余命譲渡

とまと

第1話



 病院とも違う。


 ここには独特の匂いがある。


 スタッフに案内されて、日の光が差し込む明るい部屋へと足を踏み入れる。


「母さん」


 車いすに座る母に声をかける。


 ああ、心臓が口から飛び出しそうだ。


 私の後ろにはスタッフがメモを片手に控えている。


 お願い、お母さん。


 すっかり髪が白くなった母。それでも、毎日鏡を見て髪の毛を整えている。


 今日はきっちりと後ろで髪を結んでいる。だから、大丈夫。


 大丈夫なはずだ。


 後れ毛も残さず髪を束ねた母が振り返る。


「はい?」


 心臓がより激しく波を打つ。


 母の目が私の顔を見る。


 私だよ。名前を呼んで。


「何かしら?」


 ああ、胸の奥がギューッと締め付けられる。


 娘の私にはそんな丁寧な言葉は使わない。


 母は、「何だった?」とか「どうしたの?」とかちょっと方言が混じったイントネーションで娘の私には話しかける。


 手に汗がにじみ出る。恐怖でどうにかなりそうだ。後ろのスタッフの目が怖い。


「何って、用事がないと来ちゃだめなの?」


 お願い、私の名前を呼んで。お母さん、お願い!


「いえいえ、そんなことはないですよ?ちょっと待ってくださいね。今お茶をお出ししますから」


 ああ、ダメだ。


 相変わらず母の言葉は他人行儀だ。


 他人行儀な……丁寧な言葉。


 お茶をお出しするなんて……。


「あら?ここは、どこだったかしら?私の家じゃなくて……」


 ああ、駄目だ。


 今日はちゃんとボタンも掛け違えてないし、髪の毛もきれいに整えてるから……。比較的大丈夫な状態だと思ったのに。


 娘の私のことは分かるくらいには……大丈夫だと思ったのに……。


「あなたのお家だったかしら?」


 母さん、私は、あなたの娘の則子です。


 ここは、母さんが入所している特別老人ホームです。


 私の後ろに立っていたスタッフがペンを動かしている。


 やだ、駄目。違う、まだ、そうじゃないっ!


 ペンを止めると、スタッフの女性がすっと腰を落として車いすの母と目線を合わせて話しかけた。


「佐山さん、娘さんがいらしてくれましたよ、よかったですね」


 手が震える。


 何でよ、何で、どうして……。


「娘?則子が?」


 母の視線はが、私を通り過ぎドアの入り口へと移る。視線の高さは、ずいぶん下の方に向いている。


 母さん……今日の母さんは、何歳の則子の母さんなの?


「どこに?則子、勝手に出歩いちゃダメじゃないのっ!危ないんだからっ!」


 母さんが車いすから立ち上がろうとして体が傾ぐ。


「危ないっ!」


 とっさに伸ばした手は母には届かず、スタッフが傾いだ母の体を支えてくれた。


「さぁ、佐山さん、リクリエーションルームへ行きましょうか」


「リクリエーションルーム?そうね。そうだったわ……」


 認知症の母の意識が現代に帰ってきた。


「あら、あなたは見ない顔ね?新しいスタッフさん?」


 現代に帰ってきたのに、母の中に現代の則子はいない。


 スタッフが、複雑な顔をする私に軽く会釈をして車いすを押していく。


 ダメだ。ショックを受けてただ突っ立っているだけでは。


「やだな、母さん。則子だよ。娘の顔くらいちゃんと覚えてよ。ほら、目元なんか20年前の母さんにそっくりでしょ?大体、一昨日はちゃんと私のこと分かってたじゃない。昨日ちょっと合わなかっただけで忘れちゃった?」


 車いすの横を歩きながら母に話しかける。


 スタッフにも聞こえるように。


 そう。一昨日は私のことを則子と呼んでくれた。


「則子?あなたも則子というの?私の娘も則子っていうんですよ。もう、最近反抗期がひどくて、顔を見てもプイッとすぐに部屋に引っ込んじゃうの」


 その則子だよ。


 反抗期、ごめんね。長かったよね。


 中学高校と。そのあともどう接していいのか分からず口をほとんど聞かなかったのが3年くらい続いたけれど……。


 いつも私のことを心配してくれてた。


 話はしてないのに、受験勉強していた私の部屋にいつも温かい夜食を運んでくれた。


 それは、くそばばぁと八つ当たりした日も同じで……。


「今年は受験で、ストレスも大きくて則子も大変なのよね。私には夜食を作ってあげるくらいしかできなくて……ふふ。でも、どんなに反抗期で口をきかなくても、夜食はちゃんと残さず食べて、朝には食器が洗って置いてあるのよ。それが、娘にありがとうと言ってもらっているみたいで……」


