第10話 昔の夢を見る

「新しい証拠は出てないんですか?」

「今のところはね。ブレスレットから弘臣ひろおみのものらしき指紋が出れば良かったんですが、あれからは社長のものしか出てきませんでしたから」


 しかしそう言う黒江くろえの顔は、全く残念そうではなかった。


「なんでそんなに楽天的なんですか?」

「ああいう連中は、目の前のことしか考えていません。今が楽しければそれでいいし、逆に切羽詰まればそこから逃げだそうと下手な手をうちたがる」

「だかえあえて泳がせると?」

「そういうことです。──あなたも何か、追加で手を打ってくれますか?」


 黒江に問われて、常暁じょうしょうは苦い顔をした。


「……少々事情があってな。今日の夜、寺からの使いが来ないうちは、いつものようには動けん」


 あかしがその言葉に驚いていると、黒江がため息をついた。


「あなた、それができなきゃただのポンクラじゃないですか。早々になんとかなさい」

「俺はポンクラじゃない」

「ではチックタックにショート動画を三本あげてごらんなさい。今は学生でもそのくらいやってみせますよ」


 常暁が釘でも飲みこんだような顔になった。


「ああ、無理でしたね。この前、ファミレスでドリンクのボタンを全部押して摩訶不思議な物を錬成してましたから」

「あれはあれで美味かった」


 常暁の味覚はともかく、これで彼の様子が変だった理由が分かった。灯はほっとすると同時に、気になって彼に聞いてみる。


「寺からの使いって、何か特別なアイテムを持ってきてくれるんですか?」

「ああ」

「じゃあ、ゲームのレベルアップみたいな派手なことになるんですか!? それならちょっと見てみたいです!」

「いや、風呂に入る」

「風呂?」

「風呂」


 この坊主の言うことは、やっぱりよく分からない。灯が首をかしげていると、常暁が何か説明しようとした。


「──聞くと長くなりますよ、その程度にしておきなさい。灯くん、明日は仕事でしょう? 私の車で送ります」

「ありがとうございます」

「心配せず、今日はゆっくり休んでください。常暁は昔から、なんだかんだ自分でなんとかしてきましたから。解決できなかった事件は一つだけ」

「それ以上言ったら呪う」


 常暁がにらんだが、黒江は無視した。


「事件の方も大丈夫ですよ。三代川みよかわさんも、金崎かなさきくんもいますから」

「……はい」


 まだ不安は残るが、灯は黒江の言葉を信じることにした。




「……やっと、会えた」


 時刻は夜。天咲あまさき駅で待ち合わせていた小坊主は、会った瞬間から息を切らしていた。腰まであるキャリーケースを二つも引いていて、周りの人がいぶかしげにこちらを見てくる。


「あのね、駅の出口がよく分からないなら、せめて一カ所でじっとしててくださいよ! こっちで探そうにも、うろうろされてたら永遠にすれ違いじゃないですか!」

「そっちの方が早いと思ったんだが」


 常暁は頭をかいた。前の事件で電車には慣れたと思っていたのに、大きな都会の駅になると何回通っても忘れてしまう。


「とにかく、これ。確かに渡しましたからね」


 小坊主から大きなキャリーケースを受け取って、常暁は安堵した。


「悪かったな。……そっちも俺の荷物か?」

「いいえ。悪いと思うなら、今夜の僕はあなたと食事してたってことにしてくれません?」

「構わないが、何をする気なんだ?」

「山で暮らしてると、なかなか手に入らないものがあるんですよ。みんなにも頼まれてるし」


 もう一つのキャリーケースに手を掛け、小坊主が言う。彼の目が完全にすわっていたので、常暁はなすすべなくうなずいた。


「では」


 小坊主はそう言い残すと、目にも見えない速度で走っていった。あっという間に粒になっていく彼を見ながら、常暁はため息をつく。タクシー乗り場まで連れて行ってもらおうと思っていたのに、あてが外れた。


 ようやく車を捕まえて郊外のとある屋敷へ向かう。そこは剣道場として使われているが、実は常暁が属する寺の持ち物だ。


 街から遠すぎるので別宅には使えないが、霊的に守られているので儀式を行うにはうってつけだ。


 屋敷の周囲には木々が茂り、その間から木壁と瓦屋根が見える。近づいていくとスポットライトが点灯するので、足元に不安はなかった。すでに寺の人間が来て、必要なものは運び込まれているはずだ。


