルルムは一瞬唇を引き結ぶと、涙声になって答える。
「うん、ごめんなさい……さようなら、みんな。元気でね」
ぼくらは門を出て、馬型のモンスターに二人ずつまたがる。
イーファを後ろに引っ張り上げ、アミュとメイベルが無事乗り終えたことを確認すると、ぼくは皆の方へと顔を向けた。
「……」
別れの言葉は、すぐには出てこなかった。
ほんの一月ほど、共にしただけの間柄だ。なのに、驚くほど様々な思いが湧き上がってくる。
もしかすると……魔王として彼らと志を共にする道も、あったのかもしれない。
ただ、それでも。
「……それじゃあ」
ぼくは、寂しさの混じる笑顔で手を上げた。
「みんな、またいつか」
結局出てきたのは、前世で巣立っていく弟子たちにかけてきたような言葉だった。
皆がそろって、大きく手を振る。
「バイバイ、セイカ!」
「またなー、魔王様ー!」
「余たちのことを忘れるでないぞ!」
「元気でなー!」
「いつか、人間の国でも会いましょう!」
「いつでも遊びに来ていいよ! フィリ待ってるから!」
「ありがとうございました、魔王様!」
ぼくも手を振り返す。
荷馬が、ゆったりとした速度で歩み始めた。
里が遠ざかっていく。
前に向き直ると、一月半前に通った道が延びていた。二日もあれば森を出て、人間の村までたどり着けるだろう。
なんだかずいぶんと長い間、あの地で過ごしていた気がする。
前世でよく耳にした異界で暮らした逸話のように、戻ったら何十年もの時が経っていた……なんてことはないだろう。
ただ少し、記憶に残るような出来事が多かっただけだ。
もしかすると……異界に取り込まれるとは、その程度のことなのかもしれない。
ぼくの父であるというギルベルトなる男が、神魔の者たちと心を交わし、あの地で所帯を持ったように。
離れ行く里を、ぼくは再び振り返る。
小さくなった白い巨石の門の向こうで――――皆はいつまでもいつまでも、手を振り続けてくれていた。
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