 母さん……。


 あれは、くそばばぁと言ってごめんなさい。生意気な口をきいてごめんなさい。心配かけてごめんなさい。素直になれなくてごめんなさい。


 ずっと、ごめんなさいの気持ちだったんだよ。……でも母さんには、あれは「ありがとう」って言葉に映ってたんだね。知らなかった。


「まぁ、素敵な娘さんですね。反抗期の時は、私は母親に感謝する気持ちなんて全く持てなかったですよ」


 スタッフが母の言葉に返事をして、ちらりと私を見た。


 私はそれに苦笑いを返す。


 リクリエーションルームにつくと、すぐにスタッフは別のスタッフを呼んだ。


「佐山さんをお願いします。則子さん、こちらへどうぞ」


 ぎゅっと胸の奥が締め付けられる。


 やだ。


 話をしたくなんかない。


 現実を……現実に向き合いたくなんかないよ。


 それでも、施設側と、利用者の3か月に1回の話し合いの場をキャンセルすることはできない。


 スタッフに促されて、机と椅子、小さな本棚だけの小部屋に通される。


「どうぞ、おかけください」


 奥の椅子に腰かけると、向かいにスタッフの鈴木さんが座った。


 手に持っていたメモをした紙を置き、どこからか取り出したファイルに挟みこんだ。


 施設内での、母の様子や、今後の対応などこまごまとした報告を受けたが、まるっきり頭の中に入ってこなかった。


 母の認知症は進んでいる、ただその事実だけが心臓に重くのしかかる。


「どうしますか?」


 スタッフの鈴木さんが、1枚の紙を取り出してテーブルに置いた。


「申請を出しますか?」


 寿命譲渡申請書――。


 用紙の一番上にはそう書かれている。


 寿命差出人の欄には母の名前。


 母の右上がりの字だ。間違いない直筆。


 譲渡寿命期間は最大の5年。


 寿命受取人には私の名前が書かれている。




 何の神様のいたずらなのか、ある時突然、人々は余命が分かるようになった。


 正確にいえば、残りの寿命が10年を切るとアラームが点灯するのだ。


 そして、さらなる神のいたずらは寿命を自由に受け渡すことができるようになったことだ。


 ある者は死から逃れるために人から寿命を奪い、またある者はお金を得るために寿命を売った。


 秩序のない寿命のやり取りで世界は混乱した。そこでルールが出来上がった。


 譲渡できる最大値は5年まで。一人に5年渡すこともできるが、1年ずつ5人に分けてもいい。1日ずつ多くの人に渡すこともできるが、合計5年を超えて寿命を渡すことはできない。