 道場に入ると、がらんとした板間が見える。音がよく響くよう加工されている床のため、乗るときゅっという音がした。


 袈裟を脱いで下衣だけになってから奥を見る。掛け軸と道場主の写真が飾ってある床の間の前に、祭壇ができていた。


 檀上は花で覆われており、その合間に果実や乳が飾ってある。祭壇の四方には水瓶があり、香がたいてあった。鏡、刀、矢といった破魔の物品もそろっている。


 必要なものがあるのを確認し、常暁は音楽プレイヤーを起動した。機械であっても、これは単純な仕組みだからよく分かっている。


 楽が流れてきた。常暁はキャリーケースを開けて、中から厳重に包まれた漆箱を取り出す。箱の中には、茶色の粉末が入っていた。


 ただの粉ではない。ショウブ、ゴオウ、ジャコウ、センキュウ、チョウジ、ウコンなどの三十二味を混ぜて一つの器でつき、篩でこして加持したものだ。取り出した粉を杯にうつし、湯を加えて混ぜて祭壇におく。


 左の掌を上にし、右手は人差し指と親指で円をつくる。これから力を借りる、神の印だ。


「タチタ・アンラケイ・ダヤニキャレイ・ミレイキレイ」


 祭壇を結界し、水にも同じ真言を二十一度唱える。加持した水を四方に撒き、粉を混ぜた湯に向き直った。


「タニャタ・サケイチ・ビケイチ・ビケイタバチ・ソワカ」


 これを心が無になるまで、百八回繰り返す。百八という数は体にしみついているので、終わったことは感覚でわかる。


 常暁は湯の入った杯を持って立ち上がり、道場の外に出た。周りはぐるっと木で囲まれているから、人から見られる心配はない。


 道場の裏庭には川が流れている。その側で、常暁は湯をかぶって浴する。これを風呂と言い換えてみたのだが、灯には伝わらなかったようだ。


 体に湯をかけ終わってから、残った粉や供え物を川に捨てる。それから剣道場で服を着替えて、隣の弓道場に移動し座禅した。


 体がすっとするのを感じる。まとわりついた何かがはがれ落ちるように、息がしやすくなっていた。


 隣からもれてくる音楽が、かすかに聞こえてくる。それを聞いているうちに、常暁はうとうとし始めた。


『──常暁』


 誰かが自分を呼んでいる。その声はなつかしく、聞き覚えのあるものだった。


がく


 発した己の声は、妙に高い。子供時代のころのものだ。──ああ、夢を見ているのだとその時気付く。


 気付いたからといって、目が覚めたりはしなかった。子供の体に入ったまま大人の意識があるという、奇妙な状態がしばらく続く。


『かくれんぼしようぜ』


 そう言って笑う、茶色い癖毛が特徴的な男子。顔立ちは女の子のようにかわいらしいが気が強く、下の世界ではしょっちゅう喧嘩しているそうだ。


 檀家であった父がそのやんちゃさを見かねて、寺で座禅や写経をさせていたが、そんなもので学の性格は変わらなかった。しょっちゅう僧の目を盗んでは逃げだし、年が近い常暁を見つけては遊びに誘ってくる。


 ──まあ、子供のすることだから十回に九回は見つかって連れ戻されるわけだが、たまに一緒に遊べることがあった。そういう時に学が決まって提案するのが、「かくれんぼ」だった。


 常暁の方が少し年上だったから、走ったり勉強で勝負するといつも学が負ける。それなのにいつも、かくれんぼだと見つけられないまま時間切れになってしまうのだ。


『お前、自分が勝てる勝負しかしたくないのか』

『だって、勝った方が気分いいじゃん』


 そう言って笑う学に対し、なんとなく常暁は押し負けてしまう。大人なら大体あしらい方が分かるのに、同世代となると慣れていないのだ。


『よし、俺が隠れるから探してみろよ!』


 学が駆けていく。その小さくなる背中を見て、常暁は目を閉じた。五十まで数えたら探しに行くんだったか、それとも三十までだったか……。


「楽しい夢を見ているようだが、その辺で起きてもらうか」

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