 年上から年下に渡すことはできるが、年下から年上の者に渡すことはできない。子供の寿命を親がもらうことはできないのだ。


 渡す側、受け取り側、双方の合意が必要。合意には第三者による立会が必要であり証拠を残さなければならない。無理強いを防ぐためだ。


 百歳以上の者が寿命を受け取ることはできない――など、例外も含めいろいろな決まりができた。





「お母様が条件としたのは、以下の場合ですが……すでに条件を満たしていますので、いつでも申請が可能です」


 申請は役所に。役所から専門家に回され、電話がかかってきて日程を決め、カウンセリングののち、寿命の受け渡しが実行される。確か、そう説明されたはずだ。


 母さんが示した条件。





 認知症が進み、子供の顔が分からなくなってしまった時





 記憶が呼び起こされる。


 あれはまだ、母が認知症になる前だ。


 母と二人でテレビを見ていた時のことだ。父の7回忌を終えた日だった。


「そろそろ母さんね、則子に寿命を渡そうかと思ってるのよ」


「は?何を言ってるの?」


 テレビではちょうど、寿命譲渡制度が始まって3年がたったという特集をしていた。


「いらないよ。ほら、テレビでもインタビュー受けてる人が言ってるじゃん。親に長生きしてもらいたいからあげると言われても断るって」


 母が首を傾げた。


「でもねぇ、このまま長生きしても……」


 父を亡くしてからの母の口癖を久々に聞いた。1年くらいは寂しさからかよく言っていたセリフだ。


「あのね、簡単に受け渡しはしないの。いざという時のために取っておかなくちゃ」


「いざ?」


「例えば、私が子供を産んで、その子供の命が成人前に尽きると知ったときとか」


「孫のためにとっておけと?だったら、早く孫の顔を見せてよ?孫の顔を見たら、思い残すこともないだろうし」


「思い残すこともないんじゃなくて、孫がかわいくて死ぬに死ねなくなるの間違いでしょ?」


 ふふふと笑いあって、それもそうだとその場は終わった。


 だけれど、それから少しして母は弁護士を呼んで譲渡書類を書いたのだ。


「母さん、私、母さんの寿命はいらないから」


「うんうん、分かってる。だから、譲渡条件をね付けるから。例えば、末期がんでただ痛みに耐えるだけの日々に突入したら……」


 ああ。


 父親の姿を思い出す。


 そうだ。


 父はとても苦しんで苦しんで、苦悶に満ちた顔をして亡くなった。


 どれだけ痛み止めの薬を使っただろう。それでも訪れる痛みに……。父はなんと言っていただろうか。


 母は、どんな気持ちで父を見ていただろうか。


「あ、それから、もし植物状態になったら。脳死ってやつ?延命治療を受けるよりも、寿命を則子にあげるわ」


 それは確かに。脳臓器提供カードみたいに、脳死時の寿命提供カードを携帯する人も徐々にではあるけれど増えてきている。


 年下から年上に寿命を渡すことは禁止されているが、脳死時のみ親や姉兄への寿命提供は認められている。


 天涯孤独の者は、寿命バンクへ寄付することも可能だ。長く生きられない子供たちに提供されている。


「えーっと、あとはどんな時に譲渡することが多いですか?」


 母の質問に弁護士がにこやかに答えた。


「そうですね、事業に失敗したり何かして、死を考えるような場合、……自殺した場合とか」


 あれ?


「自殺って、その時死ぬのに寿命は残っているんですか?」


「ああ、寿命というのはあくまでも神様が決めた生きられる時間です。それに逆らって命を絶つのが自殺。命を絶たれるのが他殺ですね。両方ともまだ寿命が残ったまま亡くなりますから、寿命を誰かに渡すことができます」


「ああ、そういうことなのねぇ。自殺すると地獄に落ちるとか、人を殺すと地獄に落ちるとか、神様に逆らっているなら当然よねぇ」


 と、母さんが納得したように手を打った。


 そうなのかな?


「でも、子供にたくさん寿命を渡したくて自殺するとかないの?それでも地獄?」


 弁護士が首を横に振った。


「自殺してたくさん寿命を渡すことができても、指定した相手に渡せるのは5年までです。それを超えた分は寿命バンクに行きます」


「あら、そういう場合でも5年が上限なのねぇ」


「そうですよ。保険金殺人じゃないですけど、寿命狙いの自殺に見せかけた他殺が増えても問題ですからね。今のところ5年を超えて譲渡が認められているのは一つだけですね」


 遺書制作と似たところがあり、寿命受け渡しに関わる業務の多くは弁護士が担っている。そのため、弁護士はこの筋の専門家と言ってもいい。


 知らないことをいろいろと知っている。


「もう少し身近な例でいえば、浮気をしたら寿命を渡すとか、借金をしたら寿命を渡すとか、夫婦間で取り決めがなされている場合もありますね」


「浮気や借金で?」


 そんな軽い条件で寿命のやり取りをすることにびっくりして声を上げる。


「まぁ、ある程度の抑止力にはなっているようですが……。裁判での凡例では90日までが妥当と出ていますけれどね」


「たったの3か月?」


 今度は母が声を上げた。


「浮気されたほうは、どれだけ寿命の縮む思いをするか!借金を返済するために身を粉にして働いてどれだけ寿命を縮めるか!分かってないっ!人生台無しにされるんだから、5年でも少ないくらいよっ!」


 人生台無し……。確かにそう考えたら、人生をやり直すと考えると5年では少ないのかもしれない?え?そうなの?


 弁護士の顔を見ると、無表情。


「ほかには、認知症になった時にというのもありますよ」


 弁護士が話を続ける。


「寿命譲渡に関しては判断能力がない人から受け取ることはできなくなりますから。精神疾患、認知症など判断能力がなくなる前に書類を準備する人も少しずつ増えてきていますね」


 母が小さく頷いた。


「そうね、認知症になって人様に迷惑をかけて生きていくのはいやね」


 弁護士が続ける。


「では、どれくらいまで症状が進んだらと条件を付けますか?徘徊が始ったとき、オムツが必要になったときなど、人によって条件とするところは様々です」


 下の世話を人にしてもらわなければならないことが耐えられない人もいるっていうことかな。


 徘徊は探し回る家族に迷惑をかけたくないということだろうか?


「そうねぇ……オムツなんてのは、認知症じゃなくても必要になる場合もあるだろうし」


 実際に父がそうだった。末期がん。最期はベッドから立ち上がることもできず……。


 母が私の顔を見る。


「則子はどう思う?」


「えー、どうって……自分で考えてよ!」


「じゃあ、則子のことを忘れたら……。則子の顔を見ても則子だって分からなくなったらってことにしようかな。則子も嫌でしょう?私に知らないおばちゃんだと思われたら」


 そうだ。


 あの時、私は頷いた。


「うん、確かに、悲しくて母さんと一緒にいたくないかも……」


 あの時は、確かに……。母が私のことすら分からなくなってしまったら、もう、何をもってして親子をやっていられるのか分からなかった。



 3か月ごとの症状チェックで、3か月前に……母は私を則子と呼ぶことはなかった。


「どうしますか?お母様の寿命を受け取る申請を出しますか?」


 と、3か月前に言われた。


「あ、あの、たまたま今日は症状が強く出ただけで、まだ母は私のこと分かる日のほうが多いですから」


 あれから3か月。


 徐々に、母の口から私を則子と呼ぶことは減っていった。


「どうしますか?お母様の寿命を受け取る申請を出しますか?」


 3か月前と同じ言葉がスタッフの口から出る。


 やだ。


 私のことを他人としか見ない母さんと一緒にいると寂しくなって悲しくなるけれど……でも……。


「い、いえ……その、まだ私のことを分かる日も、ありますから……」


「そうですか。では」


 書類がしまわれるのを見てホッと息を吐きだす。


 スタッフと一緒に部屋を出る。


「次のチェックは3か月後となりますが、もしその前に気が変わることがありましたらいつでもおっしゃってください。こちらの判断としては、寿命受け渡し条件はクリアしているということで、いつでも書類を用意することはできますので」


「はい。あ……ま……す」


 ありがとうございますという言葉をはっきりと口にできずに、小さな声でつぶやき頭を下げる。


 スタッフが立ち去るのを見送りながら、もう一度小さく息を吐きだす。


 胸の奥がチクチクと痛い。


「ああ、うらやましい。認知症になったら寿命譲渡してくれるなんて、本当にうらやましい」


 隣の部屋から出てきた少し年上の女性のつぶやきが耳に入る。


 うらやましい?


「私のどこがうらやましいんですか?」


 普段なら見ず知らずの人の声が届いたからといって、つっかかるような真似をしたりはしない。


 だけれど、あまりにも心ない言葉に思わず声が出た。


「だって、5年も早く死んでくれるんでしょう?」


 ああ、ああ、あああっ!


 蓋をしていた気持ちにぐさりと矢が刺さる。


「親が早く死ぬのを望む子供なんていないでしょう?」


 私の言葉に、目の前の女性の目が釣り上がった。


「きれいごとね。このまま認知症が進めばどうなるか……。私の母は私のことを泥棒呼ばわり。部屋に入れば常に排せつ物の匂いで鼻をつまみたくなる。スタッフからの報告はいつも誰に手を上げた、誰に暴言を吐いた、そのたびに私は、スタッフにもお相手のご家族にも頭を下げ、申し訳ありません、申し訳ありませんと……」


 暴力、暴言……ひどい認知症患者もいると聞いたことはある。


 確かに、もし……もし、母がそうなってしまったら……。


「これがあと何年続くのか、寿命が1日でも縮まるのならば……、寿命譲渡申請書を用意してもらっていたあなたがうらやましいと思っていけないの?ねぇ?」


 胸が詰まる。


 胸が詰まって、何かを吐き出さないと苦しくて。


 目の前の女性も追い詰められている。きっと、吐き出したくて、吐き出したくて……。


 死んでほしいと思うのはいけないことなんてきれいごとだって。その立場になれば、壊れていく親を見るのは辛い。いつまで続くか分からない戦争のような日々は辛い。いっそ死んでくれと……そう思ってしまうほどの苦労がこの女性にはあるのだろう。


 だけれど、私には私の辛さがある……。


「じゃぁ、あなたに私の気持ちは分かる?母の残りの寿命は10年あるかもしれないけれど、あと3年しかないかもしれない……。あと3年しかなかったら、5年の寿命譲渡を行ったら……その日から3日と母は生きていられない……」


 ずっとずっと母から寿命をもらうことを恐怖していた気持ち。


「私が寿命を受け取ること、イコール、母を殺すようなものだわ……ねぇ、死んでくれたらいいのにと思うことと、実際に殺してしまうことは全然違うのよ?」


 そう。


 母が死ぬかもしれない。


 いつか死ぬけれど、死ぬ日を速めてしまうのが自分だなんて……私が生きるために母の命を削るなんて……。


「きれいごと、きれいごとかもしれない。死んでほしいと思うほど辛い思いをしているあなたは大変だと思うけれど……でも、母の命を……幕引きを、自分の手にゆだねられた人間の気持ちが分かる?殺せるの?死んでほしいと思っているなら殺せばいいじゃない。でも、殺せないでしょう?施設に入れずに一緒に山にでも登ればいいじゃないっ。すぐに事故にあうんじゃない?寿命を受け取る申請書類が、母を殺す申請書かもしれないんだ。申請書を出しますかと尋ねられるたびに……母を殺しますかと言われているようで。それを、うらやましいなんて……うらやましいなんて……」


 感情的になった私と女性の言い争いを聞きつけて慌ててスタッフがやってきた。


「あら、則子だめじゃない。お友達を泣かせちゃ。ちゃんと謝りなさい」


 スタッフに押された車いすに母がのっていた。


 目の前の女性は泣いている。


 そして、私の目からも涙がこぼれた。


「ごめんんさい、しなさい則子。ほら、泣かないの。仲直りして」


 母の言葉に、泣きながら女性に頭を下げた。


「ごめんなさ……い」


「いえ、あの、お互い、頑張りましょう……」


 小さくそういって女性は帰っていった。


「ちゃんと謝れたね。偉いね則子。今日は則子の好きなおでんを作ってあげようか?」


 今日の母さんの中の則子はいくつなんだろう。


 私の顔を見て、私だと分からないことが増えた。


 だけれど、母の中に私はいつもいる。


 ねぇ、母さん……。


 私たちはずっと親子だよ。母さんが私のことを則子だと呼んでくれなくなっても。


 私は母さんを母さんだと呼び続けるし、母さんの皺だらけの手を握り締めるし。


「あら?どうしたの、あなた?どこか具合が悪いの?大丈夫?」


 しゃがみこんで車いすに座る母さんの膝の上に頭を置いた。


 また、則子だと分かってもらえなくなってしまったけれど……。


「頭が痛いの?気分が悪いの?」


 母さんが頭をそっと撫でてくれる。


 母さんは他人だと思っているかもしれないけれど、私は母さんに頭をなでてもらっていると分かっているから。


 母さんの昔から変わらない優しい手で、なでてもらっていると思っているから。


 死なないで。長生きして。


 死んでしまったら、母さんの中にいる私も死ぬんだから。


 だから、母さんの寿命は……もらわないよ。ああでも、何でもらってくれなかったのって怒られるかもしれないから、1日だけもらおうかな。


 そうすれば、私が死ぬ前の最後の日に、また母さんと生きていることになるでしょう?


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